川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

恋愛

元来恋愛が苦手である。短期的な恋愛がうまくいくためには、ある種わがままの押し付けあいを程よく行う必要があると感じている。何かの欲望を相手に押し付けなければ、物語は始まらない。図書館で同じ本を取るために、手と手が触れたとしても、この本が面白いという気持ちを相手に押し付けなければ、そこからの物語が発展していく余地がない。

 

もともとが内向的な人間なのであろう。何かの問題が発生したときに、真っ先に自分自身を疑う。あの時のあの言い方が悪かったのか、あの時にこれをしなかったのが原因なのか、常に自分と向き合ってしまう。誰かに何かを言えるほど、おまえ自身は最善を尽くしたのか。自分自身に厳しいとも言えるが、悪く言えば人に期待をしていないともいえる。

 

たまに、女性から遠慮しないでなんでも言ってと言われる。何となく手持無沙汰そうな隙間から垣間見える感情を理解しないわけではないが、別に遠慮などしているわけではない。何もない休日には本を読んで、ぼんやりと考え事をして、夜に酒に飲みに行けば事足りる。冷たい言い方をすれば、相手に期待するものが特にない。多分それは自分の本当の考えを理解してくれることはないと、最初から諦めているのだと思う。相手の期待を読み取って、サービス精神による行動を起こそうという時もないことはないのだが、それはあくまで義務感によるものであって、自分の欲求からくる行動ではないため、自分の気持ちに嘘は付けないという謎の漆黒の意志に阻まれる。そうすると繰り返し変わることのない休日を過ごす。学があるとは1人で遊ぶことがうまくなることだと、何かの本で読んだが、その通りかもしれない。

 

何かのもてる技術を論じている本で、女性に言い訳の余地を与えることが重要だと書かれていた。一旦は抵抗するというポーズをとらせる必要があるというのだ。不倫をするときに、強引に迫られて。ホテルに行くのに休憩という名目を取って。自分の意志を超えたため、仕方がなかったの。そういう言い訳をもたせる余地が必要なのだそうだ。

 

どうしてもそういう論客とは息が合わない。思えば自分にはわがままさとずるさがない。言い訳をするなら、やらなければいいのに、といつも思う。悲しい、寂しい、会えなくて震える。身に余る感情を持て余しているのであれば、具体的な反省と行動をしたほうがいい。わざわざ相手の感情を測るような言動を発し、その反応を見て対応を決めるべきではない。目の前の人がどんな人であれ、その人にはその人を成り立たせる背景があり、自分がもてあそんだり踏みにじっていいものなどなに一つとしてない。一つ歯車が異なればその人になっていたのかもしれない。そうであるのならば、1人の人間として畏敬の念を持って対峙するべきだといつも思っている。それは老若男女変わりはない。子供が相手だろうが、遊びであろうが、1人の人間として対峙しているならば全力を持って対応する。そういうずるさのない公平性は、女心とは非常に相性が悪い。私だけを見て。いつまでも愛している。不確的な要素が多いこの世の中で、感情に絶対などということはあり得ない。歯の浮くような嘘とも思えるセリフを吐くことなど到底できない。そういう気持ちを持ってしまうのだから、相対する女の子からしてみれば、遠ざかるのは無理からぬことであろう。

 

決して理解をしないという意味ではない。恋愛をすることで、世界がかわってみえる。それしか見えない。個人的な経験からしてもよくわかる。坂口安吾が言っていたが、「恋愛は人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。」その言葉には全面的に同意をする。ただ常に冷静な目線でしか物事を見ることができないのは、誰に言われたわけでもないのに勝手に無駄に業を背負って、自分を律し続けてきた生き方の弊害だと思う。

 

そいういう意識が強かったので、慣れようか変えようか自分の意識に一石を投じるために、一時期キャバクラによく通ってた時期があった。別に自分主体で行っていたわけではないが、行く機会がいっぱいあったので、多い時では月に15回くらい行っていた。単純にみんなで騒ぐのは楽しかった。感想はそこに尽きる。誰かと喋ることを楽しまなければ、相手も楽しくはないだろう。自分が楽しめると分かっただけでも、それは大きな収穫であった。今でも女心などわかろうという気持ちは微塵もないが、楽しい、辛い、悲しい、そういう人の純粋な気持ちはわかろうとしているつもりである。酔っ払ってはいるがキャバクラでストレートに結婚してと言われた時は、素直にドキっとしてしまった。真っ直ぐにいうその言葉が潔くとても好感がもてた。大切なのは自分の気持ちを、はっきりと自分の言葉で伝えることなのだと思う。純粋な意思による行動は人に影響を与える。

 

自分がどうしたいとはっきりといえる人に、昔からあこがれを持っていた。平凡な家庭で生まれた自分には、確固たる意志がないとずっと思っていたからだ。でも、自分にコンプレックスがあっただけに、誰よりもそれを探していた。自分の本当の気持ちを感じ取るのは案外センスと経験がいる。どうしたいという気持ちがなくとも、生きることができる世の中だからだ。こうするのが当然。こうしなければいけない。自分自身の気持ちを問う前に、決まり切った世間という枠に当てはめられる。恋愛もある意味同じだ。20までに童貞を捨てなければ格好が悪い。クリスマスに1人だと罰が悪い。人が生きていく一生の物語には、その人にしか当てはまらない環境や気持ちがあるというのに、周りを見て流されてしまう。だからこそ半沢直樹のような、復讐心という明確なエネルギーが存在する話に、憧れを抱くのだと思う。

 

HUNTER×HUNTERにでてくる、ゴンの師匠であるウィングさんはこう言いている。

「君たちは発展途上です。器もできていない。出来るだけ自分の器を大きく育てなさい。そのための修行なのです。ガンガン鍛錬に励み、同じくらい遊んで人生を楽しみなさい。 ー 何を思い、何に怒り、何を好み、何を求めるか、どこを旅し、誰と出会い、どんな経験をするのか、それら全てがあなたたちの未来を形作るのと同様に、あなたたちに最もふさわしい念の形を示してくれるでしょう。」分からないのであれば、探せばいい。成長に年齢などは関係ない。この発言にでてくる念を恋愛と変えれば、それだけで立派な教訓を語っていると思っている。

 

もとは人にものすごく気を使う質である。一見すると、何も気を使っていないように見えるのだが、そう見えるように細心の気を使っている。隣にいてくれるのであれば、幸せにしなければならない。そんな謎の騎士道が、恋愛の邪魔をする。幸せでない自分自身が誰を幸せにできるのだろうか。その自問自答に面倒くさくなって、恋愛を避けてしまう。負の連鎖である。互いのわがままを程よくぶつけ合わなければ、人との関係性は長くは続かない。気を使っているばかりでは、お互いの関係性につかれてしまう。

 

自分のわがままさとは何なのだろうか。一体全体自分は何がしたいのだろうか。そう考えると、それを探す行為そのものがいつも自分が追い求めているものであった。いつも自分にあるのは、何かしらの欠如感であった。それだけが、自分の原動力である。自分に足りていない何かを求める過程で、いろいろな人に出会い、いろいろな経験をした。時には辛く、厳しく、孤独ではあったが、一緒にいてくれた人たちのおかげで、今でも思いだすと光り輝いている。少なくともそれらは、自分の欠如感を埋めてくれた。それと同時に、経験を経れば経るほど、自分の小ささを思い知らされた。それは多分これからも一生変わらないと思う。百年にも満たない短い一生の中で、もがき悶えながらここにはない何かを求めて生きていくのだと思う。それでもいいと、一緒に笑いながら地獄に飛び込んでくれる人をずっと探しているような気がする。

 

恋愛について考えれば考えるほど、恋愛からどんどん遠ざかっている。というより何かを考えるほど俗世から離れていっている。100人のうち99人には理解されないだろう考えだと思う。これを読んで意味がわからないと、どんびく人が多ければ多いほど、恋愛から遠ざかっている立派な証である。「一緒に地獄に飛び込んでほしい。」ワークライフバランスや安定な生き方を求める時代に、何を言っているのだろうか。そんなことは分かっている。それでも、こんなわけのわからない理屈を「これだから男は」と一笑に臥せて、笑って吹き飛ばしてくれる1人の人がいれば、そんな人と出会いたいと思っている。針に糸を通すようなストライクゾーンであることだけは自覚している。

煙草

結婚を考えている女性の条件に挙げられているのが、煙草を吸わないということをよく耳にする。煙草など百害あって一利なし。吸っているだけで健康を損なうなど言語道断。お金もかかるし、吸うことの意味が分からない。本人の体調を考えるとやめてほしいと思います。いろいろな意見を耳にする。普通に生きていればそうなのだろう。吸っているだけで周りの人への影響もあると考えると、反論の余地はない。

 

自分にとって煙草は遅咲きのデビューであった。周りに煙草を吸う人は多かったから、特段抵抗はないのだが、曲がりなりにも運動をたしなむ自分としては、一生吸うことはないだろうと遠い存在であった。喫煙所で仕事は進むんだよ。そうよく言われていたが、吸わなくても喫煙所に入り浸っていたので、何の不自由もなかった。そんな中、どうしようもなく自分の限界を超える仕事が与えられた。初めての若者が、熟練の人たちに対して時には20人にも及ぶ会議を自ら開き司会をし、状況を説明し、議事録を作り、疑問点をつぶしていく。そんな仕事を週に3~4回行う。考えるに限界であったのであろう。逃げたくても逃げられない性分と、仕事の責務と重圧に押しつぶされていた。

 

煙草は唯一の生き延びる方法だった。毎日が怖くて逃げ出したかった。そんなときに喫煙所で吸うことを選んだ。それしかできなかった。健康な体は大切だと思う。でも、もっと大切なのは生き延びることだろう。そんな仕事ならやめてしまえという方法もあっただろうが、上司を殴って辞めるのは最後の手段としてとっておいたため、最後から5番目くらいの手段として煙草を選択した。最後から4番目は自分の足の骨を折ることであった。会議10分前の心が凍り付く瞬間によく吸った。少しでも気持ちが落ち着くのは、自分にとって救いであった。

 

煙草とはしゃべる時間が物理的に制限される、珍しい行為である。呼吸の間にしゃべることはできるのだが、その行為そのものの性質上しゃべらなくても許される独特の雰囲気がある。煙は隠遁を想起させ、気持ちをも隠すことができる。吸いながら遠い目をしていても、特に違和感を持たれないため、色々な思案が頭に巻きあがる。情景とは臭いから想起されるものだと、アガサクリスティーの「そして誰もいなくなった」で描かれていた。煙草を吸っていていつも思い起こすのは、逃げたい自分の気持ちであった。今思えば甘ったれていたのだとよく思う。何事もそつなくこなし、自分の限界を自分で決めて、その枠の中で上司にかみついていた。井の中の蛙大海を知らず。何も知らない若者が自分の中だけの主張を声高に叫んでいた。そんな自分への戒めとして煙草を吸う。自分の苦しい気持ちを隠してでも、体を傷つけてでも、やらなければいけないことがあるのであれば、やるしかない。それは1から新しく生きようと決めた、覚悟の証でもあった。

 

繰り返して言うが、健康よりも人からの見え方よりも一番大切なのは生き延びることである。このご時世に推奨することではないのだが、行儀よくお利口さんでいて、自分の気持ちとの乖離に悩んで、どうしようもなく心が引き裂かれるくらいなら、煙草を吸ってみるという方法もあると提起しているだけである。少なくともそれで救われている人はいる。僕がそうだった。世間から煙草が悪者とみられているが、悪者には悪者の流儀と意義がある。

 

自分の健康のために吸わないでほしい。そういう女性は、幸せな人生を送ってきたのだろう。心が引き裂かれることもなく、健康的な人たちに囲まれて、そしてこれからもそういう人たちと関わって、幸せに生きていくのだろう。

 

何が幸せかもわからない自分には結婚などは荷が重い。喫煙所でだらだらとしゃべる汚いおっさんたちを見てほっとしながら、惰性で続けている煙草を吸いながらしみじみと思った。

 

 

 

 

二元論

幸せになりたいと誰よりも思っているはずなのに、常に佳境に立っている。平穏を手に入れるがために、苦難を歩んでいる。心静かに過ごすためには、何よりも先に動じなければいけないと思っている。少しは苦労を経て、人の感情が理解できる大人にはなったと思う。でも、たまに何のために生きてるかが、わからなくなる時がある。

 

幸せというと、公園で子供と親が手をつないで歩いているイメージが真っ先に浮かぶ。奇のてらいのない屈託のない顔で笑う様子だ。明るい日差しの中で心に不安がなく、日々満たされていなければ、その幸せを享受することはできない。生まれや環境も大きく影響すると思うが、幸せを享受できるのはある種の才能であろう。自分に当てはめてみようとたまに思うのだが、そうであることをいつも受け入れることができない。何かをしていても、今抱えている不安を常に考えてしまう。幸せで笑っている人をみると、それと同じくらい辛く苦しい人がいると考えてしまう。たまたま今までは平穏に暮らせているが、必ずどこかでそうでない時が現れる。そう考えると、自動的に苦難の道に転がり込んでいく。

 

考えすぎるなとよく言われる。考えようがしまいが、何も進みなどしない。休みの時は自分の時間を切り分けて女でも見つけて遊びに行けと。その通りでしかない。言いたいことは重々承知している。でも、根が臆病ものなのだと思う。明日には刑務所に入っているかもしれない。家が爆発するかもしれない。海王類に腕を食われるかもしれない。世界が核戦争の渦に飲み込まれるかもしれない。何があるかわからない人生に対して、無駄に考える時間を割いている。様々な状況を考えて、それらの感情を先に引き受けると言えば聞こえはいいが、いつも何かしらの不安を恐れ、恐れるからこそそれに対応できるよう自ら苦難に入り込んでいる。ただ、そこに割いた時間の分だけ、漠然とした不安に対する感度は高い。何かに対して漠然と不安を抱いたときに、その不安が実体となって現実の自分に降りかかり、それが不安の原因だったのかと理解することがよくある。その微かな不安も、先に理由がわかるようにもなってきた。理由がわかれば対策もうてる。物事には悪い面もあればよい面もある。どうあがいたって自分の臆病な感情を変えることができないのであれば、その感情を受け入れて、あきらめて生きるしかない。

 

弱い犬ほどよく吠える。人の心理は態度と逆説的にとらえられるように、臆病だからこそ平静を常に装っている。そして何事にも動じない人だと、周りから認識されている。でも初めての環境に立つといつも、誰よりも動じている。動じ続けて動じ続けて、すべての周りの感情を察知して、疲れてしまって、動じなくなっているのが本当のとこだろう。それは麻痺しているというのかもしれないし、心を失っているというのかもしれない。何かの危機的状況に直面した時に、逃げもせず隠れもせずかといって対策を打てるわけでもなく、ただ立っていることがよくある。いつかはできるようになると自分を信じてはいるが、どうこうしたくても今はできない。でも逃げるわけにはいかない。そうであるのならば、そこに立つことしかできない。経験的に案外自分が頑張りすぎなくても、怒られるか助けられるかしてどうにかなるものだと知っている。別に命を取られるわけではないのだし、時間が解決することなどいくらでもあると頭ではわかっているのだが、しんどいと思う状況に変わりはない。常に佳境に立っている。

 

佳境に立つことが多くなるにつれて、自分の感情すらも俯瞰的に見ることができるようになった。俯瞰的に見てしんどい自分と、しんどいことを耐えて時間が解決していく自分とを2つに分けてみるようになる。そうこうしていると、ここまでは大丈夫だろうという線引きが、少しずつ上がっていく。そうやって平穏を取り戻していくうちに、あいつならこれを任せても大丈夫だろうという、不確かな期待を背負わされる。地獄の循環の始まりである。何かをできるようになるにつれて、できないことを背負わされて、結果的にできるようになる。確かに筋肉はついているのだが、その繰り返しは精神的にであれ肉体的にであれ疲弊を残す。どこまでやっても限りのないその循環を永遠と背負い続けることになる。そんな話をしていると飲み屋のおっちゃんに言われた。「いつまでその十字架を背負い続けるのか」と。

 

好きな本に九鬼周造が書いた「いきの構造」という本がある。大正時代から読み続かれているだけあって、説得力が段違いなのだが、「いき」とは垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)なのだという。「いき」の根底には色恋があり、それをはねつけるだけの心の強さがあり、真剣さを免れるためのあきらめが必要なのだという。それはまさしく2元論である。色恋を手に入れてしまった瞬間に、残りの2つは失われる。色恋をはねつけるだけの、諦めと心の強さを持たなくては「いき」ではない。色恋を求めるために、「いき」になった部分が少なからずあるというのに、「いき」であるためには色恋を手に入れることはできない。「いき」な男には、恋焦がれる女の人に対して背中を向けながら「風邪ひくなよ」と一声かけて去っていく情景しか思い浮かばない。

 

幸せとは「いき」ではない。その幸せという安堵を手に入れた瞬間から、何かしらの部分で腑抜けてしまうのは否めないだろう。幸せになりたいと思ってはいながら、その幸せを脅かす何かに常に緊張しており、その状態を観念して諦めて受け入れるその動態こそを「いき」というのだから。どこまで追い続ければいいのだろうか。どこでどちらかを選択するその線引きをすればいいのだろうか。死ぬ前に幸せだったと、ふと思えればそれでいいのだろうか。

 

思えば常に大人になりたいと思っていた。どこまでいっても、たどり着けない自分の中の大人のイメージを探るように、ただひたすらに向かっていった。それを求めれば求めるほど、苦難を引き込んでいるような気がする。自分にとって大人とは自分の足で立っているというただの漠然とした概念である。そんなことないよ。誰かにすがってもいいんだよ。巷でよくうたわれてはいるが、いったんそこに腰かけてしまうと立ち上がれなくなるではないかと、勝手に恐怖をしている。誰かとともに同じ方向を向いて歩んでいけるのであれば、それがいいとわかっているのだが、今のこの荒んだ生活に誰かを巻き込むのは心苦しい。挫折と苦労の分だけ自己評価は低い。シンガポールを1代で作り上げたリークアンユーはこのように言っている。「人生の大半をこの国のために費やしてきた。私がすべきことはこれ以上ない。人生を通じて得たものはシンガポールの成功。諦めたのは自分の人生だ」と。時には自分の人生をも犠牲にする人もいる。

 

 これから先佳境に立たされるたびに、なんのために生きているのだろうかと、自分に問いただすことになるだろう。幸せになりたいのか。大人になりたいのか。自分の中で混じりあわない2つの命題を天秤にかけながら、見つめあいながら、程よい着地点を模索して行く必要があるのだろう。 

 

大人

自分の足で立って生きるかどうか。常にそれは生きていくうえでの命題であったと思う。今まで生きてきた中で、もうどうしようもなく逃げ出したいと思うことが数回あった。辛く、寂しく、孤独で、不安で、誰にどう伝えていいかもわからない感情を抱えて、それでも進むしかないと自分に言い聞かせながら、時には現実を逃避して、自分をごまかしながら、歩みを進めてきた。自分の足で立って進めてこられたのは、自分の人生がだれのものでもなく、自分のものだという意識が常にあったからだろう。

 

最近過干渉の母親について取り上げられることをよく目にする。ゆとり世代、さとり世代といわれるいわば、新しい世代の上の世代の親たちのふるまいである。母親というのは、子供の弱さを知り尽くしている。一人で生きていけない赤ん坊のころから誰よりも自分の手で育てあげてきたのだから、当然であろう。子供の成長は早いと言いながらも、その子供たちを庇護し、人生をかけて苦労して育ててきたのであるから、人情としては頭が上がらない。

 

母親と接しているときにたまに疑問をもつのだが、自分に対して発せられる言葉は、誰に向けて言っているのであろうという時がある。部屋を片付けなさい。勉強をしなさい。早く風呂に入りなさい。身ぎれいにしなさい。与えられた役割を鋭敏に感じ取る庇護される対象である少年には、その命令ともとれる注意を察して行動に移すことを強いられる。反抗期を通して、そこに駆け引きをしていくのだが、どんな状況でもご飯を提供し、寝るところを整備してくれる親には絶対的な優位な立場がある。それが無くては生きていけないのだから。

 

そもそも少年の生きる世界は、家庭が非常に大きな割合を占める。学校に行ったり、部活動をして、多少のほかの世界も知りうるのだが、大きく見れば環境の似通った友達との関係性の中で把握できる世界には限界がある。そんな最中で絶対的に発せられる親からの発言については、それを実行するにしろしないにしろ少年の感情には大きなウェイトを占めていく。案外その言葉が本当に本人に向けていっているのか、世間を気にした上での発言なのか、何となくでも感づくものである。

 

自分の反抗期を思い返すと、親への反応が少し独特であった。今改めて考えてみると、親というのは子供の庇護することを欲しているのではないかという解釈をしていたように思う。反抗とは相手の嫌がることをすると定義し、親に一切の面倒をかけないことをもって、謝意を表しながら反抗をするという、孝と自立を矛盾させずに自身に引き受ける独特なスタイルをとった。学校での成績はよく、部活も熱心に励み、誰に迷惑をかけることもなく、親に対して自分喜びや苦しみといった感情をさらけ出すことがなかった。社会の厳しさは薄々と感じていたから、自分に必要であろうことを粛々と遂行し、自分の中に何が足りていないのかを常に計っていた。家庭ではとても無口な少年であったと思う。

 

過干渉の親はすべての行動に口を出す。素直に受け入れることができればいいが、それが少年を主体者として認識しているかどうかで、少年の反応は大きく異なると思う。どう考えても世間体を気にして発言し、少年自身を主体者と認識されていないと本人が感じた際に、それは呪いの言葉に変わる。自分自身の気持ちを持たず、親の言われた通りにやってきたのだから、その発言に対しての行動の結果は自分の責任ではない。いわれた通りにやってきて今こうなった。それはあなたのせいだと。反抗心の分だけ失敗を自分から引き受けるようになる。それだけ、あなたのせいだという言葉の切れ味はいいものだからである。結果的に自分の行動に対して責任を負うことができないため、社会で働き始めて挫折をする。自分でそう決めつけている節もあるが、社会は辛く厳しいものである。自分で気持ちを引き立てて、生きていくしかない。こうして自分の足で立つことができない大人が出来上がる。

 

お金があまりあって、常に隣に親がついている状況であれば別だが、結局のところ人生など自分で生きていくしかない。こうしてある程度の年齢になってよく考えると、親に自分の行動についてほとんど伝えなかったのは、それを伝えて何かを言われて従順に従っていた際に、自分の行動に十全な責任を持てないと思ったからなのだと思う。今後生きていって、ちっぽけではあるが自分の人生の失敗や苦難を誰かのせいにしたくはなかった。辛さも苦しさも負の感情も含めて自分の人生は自分のものだと思いたかった。

 

大人になるとは、自分の足で立つことだと思っている。今新しい環境の中で、どうしようもなく逃げ出したくなっても、かろうじて立ちむかっていることができているのは、少年のころに自分の人生は自分のものと決めて、ささやかな反抗をしてきたのが大きな要因であると切に思っている。

孤独

 人はどういうときに孤独を感じるのだろうか。いろいろな瞬間がある。無人島に1人ぽっちのとき。クラスで一人だけぽつんと席に座っているとき。場面的には、個として存在しているイメージが漠然と思い浮かばれるが、個人的には物理的に人とのかかわりがあったとしても、自分の感情を理解してくれる人がいないときなのだろうと最近実感した。

 

 海外で働くということは、言語を習得するのと同時に、慣習・法規・組織・専門をも同時に習得しなくてはならない。異なる文化の中で、自分自身のスタンスを見つけて、今まで行ってきた仕事の経験を自分なりに再構築し、試行し、調整していかなくてはならない。自分の中の気力を維持するのも必要になってくる。とても骨のかかる仕事である。与えられた役割が小さいといえども、役割を全うするまでの過程はすべて初めてなことなので、想像以上の体力と気力を要する。

 

 必要以上に感情を表に出すタイプではないので、勝手にあいつならできるだろうと高をくくられることがよくある。貫禄があるとか、落ち着いてみえるとか、勝手なことを言われる。別に言われる分には構わない。年を経てある程度の風貌は顔に現れるとも思っているので、今まで生きた経験や成果に対して、それなりの評価だとも思う。ただ器用に生きてきたわけではない。今できることのすべては単に、できるようになるまでやった結果に過ぎない。それは、どんなに自分を犠牲にしようともどれだけの時間をかけようとも、ただできるようになるまで頑張ったその成果であって、才能や頭の良さや器用さといったそういったもので、するすると得られるものではなかった。

 

 できるといわれている人には、大きく分けて2つのタイプがいると思う。自分ができたのだから、部下にもそれを求める人と、部下の地力を考慮したうえで、適材的な指示を与えていく人。努力し、それを達成し、乗り越えることは尊い。だが皆がそれをできるのであれば、この世に問題など存在しない。自分は感情を出さないことも相まって、よく期待される分だけ、その人の期待を裏切ることがよくある。お前はもう少し頭がいいと思ってたんだけど。勝手に期待をされているだけに、あまりそんなに響くわけではないが、ただただ困惑する。自分ができない理由などわかっている。今いる自分の立場と、行動に移すために問いかけを行う相手の立場が分からないからだ。どういう対応をするのが一般的なのか、常にそれを測っている。まあそれは当然の話であろう。わけのわからない立場の人から、わけのわからない質問を受けても、人は答える気にはならない。その無数の関係性をじっくりと観察し距離感を測っているから、最初のうちは仕事ができない。自分は案外細やかな気を回すタイプである。その関係性さえわかれば、あとは大した問題ではない。必要な質問を必要な時期に必要な人に投げかければいい。無数の関係性はあるが、1通りの流れを覚えればあとは類似的な話である。期待されている人の期待を裏切って時間がたった後に、期待以上の成果を出せるようになるのが常である。

 

 みな何かができないうちは右往左往するだろう。どうすればいいかわからない。聞くことがわからない。わかったとしても聞き方がわからない。聞く相手がわからない。何がわからないかがわからない。自分の気持ちを人にわかってほしいと思うけど、それを伝えることができず、伝える場を作ることができず、自分のもやもやを自分だけに抱えていっぱいになるときに孤独を感じる。案外、無人島で1人で生きているほうが、孤独は少ないのかもしれない。それすらも実際にそうなってみないとわからないが。

 

 人の気持ちなど本当のところはわからない。幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う。孤独な人に必要な声掛けは、技術的で客観的な厳格な一言ではない。プロなのであるから、そうであるのは当然なのであるけれど、傷つき不安な孤独な気持ちを癒しうる言葉にはならない。ただ必要なのは、同じ方向を向いて寄り添い支えようとする優しい言葉だ。たとえそこに人がいなくとも、いてくれるような気がするだけで力が出ることなどはいくらでもある。

 

 今が忙しいのはよくわかる。その人にしか持ちえない悩みもあるのはわかる。ただ、自分も同じつらい道を生きてきたのであれば、孤独であろうとしている人に対して、なぜそれを支える言葉を投げかけることができないのか。大人になるというのは、昔を忘れるということなのか。成果を求められすぎて、相手に成果を求めすぎる人になってはいないか。同じ方向を向くことでしか、チームとしての絆は生まれない。使い捨ての関係であればそれでかまわないが、狭い世界の中で一緒に関係性を保ってはいかなくてはならないと思う。

 

 どうあってもつらい状況の中で、ついつい愚痴っぽくなってしまった。悲劇のヒロインを語るのも致し方ないことなのだろう。たとえ周りからはどう見えて楽な仕事だと思われようとも、その人の気持ちなどその人にしかわからない。ただ大切なのはわかろうとする意志だと思っている。わかろうとする意志さえ持ち得ればいつかはたどり着くとジョジョに出てくるアバッキオの同僚は言っていた。別に仕事ができなくても死ぬわけではないけれど、あまりにもできずにいるとその人の立場はなくなり、何も求められず、尊厳が失われていく。少しでも自分の気持ちを整理し奮い立たせるために、言葉にして書いては見たが、そんなに気持ちが晴れるわけではない。無理をしすぎるといいことはないとは経験則からよく知っている。

 

そこそこに苦難を求める性格ではあるが、あまりにも苦難を背負いこみすぎたので、少し気持ちが疲れてきた。擦り切れる前に誰かと酒でも飲んで愚痴を言いながら、あまり気負い過ぎずほどほどにやっていきたいと思う。

哲也

最近はとても親切な世の中だと思う。多様性が重んじられ、個性を尊重される。すべてのものは人が快適に使いやすくなるように作られ、必要な情報は滞りなくスムーズに提供される。サランラップは片手で切れるし、掃除用のころころは床に引っ付くこともなくなり、インターネットにアクセスして数秒でドラマを見ることができる。「あなたはかけがえのない存在です」。人は常にそういわれており、特に自分で生きる意味を考えなくても、何となく生きられる世の中になっている。

 

哲也は主人公が勝負師として成り上がる、1昔前によくある麻雀のアニメである。「お前には力がねえ」。哲也が一人の玄人(バイニン)に出会い賭け麻雀をして、有り金全額をむしり取られ立ち尽くしていたときに、そう言われる。哲也には「力」というものがわからない。「俺にはこれしかねえんだ」。すがるように教えてくれと頼み込み続けた。見どころがあると思ったのか、玄人は哲也をとある雀荘に無銭でひとりぼっちで放り込む。カモにされて、ぼこぼこにされながら生きるための「力」を学ぶ。そうやって物語は始まる。

 

まったくもって親切心のかけらもない。説明もなくマニュアルもない。ほかに生き方を知らないため、わからないままにやるしかない。どうにかして自分の頭で考えて、痛みを覚えて、そうならないように生きる方法を探す以外に道はない。誰でもない自分の足で立って歩き続けるしかない。最近の時世とは全く逆の考え方だ。

 

何かを手に入れるということは、何かを失うということに等しい。「安定」を手に入れれば、「スリル」を失う。「才能」を手に入れれば「平凡」を失う。「繋がり」を手に入れれば「孤独」を失う。望むにせよ望まぬにせよ、何かを得た際には必ず何かを失っている。物語には何かを手に入れることで何かを失う無常さを問うものが多いのは、歳を経て感じるその無常さへの共感に深く染み入るからなのであろう。

 

親切な世の中になることで何を失っているのだろうか。それは生きる力だと思う。親切さとは文字通り”自然”ではないと思う。自然は弱肉強食の世界であり循環の世界である。強いものが捕食し、弱いものは場所を限定したり、小さくなることで自分の身を守ろうとする。強いものは食べ物がなくなる危機と向き合わなければならず、飢えと戦っている。親切心などはない。同じ縄張りにおいてお互いの相互支援などはあるのだろうが、過剰な親切さなどはない。

 

今の世の中は歴史的に見て例外的な平和な世の中である。国にもよるが、飢饉もなく戦争もない。明日食べるのものの心配をしなくてもいい。素晴らしいことだと思う。でもそんなさなかで当然のように受ける親切は、考える力を減衰させる。生き抜こうとする必要がないからだ。必要とは発明の母である。

 

身一つで生き抜こうとする覚悟を持って玄人とする。知識や技術に先行して覚悟がなくてはいけない。それを哲也は理解する。それはどんな職業でも変わりはない。「願わくば 我に七難八苦を与えたまえ」「むごい人生よもう一度」。苦難を求める名言は多くある。別に今あるものを捨ててわざわざ苦難を求める必要はないけれど、そういう人はかっこいいなと思った。

あり

2週間のホテル生活の中で部屋の中にありを目にする。とても小さいやつだ。多くはないが、決して少なくはない。仕事をしているときに視界に入ると、集中力が切れてしまうのと、体に上ってくると少しくすぐったいが、生活の上でそれ以上の差し障りはない。触覚を整えている様子は見ていてとても可愛い。3階であり、特に何もない部屋まで遠征とはご苦労なことだと思う。

 

前に、働かないありには意義があるという本を読んだ。働き者のありの中には2割、働かないありが存在するという内容だった。いいご身分だ。働いたら負けだと思っているのだろう。そんな2割の働かないありだけを集めると、そのうち8割は働き始めるという。そして2割は働かない。案外ありも空気を読んでいるのかも知れない。他のありが働いていないと働かなければいけないという義務感が生まれるのだろうか。他のありが働いているのをみると、さぼってもいいのではないかと2割のありは思うのだろうか。これは「反応閾値」という考えで説明をされている。何かの行動に対して、リアクションをするのかしないのか、個体ごとに反応の閾値が異なる。結果的に働くという行動に対して、2割程度のありでは閾値を超えられない。

 

2割のありは常に余剰戦力という形でストックされている。自然環境は非常に厳しい。明日大雪になるかも知れないし、思わぬ食料が手に入るかも知れないし、心ない少年に巣を水攻めされるかも知れない。変化に対応するためには、余剰を内包していなければならない。会社で言えば、パソコンでソリティアをやっている何も仕事をしていないようなおじさんがそれに値する。ドラマではそういう人が、素晴らしい洞察と謎の人脈を活かして問題を解決するのだが、本当の危機に直面したときに実際にそうなるのかもしれない。同じタイプの人間しかいないチームはうまくいっている時はいいが、危機的な状況に対しては非常に脆い。

 

世の中にはニートが多く存在する。その実態が詳細に把握されてはいないようだが、年配の方もいれば女性の方もいるそうだ。昔は情報が滞っているから、今になってやっと存在が認識されているのか。それとも時世的に増えてきたのか。どちらにせよ、現状の世の中から受けるプレッシャーに対して引きこもるというリアクションをとるのは、種としての生存の戦略ではないのだろうか。今は変化の時代である。将来への予想がつかない。プレッシャーが強すぎるのかもしれないし、一定の層働かない人がいるのは当然なのかもしれない。ただ、ニートは立派な余剰戦力である。一つ一つの家の中で親と子の激動の物語があろうと、ニートが多くいるという事実に罪はない。本当にこの問題をどうにかしようと思うのならば、まずは詳細な分析から始めなくてはならない。生物学のような視点で観察をされなければならない。引きずりだして、スパルタの教育をしろということには同意をしかねる。

 

一生懸命に働く代名詞としてありを例示されるのだが、そうでないありもいる以上、例示されて働きなさいと言われた際は、反論することにしている。物事は1つの側面だけでみるべきではないと思う。Googleの社員は仕事時間の2割を、趣味なり自由な企画に当てはめるというやり方を持っている。いい割合なのだと思う。周囲への気配を感じ取るために、常に2割の余裕は残していなくてはならない。僕自身もそうでありたいと思っている。別に働くために生きているわけではない。別に働かないわけではないが、よくわからない本を読みよくわからないドラマを見てよくわからない人と飲みにいきたいと思っている。いつかそれが大切なものにつながると信じている。

 

好きな小説家に森博嗣がいる。理系の工学者であって、小説かエッセイの中で専門を修得する意味について語っている。一つの専門を極めるということは山を登ることに似ているといっている。ある一定の専門になるとその人以上に理解している人はまわりにいなくなるというのだが、違う人の研究にもお互いにアドバイスができるという。山の頂上からは他の山々がよくみえており、山の登り方さえわかれば、その目指す先に必要な行動・ペース・歩幅・持ち物が分かるからだ。まずは自分の専門を頑張ることから始めなければならない。案外人は言い訳が多い。

 

ありは真社会性動物で力持ちで家も作れて研究の題材としてキリがない。そんな空想に耽っていると仕事もろくにせず、缶詰生活もはや1週間経過してしまった。2週間が1年でも良かったかなと思う今日この頃である。