川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

異物

元来が無口な人間である。誰かと会話をすることよりも、無言で雲を見つめることのほうが好きである。今雄弁に語っていることは、自分の内面や物事の構造を言語化することで、考えを発展していけると思うから、しゃべれるようになっただけで、別におしゃべりというわけではない。最近の世の中は多弁であることがもてはやされている。「沈黙が金」と呼ばれた時代ではなくなっている。テレビでは芸人がすべらない話をはなし、クラスでは似たように面白い話を皆に伝える人が、人気者になる。気持ちは伝えないと伝わらないよ。ドラマでは、言葉で伝える必要性がいたるところで放送されている。西洋的な考えに支配されて、いつしか日本古来の古典の良さが見失われている気がする。

 

大学の時に一番好きだった飲み会が、友達と2人で安い焼肉屋に行って18時から24時までいることだった。金がないという理由で選んだ焼肉屋だが、焼肉はとてもおいしく、ほどほどの混み具合であったため、毎週通っていた。何をそんなしゃべることがあるのとたまにいわれたけれど、別にしゃべらないときが多々あった。基本的に会話の内容は、読んだ本についてこれ面白いとか、こんなことが書かれていたとか、そんなたわいのない会話であった。その時の友達は、今でも心の中で師匠であり続けているのだが、人と接するときの頑張ることの無意味さを無言で語っていた。会話と会話の合間の沈黙は、しゃべりたいならしゃべってもいい。しゃべりたくないなら、しゃべらなくていいといつも語っている。「なんでそんな風になれたの?」軽い気持ちで師匠に聴くと、少し考えるしぐさを行い、沈黙があって言葉を発した。「自信があるからかな。」そのあとの説明も何もいらなかった。その言葉と沈黙だけで、何よりも雄弁にものを語っていた。現代人が忘れがちなそんな当たり前のことを、ありありと体現していた。ガード下の雰囲気のような、七輪の炭火による煙が蔓延する焼肉屋での時間は、宮殿で貴族たちが嗜む紅茶の時間に匹敵するほど、精神的に優雅な時間であった。

 

合コンでもキャバクラでも時々しゃべらないことを選択する。しゃべらなければいけないという空気を読むことにつかれているのである。時に会話とは無理して音を発して、その音に相手も反応する。ただそれだけである。そういう時に、無言でいることを選ぶ。合コンやキャバクラでも女の子は話をしなければいけないという、強迫観念に縛られるためか、元々女性がそういう生き物だからか、そんな中でも話を続けようとする。そんなときは、こけしのことを考える。どう考えてもアンバランスで不気味なあの人形が、どうして現在に至るまで受け継がれているのか。受け継がなかったら呪うという恐怖もわかるのだが、人は恐怖のみで理由もなくこけしを継承していくものだろうか。そんな不毛なことを考える。こんな発言をしたところで、共感してくれる人がいないだろうという程度の常識は持ち合わせているから、特にそのことを発したりしない。でも、変わったものがいて、今も存在している現実がある。別に飲み会でしゃべらないことなど、世界全体からすれば大した話ではないと、一人納得する。何となく楽しそうにたゆたう自分を見て、隣にいる女の子もそんなものかなと無言になる。気が向けばしゃべったりもするのだが終わりの時間が来て、そのままの無言の流れで「ごちそうさま」といって席を立つ。たまに不快感をあらわにされることもあるが、うれしいことを言われることもある。「なんかほっとしたよ。」そんなんでいいと思っている。無言で時間を経過し、女の子より多くを払って、そっと帰る。とても優雅である。

 

基本的に人の考えていることなどわからない。互いのことをしゃべればしゃべるほど、わかるというわけでもない。時に沈黙の時間が雄弁に人に語りかけることを知っている。傷つきふさぎ込んでいる人に必要なのは、ただ何も言わず隣にいてあげることである。何もせずいてくれるだけで、なんか気持ちが回復する。そんなときがある。押しつけがましいやさしさよりも、気づくか気づかないかくらいのやさしさが一番人の活力を出せるものだと思っている。やさしさは冷蔵庫に置いてくれるプリンくらいがちょうどいい。冷蔵庫にぼつんと置かれているプリンは「あまいものでも食べて頑張って。」と暗に語り掛けている。そんな音にならない言葉をプリンに込める。それを一緒に食べようとも、一人で食べようとも、置いてくれた誰かが隣にいてくれる気がする。物理的な糖分の補給でもありながら、精神的なよりどころにもなる。押し付けのないそんなやさしさを、人は見過ごしがちである。多弁なことを評価される風潮はあるけれども、寡黙なことを評価する風潮のないことは、あまりいいことだとは思わない。わかりやすさが好まれる現代において、わかりにくいことは放っておかれがちである。でも、いつも本当にいいものは放っておかれることはない。たまに自分自身にそう言い聞かせている。

 

もともと自分が異物であることは自覚していた。自分のコミュ力の低さも、しゃべる能力の低さも誰よりも自覚していたけれど、いつも飲み会にいた。断る理由を考えるその手間がめんどくさかったから、呼ばれればいつも行った。そして無言で酒を飲んでいる。全く知らない人や、なじみのメンバーや、老若男女問わずいろんな人と飲みに行った。大体が、よくしゃべるやつが飲み会を開くため、別にしゃべる必要はないのだが、あまり気にせずほがらかに笑って、酒を楽しんでいた。飲み会に呼ばれ続けるのには、そうである理由はいろいろあるのだけれども、どう考えてもよくわからない異物としか認識されない自分が、どんな飲み会にでもなじめたのは、師匠のおかげであった。

 

長くかかわりがある人から、恋愛のアプローチをされることがよくある。最初はなんだかよくわからないのだと思う。話す言葉は妙な説得力があり、変に勉強ができて、無駄な知識がある。そしてだいたい無言である。なんかいいなと思っても、どうやって隣にいていいのかがわからない。でも別にいたいと思うだけでいいと、いつも無言で語っている。出るものは追わないし、来るものは拒まない。カフェに行ったらそのコーヒーの香りを楽しみ、居酒屋に行けば食事と酒を楽しむ。辛いことがあれば、「そっか」と相づちを打ち、楽しいことがあれば「よかったね」と答える。映画を見てつまらないと思えば、つまらなかったといい、楽しければ楽しいという。晴れていれば、「いい天気だね」といい、雨が降っていれば、「天気悪いね」という。1日として同じ日が来ない毎日のなかで、人生を楽しむなんてものは、その程度で十分だと思う。

 

最近の大人たちは若者に変化を求める。恋人を作れ、高級車に乗れ、時計を買え、ブランドものを着ろ。でも若者たちは疲れている。不況の時代を生き負け続け、公園にある遊具は怪我をするという理由で無くなっている。コンプライアンスを守り、勢いのない時代の中で失敗することができない。ITの革新によりあまりにも時代の変化が速い状況に適応しながらも、増え続けるルールを暗に守り続けることで精一杯である。珍しい現象である。たいがいは若者たちが大人に変化を求めるのであるから。でも、どんな時代でもぼくのような異物はいたと思う。早すぎる変化の時代の中で、ちょっとプリンでも食べて落ち着こうよ。そんなことを無言でいつも語っている。

 

 

無邪気

子供から無邪気な目で見られた時、大概の場合大人は対応に窮する。感情の種類が少ない子供にとって、世界とは知らないもので満ちていて、複雑なしがらみを知らないため、相手の立場も気遣わない純粋な疑問を投げかけることができる。一人の大人が抱える悩みなど、頑なに自分をそうだと決めつけて、「なんでそんなに大変なの」という質問に正確に答える術を持たないことが往々にしてある。友達と飲んでいた時に、一人の悩める友達に、子供のような無邪気な質問をしている友達がいて、悩んでいたことが堂々巡りしているだけだったことを明らかになった事例があった。

 

大人になるとは、複雑さを抱えるものだと思う人がいる。自分もよく利用するが、日本的な苦労を礼賛される文化では、辛いというポーズをとっている人が、楽しそうに仕事する人よりも評価される場面が多々ある。内田樹の「下流志向」という本の中で不快感についてかたられていた。不快に耐えていると態度で示すことで、自分がまさに今おこなっている労働を誇示し、対価を手にする権利があると主張しているのである。子供たちが嫌そうにだらだらと授業をうけるのも、家庭内で不機嫌そうに母親が家事をしているのも、会社員がつまらなそうに残業しているのも、自分の時間を犠牲しながら、相手のために労働を行なっているのだと、暗に主張しているのである。

 

意識してそういう振る舞いをとっていようがいまいが、どうしてそんなにつまらなそうなのですかという質問はとても答えが難しい。「僕は学校で、こんな楽しいことがあったんだ。お母さんはなんで悲しい顔をしているの?」長年の関係性の中で、何を言っていいか悪いかの空気を読みがちなのだが、純粋な気持ちを投げかけるのは、別に悪いことではない。「不快感を前面に出すことで、パパに私の労働に対する対価を要求しているのよ。」そう冷静に答えることができるほどの策略家であれば、その人の人生など自分が気にかけなくても、うまくいくだろう。でも、不快に生きている自分自身を冷静に捉えていない場合、答えにとても窮することになる。子供の純粋な質問は、相手をどうしようとも、何をしようとも思ってはいない。当然、母親の身を案じている気持ちもあると思うのだが、ただただ不思議なのである。

 

自分はものを考えすぎるだけに、ものすごく人の気持ちを気遣ってしまう。一見すると何も気遣っていないように見せながら、その人の成り立ちや立場、感情に配慮をしながら話をする。それは他の人にはない、独創的な良さであるとは思うのだが、何かをよりよくしたいと思いながら、誰かに何かを言って、何も変わらなくて、その人の気持ちを理解して初めて、その人の何かを変えることができるのではないかと思っている。でも、そんな共感とは無関係な、人を変える可能性を秘める無邪気な問いかけに飲み会で出会った。

 

このブログに何度もかいた友達は、毎日を辛いと言って生きている。一方無邪気な友達は、あまり何も考えずに生きている。結婚をするというアプローチを考えて行った時に、とても両極端であった。辛い友人にとって、結婚とは未知のものである。数回の婚活で自分には向いてないと絶望し、その数回の経験を何百回やっても変わらないと頑なに思ってしまっている。無邪気な友達にとって、結婚とは確率の問題である。自分にとって居心地の良い人は、間違いなくどこかにいるはずで、婚活とはそれを探すまでやり方はいろいろあれども、何回施行しくじを引き当てるかにすぎない。どちらの気持ちもわかるが、とても両極端である。

 

無邪気な人は言う。「〇〇さんに会う人っていると思いますか?」「いないことは無いと思う。」「その人に出会えるまで、出会いを続ければ良いと言うことですね。出会いの場に行かないのは何故なのですか?」「結婚というもの自体をイメージできないから。」「ちょっと意味がわからないです。自分にとって、居心地がいい人に出会う確率を上げる行動をすればいいだけで、出会いの場に行かないことは結婚のイメージができないことと関係ないと思うのですが。」「ぐぬぬ。」無邪気な友達は、高スペックを持った辛い友達が、なんで辛そうに生きているのかが、純粋に不思議であっただけである。やれば終わる可能性がある労力をかけてないという事実に、無邪気な疑問を投げかけていただけだった。

 

たしかにそうなのだと思う。自分の行動にもっともらしい理由をつけるけど、事象と確率を考えると、やるべき行動なんてものは自ずと決まってくる。何かをやって失敗するのが恥ずかしいと思えるほどの可愛い年齢ではないのだし、とくに行動しない理由を探す方が難しい。やってうまく行かなかったら次の人に行けばいい。相手だって、100%うまくいくとは思ってないのだから、うまく行かなくても、お互い様である。余計な気遣いが、行動を縛ってしまう。

 

辛い友達は、世の中に叫んでいるのである。理不尽な世の中で、自分は辛さに耐えて労働を行っている。そして、それに見合う対価が得られるべきだと。その対価は、自分の気持ちなど誰もわからないのだから、放っておいてくれというあきらめでもある。でも単純に考えれば、笑うために何をすればいいのかという考えを放棄し、暗がりに閉じこもっている。確かに言われてみれば、不思議な状況である。そんな考える必要ないんじゃないんですか。その通りでしかない。

 

いつか同じような事象があれば、無邪気に聞いてみたいと思う。辛そうな顔をしている人に、「なんで辛そうに生きているの?」と言ってみたいと思う。極端に言えば、対処方法は3つしかない。自分を変えるか、環境を変えるか、耐え続けるかの3つである。辛い状況を自ら望んでれば別だけれども、笑っている方がいいのは子供でもわかる。純粋に不思議だなと思う疑問を持て相手に投げかけると、案外頑なな心もほぐれていくような気がすると感じた。頑固な人へのアプローチをさらに一つ発見することができた、おもしろい飲み会であった。

 

 

 

 

予定調和

ユーモアには、人の予定調和を崩すことが必要である。ピンと張った緊張感の中で、想像の斜め上をかっとんでいく潔さが必要である。昔トリビアという番組で、偉い学者先生たちがお笑いを考えたときに、何が最も面白いですかという質問に答える、トリビアの種があった。その発想の時点で面白いし、調べれば出てくるため、ネタバレは避けるが、同じようなことを語っていた。自分の経験の中で、予定調和をかっとばす面白い状況を例示してみたい。

 

高校の時に部活をしていた時のことである。昔のことで時効であるから触れるが、鬼のような顧問は殴る蹴るが当たり前であった。まあよくあるよねくらいの受け取り方であったため、逆に慣れてきたのだろう。けがをした主将が道場のすぐ横のベンチプレスで筋トレをしていて、ほかの部員が練習をしていた時のことだった。顧問は人を集める時に、集合という声をかける。その集合という言葉に含まれる音程や、調子、大きさで感情を察知する。その声に少なからず怒気を感じた。気配を察知した部員がさっと集まると、主将は集まらずにベンチプレスで横になって眠っていた。練習するか筋トレするかプレッシャーは段違いである。気が緩んでも仕方がない。それを顧問が目撃した瞬間、今まさに言おうとしていた怒りを大きく超えた。大きな声で主将の名前を呼び、おもむろにパイプ椅子を持ち出した。普段殴るということはしていたが、パイプ椅子で誰かを殴ることはなかったため、その場にピンとした空気が張り詰めた。

 

「無理はしてもいい。無茶だけはするな。」禅問答のようなことを口にする顧問本人としても、部員にけがをさせようというのは本意ではなく、パフォーマンスのためか、怒りに任せてか、パイプ椅子をぶんぶん振り回していた。その振り上げたパイプを振り下ろさなくては、怒りにけりがつかない。そのため、主将の近くのたたみに力いっぱい振り下ろした。見ると畳の一部が陥没していた。しんとした雰囲気で畳を皆が見つめている時に、顧問が更なる怒号をあげた。「これはぁお前のせいだからなッ!!」。思わず笑いそうになってしまった。意味が分からない。やったのは顧問なのだから、それはお前のせいだろと誰もが突っ込みたくなる理不尽さである。皆が皆、空気を読む教育を施されてきたため、その場に笑いが起こることはなかったのだが、緊張の一瞬の中で、予想の斜め上をかっとんでいく理不尽が、笑いを生み出した。奇跡的な一瞬である。

 

今でも予定調和が好きではないのは、おもしろくないということが実感としてあるからなのだろう。そののち部員の中でパイプ椅子を振り回すブームが起こった。いかに意味不明で理不尽な言葉を出せるか、流行ったものである。辛いときにも、ふと訪れる岩を割って咲く花のような、奇跡の一瞬がある。辛い辛いとは思っていたけれど、引退するまで放っておかれた陥没した畳は、僕たちに頑張れと言っているような気がした。尊い犠牲であった。

 

 

黒子のバスケ事件最終意見陳述

8年以上前になるだろうか。Facebookを何気なくみている時に、黒子のバスケの脅迫事件での犯人の最終意見陳述の記事が共有されていた。事件の概要はなんとなく知っていたけれど、この陳述の存在を知らなかったのだが、見てみてただただ驚いた。自分が犯人として、どうしてこの行動をするにあたり、どうしてこの犯行を行うような人間になったのか。生きずらさを抱えている原因と、生きる気力のない理由を淡々と論理的に書いている。子供の教育に携わる全ての人に読んで欲しいと思えるほどの内容であった。驚愕の才能である。陳述の最後で、関わった人達から「あなたはこれだけの文章をかけて、犯行の手口を見ても地頭がいいと一度ならず何度も思った。何かの形で社会の役に立つことができるのではないかと思う。もし、懲役から解放されて自殺を選んだとしたら悲しく思います。」と言われたと書いている。そう言われたことに、感謝の意を示していたが、心が揺れ動くことはないのだろう。本人は自分のことを「浮遊霊」と評していた。無気力な状態に、力を込めたところで何も変わることはない。必要なのは、この世の中に浮遊霊という存在をとどめておくほどの、鎖である。それはその人がいないと生きられないと思えるほどの無防備な存在か、生きてほしいという呪いである。表面的には、無職のオタクによる才能ある作者への嫉妬と脅迫という、簡単な事件ではあるのだが、その人を成り立たせるに至った背景を考えると、映画のJOKERのような、心が掻きむしられるほどの悲しい物語である。

 

原稿用紙44枚にも至る最終意見陳述の中で、子供の頃の感情の芽生えについて書かれている。子供にとって一番大切なのは、安心なのだという。子供が行動を行う際に、何か怪我をしたとする。その際に、母親が寄ってきて、「いたいのいたいのとんでいけ〜」という。よく見る光景である。その時、他人から言葉として言われることで、子供本人の事象と感覚の中に「痛い」という感情を自覚し、それを母親と共有していることを理解する。それが感情の共有である。見守られている安心な状況の中で、ある事象によって引き起こされる自分の感情を他人とともに言葉と併せて自覚する。他人とともに感情を共有しているため、人の痛みや悲しみを労わることができるようになる。そして、痛いことを遠ざけるために、親から言われた火や刃物に近づいてはいけないなどといったルールを守るようになる。これが規範の共有である。痛いという感情以外にも、家族との触れ合いの中で自分の感情を自覚していく。この一連のしつけの流れが、社会的人間になるためのステップである。この安心というプロセスの中で生きてきた子供には、自分の中に何をしていい何をしてはだめかという保護者が内在しているため、一人だけでの行動が可能になるといっている。これを親との愛着関係という。思春期・反抗期の中で、この愛着関係が正しいかどうかの判断を行い、一つの自己として存在を確立するに至る。

 

それができない存在を「浮遊霊」といっている。浮遊霊は親から安心というものを与えられてはいないため、感情の共有ができず、規範が存在する意味がわからない。そしてなにより自分に起きた事象と感情との結びつきがとても曖昧である。自分の感情をうまく自覚できていないため、社会に生きる中での遵守するべきルールの意味と対価を知らないので、義務的に遂行するその状況に疲弊していくのみである。努力をすれば報われるのは、努力をした先に報われる自分を思い描いているからであって、そこに描く自分をそもそも持っていない浮遊霊という存在には、努力を押し付けることの無意味さを説いていた。

 

「事実」というコラムの中で書いた友人は、ある種「浮遊霊」に近しい存在である。自分の感情を自覚せず、自己を確立する術を知らず、人との感情の共有を知らず、規範の共有を知らない。定量的に見える対価はわかるのだが、社会に生きる上での対価を見出せず、いつも辛いと言っている。おせっかいな気持ちで、彼を変えたいと思って色々なアプローチをしてみたのではあるが、長年の関係性のなかで何も変わらないと悟った。幸運にも自分が成し得た成功体験を説いたところで、彼の感情の中に存在し得ない努力の意味を、彼が見出すことはないからだ。それは彼の責任ではないし、親の責任でもない。世の中と人との、巡り合わせの結果に過ぎない。それでも自分にできることは何かと考えた末、彼に呪いをかけることにした。彼と会うと、彼のことをいつも馬鹿にして笑っている。誰よりもずっと笑っている。2人で飲みに行って、5時間ずっと馬鹿にして笑っている。「たまたま今回だめな人生だっただけだよ。」「今から頑張ればあと30年後くらいには性格が直って、結婚できるんじゃない?」荒唐無稽で現実逃避な言葉を口にすることで、彼の不遇をエンターテイメントにして笑った。人の不幸は蜜の味と呼ばれるように、人の不幸話を聞くのは面白い。そんな性格だからだめなのはわかっているのだが、「浮遊霊」のようにただ生きることを続ける存在に、人を笑わせる存在という縛りを課すことで、その存在に輪郭を与えたかった。そして、そんな存在を楽しんでいる自分がいるのだから、生き続けてほしいという呪いをかけている。それがいいことなのかは、今でもわからない。

 

この世の中は、簡単なものが好まれている。youtubeにはぺたぺたとテロップが追加され、ネットニュースにはセンセーショナルな見出しと中身のない内容の記事がもてはやされている。複雑な世界をシンプルに考えることは、とてもわかりやすいことではあるが、大体の場合そうでないことの方が多い。シンプルな言葉で全てが解決できるのであるならば、大人たちがこんなに悩んで、苦しんではいない。複雑な内容を複雑に理解する考え方をする人はとても少ない。最終的にシンプルな答えに至るまでの過程を忌避しているような気がする。言いかえれば、成熟した大人が少ないということである。本来であればそれを伝えるのは、親の役割であり、上の人たちの世代の責務である。あまりにも恵まれた生活の中で、とても幼稚な世の中になったのだと思う。

 

大学で建築をプレゼンしているときに、たびたび言われた言葉がある。「あなたはその作品でこの世にどんなアンチテーゼを問いているのか?」当時はとても性格の悪い教授だと思っており、意味がわからなかったけれども、今であればわかる。永年の傾聴に耐える作品は、常にこの世に対しての疑問とその世の中を生きる自分の葛藤と、それを変える力に満ちている。そしてそれを理解するには、自分の中に気づきへの意識を常に持っているかどうかが重要になる。そして、その意識を持つことができるのは、上の大人の人達をみて、そうでなければならないと憧れることができるかどうかによる。時にはそれが失望であったり侮蔑であったりもする。教育とは、なりたい存在を示し、生きていきたいと思わせる社会を見せることだと思っている。人がそうなりたいという憧れを覚えれば、あとは勝手に気づきと学びを覚えていく。別に皆が皆そんな複雑なことを考える必要はないのだが、社会の存続を考えていく上では、ある一定以上の人数は必要である。そしてそれはノブレスオブリージュという考えであり、善意のボランティア精神である。誰のためにやっているわけでも、利益のためにやっているわけもない。自分の納得のためにやっているだけである。あまりにも日本という世の中が貧乏になったことで、決められたパイの取り合いになっており、互いの監視が強く、自由なことができない世の中になってしまっている。そういう人たちは干渉することなく放っておけば、勝手に何かしらの行動を起こしてくれるものである。過度の干渉により、気概が削がれてそもそもの行動しようとする意思すらも奪ってしまう。

 

本人も書いているが、この意見陳述を読んで見当違いの見方をする人々が多く存在する。「生き霊w浮遊霊wとか言い出した。精神異常者と自分を認めることで、減刑を狙っているんだろう」と的外れの意見を言っている人がいる。それは幸せなことである。自分が持ち得ない感情を理解することは、とても難しい。この意見陳述を理解できることは、何かしらの生きづらさを抱えていることに他ならない。これだけの文章を書けるのは、とても頭がいいと僕自信も強く思っている。浮遊霊という存在がない世の中であってほしいと願うことは、いじめがなくなることと同じくらい難しいし、今現時点でそうである人を否定しているため、そう思いたくはないのだが、そんな人たちが少しでも生きたいと思える未練のある世の中になることを切に願っている。

 

幸せな人には、不幸な人を見て、努力すればいいとか頑張ればいいとか勝手なことを言う人がいる。おせっかいな人によくある考えだ。でもそれは、「パンがなければお菓子を食べればいい」というほど、無責任で残酷な言葉であることだけは自覚してほしいと思っている。

 

 

事実

よく、人の気持ちを考えなさいとか言う人がいる。人の感情を逆なでするような言葉をよく発していた分だけ、あまり人の感情を忖度せずに、思ったことを言ってきた。本当は忖度に忖度を重ねた末、思ったことをはっきりと言うと決意して言っているのではあるが。そういう時に、この人の気持ちを考えているのかと、第三者が決めつけをする。言っている当人と言われている本人の間で、特に負の感情はないのだが、はたから見ていると喧嘩をしているように見えるのだろう。でも、それは事実を言っているだけであって、余計な感情を載せていない。その第三者が憐憫とか不憫といった感情を載せているのである。

 

友達に頭が悪い人がいる。この文章だけを切り取ると、人のことを下に見ているとか、人の気持ちをわかっていないと言われる。話は最後まで聞いてほしい。頭が悪いを一概に定義するのは難しいけれど、朝三暮四のように目先のことにとらわれて包括的に結果を考えない、時間的な想像力の無いことを頭が悪いことだと定義することにする。その友人は、孤独にはなりたくはないと思いながらも、日々を無為に過ごし、同僚とのコミュニケーションがうまくいかず、ただ辛いと言って生きている。長年の付き合いであり、将来死んだ魚の目で社会人を生きる様子がありありと思い浮かべたため、そのままだと大変だよと、学生のころからやんわりとアドバイスをしてきた。日々の生活の中で、小さな成功や感動を感じることがなく、感情というものが薄れていってしまう。そんな予感がしたからだ。結果的に彼が変わることはなかったため、自分のちっぽけさを認識するとともに、人というのは外部からの刺激で変えることができないのだと、思い知らされた。

 

その友人は、結婚をして子供を持ちたいと何かしらの部分では思ってはないがら、そんな人生を送ることのできない自分自身と対峙している。まともな神経であれば、孤独への恐怖に耐えきることができずに、行動を起こすのだが、今まで生きてきた経験がそうさせなかった。市場主義経済で育った子供にままある考え方ではあると思うが、対価という切り口をもって考えてみたい。彼がたまにいうのだが、人と話すのであれば、相手が愚痴を言った時間の分だけ、自分も愚痴を言う権利があると言い、恋愛においてみれば、生まれ持った自分という容姿の整っていない人間が、ダメな人特有の面食いを自認しながらも、それを手に入れるまでの労力が見合わないことを指摘している。子供のころから、コンビニでお金を出せば年齢に関係なく商品を手に入れるという世の中であり、努力とは最少の労働で得られる対価を最大にすることだという資本主義の概念こそが、このモンスターを生み出した。

 

彼の人生におけるもっともコスパのいい体験は、勉強をするということである。それが彼の人間性を強烈に形作った。うだつの上がらない父親は東大出身だという。コミュニケーションの上手くないその父親を目の前にして、そんな父親でも生きることのできる理由は、学歴があることなのではないかと育ってきた環境の中で感じ取っていた。父親譲りのコミュ障は、彼にも遺伝し、運動部でありながら、部内での自分の居場所を作ることができなかったため、残された道は勉強しかないのだと、彼は確信するに至った。時に選択肢の無さは大きな力になる。残された道も後もない、その勉強という行為は、人との接触とは関係がないため、彼の持てる能力を発揮させ、有名大学へとすすまさせた。大学においても、コミュ障をいかんなく発揮し、鬱屈とした生活を送っていたのではあるが、ぎりぎりの最低限の努力により単位を取り、論文を書き、卒業をした。有名な大学において理系であれば、有名な企業に入ることは案外簡単なことである。学歴というフィルターが常にかかっており、そのフィルターはその人自身の人間性をぼやかせる。そうやって、自分自身ができる範囲内で、傷つかず、最低限の努力で、安定した生活を手に入れた。何よりも強烈な成功体験である。

 

こうやって言葉にすると、彼は頭がいいのである。自分自身にできること、できないこと、自分が傷つくこと、傷つかないことをわかっており、コスパという観点で、最低な努力で、自分自身が手に入れられる最高の地位を入手した。そのマニュアルを売れば、金になるのではないかというほど、構成がよくできている。モチベーションとかそんな生ぬるい感情ではなく、残された選択肢を必死に手繰り寄せた結果なのである。これは強烈な成功体験である。誰よりも、自分にできることを吟味して、切り捨てるものを切り捨てて、与えられたカードのみで勝負している。自分の人生に、責任を負っていると言うこともできる。

 

対価という概念をもって、一番難航するのは、人間関係、特に恋愛である。彼にとって人との関係性はある種利害関係であり、誰かの隣にいることができるのは、その人が自分に利益を出せる存在であり、それと同時に自分もまた隣にいる人に利益を出せる存在だからである。そこにでっこみ引っ込みがあったとしても、原則は変わらない。自分が利益を感じるというのは、言うまでもないのだが、彼自身が人に利益を与えているのかどうかが、彼にとって案外大きな問題である。彼は人間関係を、めんどくさいとか、人間の考え方がわからないと言って終わらせてしまうが、彼自身が自分を低く見積もっているため、相手の隣に居れるだけの自分が提供できる利益を持ち合わせていないと、自分自身を決めつけてしまう。そして、そんなことに思いを巡らせるその時間と労力によって、自分自身が削られることの害を忌避して、めんどくさいという言葉を使用する。いつも彼が行動をする理由は受動的であり、彼が他人から求められるという利益を人に与えていると彼自身が認識する状況においてのみ、彼は誰かの隣にいることを選択する。そして、彼自身が人間関係に関して常人には要しない努力をしなければならないため、その努力に対応するだけの見返りを求めるようになる。その意識の違いが関係性を終わらせてしまう。とても哀しいことである。

 

小さなあかんぼうから始まって、大きく育った過程においては、対価という概念では説明のできない変貌を遂げている。母親が十月十日腹を痛めて産んだ子供に、愛情を込めることはあれ、求めるものはないという状況は、一般的な感覚であれば割と想像には難くないであろう。その無償で与える愛情を彼は理解ができない。彼にとってすれば、愛情というもの自体をもらっていないとか、母親から受けたその借りを経済的に自立することができるようになったという時点ですでに、返しているというのではあろうが、彼は定量的に指し示すことができない愛情というものを、想像し理解することができないのである。

 

感動とか、喜びとか、それは彼には計ることができないものであり、彼には認識ができないものである。真面目に話をすると、頭よさげに論理的に話をしているようなのではあるが、自分の領域の中でのみに発揮されるその言葉は、一見する価値はあれども、一存する気にはなれない。特に自分で自分の人生を選んだのだから、その責任は自分が持つもので、会社を選んだ時点で自分の行動を予期すべきであり、自分のできないことを愚痴にする暇があるのであれば、やめるなり何かしらのアクションをするべきだという、言葉に共感できる点は少ない。入社する時点で、自分の将来のありありとやる気のない様子を思い描いているのは、驚嘆の一言であるが、自分の成長やまだ見ぬ隣人からの未知の影響、すべてを差し引いてしまっている。すべてのものを自分の想像の範囲内で納めることで、これからの希望や成長を削除してしまっているともいえる。確かに自分の行動を全能的に理解していると認識すれば、自分自身を管理するコストは少ないだろう。今までの生き方を踏襲し、自分自身に新たに生まれる感情や人との衝突における葛藤に目を向けなくて済むのだから。本人に取ってみれば、その得体の知れない感情はわからなく計れないのだからリスク以外の何者でもない。その葛藤や新たな感情という推し量ることのできない、感動や喜びというものを理解しようとしない以上、今後も変わることはない。それを分かろうとしない、その欠落した想像力を頭が悪いと言っているのである。欠落した想像力のままでい続けて、得られる利益を逸していることについて頭が悪いと言っているのである。ただ、知らないものを理解することはとても難しい。ましてや人間の感情なんてものは、目に見ることが出来ない。それでも、見つけようと努力すること以上のことはできない。

 

愛とは一方的に相手に与えるものである。見返りを求めないのが愛である。キリスト教から始まって、色々な小説や映画やアニメで描かれている。相手からもらったものの大きさをはかり知ることができないから、無償の愛を相手に与え続けることになる。そこには損得勘定もなく、逆に言うとすでに見返はすでにもらっているとも言えるのだが、考えようによってはとてもコスパがいい。相手に、何かを与えたとして、そこに想像を超える恩義を感じると、与えたものと不釣り合いな義理が果たされる。ただより高いものはないというように、受け取ったままである感情を自分にためるのは案外居心地が悪い。その居心地の悪さを解消するように、相手にお返しをするのが通例である。誰かに何かを与えるということはとてもコスパがいいことなのである。対価という概念をもって人に相対する彼自身は、自分の苦しみも相まって人からの見返りを求めてしまうため、無条件に人に何かを与えるということを受け入れることができない。彼自身が何十年と繰り返した毎日をこれからも繰り返すと、自分の人生は自分の責任なのであるから、それで構わないと、そういうのであれば、それもそれでいい。でも、何かがきっかけで変わるその一縷の奇跡を目の当たりにしたいと思っている。その人自身の人生を変えるなんてことは、自分の足で確実に踏み出す一歩からしか始まらない。繰り返す毎日の積み重ねをあなどってほしくはない。そんなことを暗に熱く、馬鹿にして笑いながらながら伝えるのではあるが、オンライン越しの画面で、変わりのない死んだ魚の目をした友人は、辛い辛いと言いながら今日もビールを傾けていた。ただ、最近アニメを見て泣いたと言っていたその心情の変化は、一縷の希望であることを願っている。

 

感情を伴わない、客観的に観測される現象を事実という。ここに書かれている文章も、多少のドラマティックな脚色と最後の方で少し願望は出ており、無理やりストーリーとして成り立たせるように書いているものの、自分が見て聞いて思った、友人の成り立ちを、憐憫も羨望も好きも嫌いも込めずに書いている。余分な価値判断をしてないということである。日々を辛いと思って生きることよりも、幸せに生きる方がいいというのは普通であれば持ちうる感情であるが、それは願望であり感情である。第三者の人がこれを見て、どんな風に取られるかは、その人が持つ感情的な要素に左右される。その感情を逆なでるという状況も理解できる。でも少なくとも、その友人以上にその人の気持ちの成り立ちを考えて発している。良いとか悪いとか、判断基準を抜きにして、自分がそうだと思う事実を書いている。そして、事実は事実として受け入れたほうが、いいと思っている。事実を認識すれば、変えるという選択肢を取ることができるからだ。世の中は平等ではないなんて、陳腐な言葉を繰り返すほど、人それぞれがバラバラなことを理解している人が少ない。まあ、ストーリーとして人生を一つの軸に絞って、記載していくと、とてもわかりやすいとは思うけれども、常にそうかなという疑問は必要だと思うが。

 

ただ、人の無意識であろうが、意識的であろうが、感情や根底にある考えを開示することは、それがあっていようが、間違っていようがとても残酷なことではある。自分は考えずにはいられない性格であっただけで、他の人にとってすれば、それは普通なことではない。人の裸を無遠慮に覗き見ているのと変わりはなく、自分の心を隠すのも防衛反応であったり色々と意味があることなのだと思う。人の感情を言葉として語りつくした時点で、語り尽くせるだけのちっぽけな人格に対してひどい虚無感に覆われる。善かれ悪しかれある意味で、人の心の何かを壊す行為であるとも思う。自分の辛い状況を笠に着てしゃべりたいことをしゃべり、この話を聞いた人の立場や気持ちや言い知れない感覚を想像できていなかった。今が幸せであるのならば、それをわざわざ壊す必要はない。そんな当たり前のことを想像できていない自分も、十分に頭が悪いとは思っている。

 

 

言語化

言語化をすることのおもしろさの一つに、複数の世界をつなげるということがある。文学など、特定の人が書いた、特殊な条件における、特異な事件を描いているだけである。ただ、そこに書かれているものの焦点や、書き方に注視することで、自分とは違う世界の違う認識方法を知る。志賀直哉が書いた「城の崎にて」において、蜂が体を掃除して、飛び立っていく描写が描かれている。小気味のいいリズムとやわらかい表現を使用し、丁寧に蜂の様子を描いているのだが、その動きが目の前に映し出されるようである。言葉が食べ物のおいしさを完全に伝えることができないように、言葉が完璧たることはないのだが、文字や口伝により、様々な情報が伝達されてきた。大人になっても子供の時の趣味を続けているが、むしゃらにやってきた子供のころとは違い、言葉として認識することで、理解を加速させることができる。純粋な子供のような吸収力はないのだけれども、違った楽しみがある。

 

自分の体の使い方を案外人は知らない。「考えるな感じろ」とキャッチーな言葉をうのみにして、理屈で考えることをあまりしない。本を読むのが好きで、漫画が好きで、ピアノが好きで、飲み会が好きで、数学が好きで、建築が好きで、柔道が好きなのが自分である。複数の世界を今でも持っており、それぞれがそれぞれに、言語を通して繋がっている。体の使い方というものに焦点を当てて、そこから重力というものの関係性についての他の分野での繋がりの一例を例示してみたい。

 

ピアノを弾いているときに、「アレクサンダーテクニーク」という骨格の使い方を体系的に書いている本を読んだ。鍵盤を弾く際に、指の先端に安定した力を伝えるのには肩甲骨と自分の体重を意識するというものであった。「ドレミファソラシド」と音程の違う音を違う指で、均等に同じ力で弾くためには、ちょっとしたこつがいる。何も考えないと、指先だけの力で弾いてしまいがちなのだが、手首を回すと指の稼働範囲を広げることができる。肘を使うと、指の先端と肘との向きをそろえることができる。肩甲骨を意識すると腕の重さを利用して、鍵盤を押すことができるようになる。体の体重を意識すると、腕の重さとプラスして体の重さもピアノに伝えることができるようになる。

 

ジョジョの奇妙な冒険第六部」のジョンガリ・Aがかっこいいことを言っている。

「筋肉」は信用できない。皮膚が「風」にさらされる時、筋肉はストレスを感じ、微妙な伸縮を繰り返す。それは、肉体ではコントロールできない動きだ。ライフルは「骨」で支える。骨は地面の確かさを感じ、銃は地面と一体化する。それは信用できる「固定」だ。

 

ピアノを弾く際にも変わりはない。筋肉は信用ができない。指先であろうが、腕の力であろうが、筋肉を使用した際の絶妙な力加減は、コントロールが非常に難しい。使うべきは重力である。論理は簡単である。「ドレミ」と弾く際、親指・人差し指・中指と順番に弾いていくのだが、先に示したように、それぞれの指の先端と肘の向きをそろえることで、作用点である指の先端と腕の重心の位置ををそろえることができる。腕全体にかかる重心を意識し、親指・人差し指・中指と都度腕全体を回していくことで、それぞれの指に同じ腕の重さが伝わる。体全体の傾け方により、そこに強弱をつけることができる。言われればそうかもと、納得がいくし、この体の使い方を意識して練習すると、かなり安定度合いが変わるのだが、このように説明してくれる人は少ない。

 

武道も同じように言葉で説明することができる。柔道において、相手を投げるためには、崩しが必要になる。崩しとは、相手の重心の位置をずらすことを言い、前に崩せば相手を担ぎ、後ろに崩せば足を刈れば倒すことができる。抜きという技術があるが、ひざから急に立つことへの支えを外すイメージを持ち、自分自身のひざを抜いてその瞬間的な重力の変化を利用して、相手の体勢を自分側に引き込むと相手の体勢は大きく崩れる。酔っぱらって記憶のない成人男性を持ち上げることの、多大な労力は知っている人が多いだろうが、脱力による自分の体重の変化を相手に即座に与えることができれば、それは大きな崩しになる。また、支えつり込み足という技があり、相手を前に崩したときに、相手の足首に自分の足をあてがい支点を作ると、簡単に重心をずらすことができ、立ち方のわからない人を容易に投げることができる。やって覚えてうまくいった感覚を調整していくという方法も悪くはないし、体育会的な根性論のノリも嫌いではないが、大人からの論理的な視点で、無駄な道のりを少しショートカットをすることができる。

 

いい建築とは何かと定義するのはとても難しいのだが、一つの視点から見ると力を感じる建物ととられることができる。丹下健三による代々木の国立体育館は非常に有名であるが、2つの柱を結んだ2つのケーブルがあり、そのケーブルに鉄骨の屋根の母屋をぶら下げることで、釣り天井を作っている。構造を合理化していくと、それぞれの鉄骨の部材の大きさは小さくなり、それに伴いケーブルと屋根の鉄骨部材のそれぞれの曲線が決まる。重力という枠の中での最大限の合理性の追求により、洗練された、軽やかな建物が生み出される。

 

ある程度重力というテーマに絞って言語の共通項をまとめてみたが、色々な切り口で、色々な世界を理解することができる。何かを突き詰めてやっていくと、ほかのことに転用できることなどいくらでもある。個性が重要というのは、その人が持つ独自性をほかのものでも、必ず生かすことができるからである。そんなときにおすすめなのが、言語化による記憶と、その記憶のアウトプットによる、他への転用である。世襲が根強かった日本では、専門的な考え方と一所懸命という姿勢が尊ばれがちであるが、今のIT化が進んだ世の中において、活かしやすいのは自分の専門を他に転用する独創的なアイデアである。独創的とは言っているが、自分が普段当然のようにしているものは、ほかの人にとって見れば、特異なことで、それを活かす方法させ見つけ出せば、金になったり、エンターテイメントになったり、誰かの助けになったりすることは多い。

 

4月は君の嘘

海外で弱った自分の心を奮わせるなにかを探しているときに、4月は君の嘘というアニメを見た。昔からタイトルを聞くことはたまにあったのと、自分自身ピアノを弾くのでとても興味があって見てみたのだが、平日の夜10時から見始めて、気づいたら朝の5時であった。このアニメを見て、なぜ自分が恋愛できないのかがわかった。

 

この物語はヒロインの女の子が、絶望に打ちひしがれた天才ピアニストである主人公の青年を救う物語である。伏線へのいい意味での裏切りが多い昨今の物語とは対照的に、4月は君の嘘というタイトルの意味が、早々にして容易にわかってしまうのだが、それすらも頷けるような、純粋な感情を描いた気持ちのいいアニメであった。「ピアノを誰のために弾いているの」「人の心に居場所を作れたかな」「届け」。自分を変えてくれた何かに対して想いを込めて、ピアノを弾く。その愚直で純粋な想いは、人の心を揺り動かす。灰色な世界をカラフルに変えることのできる、とても鮮やかな物語であった。

 

ピアノで最も重要なことは、音を聴くことである。自分の音の響きや、リズム、音程、それらを聴く力があって初めて、いい演奏とは何かを理解できる。ピアノにおいて響かせるとは鍵盤を叩くときの硬さと重さと速さに等しい。肩甲骨・肘・手首を連動させながら柔らかく使い、指の先端を固くして自分の体重を乗せながら押し込むと、凛としたいい音が出るようになる。ピアノは弦楽器であるため、そこに弦が見えなかったとしても、鍵盤を弾く際に緊張した弦をはじくイメージは必要である。作用点である指の先端と肘の向きを合わせて重心を一定にすると、安定して同じ力でピアノを弾くことができるようになる。なんとなくピアノを弾くのが好きだと思って続けてきたけれど、その響きに真面目に向き合ったのは、人の前で弾く機会があったからだった。人に聴かせるということは、自分自身が出す音と丁寧に向き合わなければならない。なにより音に何を込めるのかで、聞こえてくる音は多様に変化する。技術と込める想いが混じり合って、初めていい演奏ができる。

 

大切なのは、何かに込める想いと、それを伝えるための技術である。どちらかだけでは、うまくいかない。こじらせて尖っていた自分は、純粋な気持ちというものばかりを重視していた。自分は何をしたいのだろうか、それは本当にしたいことなのだろうか。そればかりを気にするが故に、人との間に壁を作っていた。自分が愛されているかを確かめるためだけの言葉や、孤独を紛らわすだけの態度、そしてそれらを無意識に行うその恋愛という行動には、どうしても心が動かされないと、いつも自分に対してもっともらしい言い訳をしていた。出来ない理由を作り出すことだけが、うまくなっていた。

 

このアニメのラストシーンで、「好きです。」と3回語りかけるシーンがある。相手の目を見て、はっきりと意思を伝えている。奇のてらいのない、卑屈さも尊大さも全くない等身大の自分自身の真っ直ぐな感情を伝えていた。とてもうらやましいと思った。

 

人生にただ一度だけ、本気で人に好きですと伝えたことがある。相手の目を見て言うのが怖くて、ただ純粋に好きですとメールで伝えた。人との恋愛の方法など、誰も教えてはくれなかったし、今でもよくわからない。その時も付き合いたいと思って言ったわけではない。なんとなく相手が好意をもっているのも分かっていたけど、その人の隣にいる自分をうまく想像できなかった。相手もそうだったと思う。ただ自分から溢れ出そうな気持ちを、相手に伝えたかった。その一心であった。とても懐かしい思い出である。

 

人の隣に居続けるためにも、技術がいる。それを技術と呼ぶのが適切かどうかはさておき、選ぶ会話の内容も、それを話す音程も、適切な間の開け方も、相手との受け答えの割合の適切さも、再現性があるという意味では、自分にとって立派な技術であった。好きだと言った自分には、十分な気持ちはあったのだけれども、その気持ちを表現し、持続するだけの適切な方法を知らなかった。気持ちだけを伝えてわめていたのでは、駄々をこねる少年と変わりはない。先人たちの真似をしたり、体の動かし方や、道具の使い方など、常に意識していくことで、継承や進歩ができるのが技術である。やってみて間違えて、直しながら改善していけるのが技術のいいところである。

 

自己肯定感が小さく、自分に厳しい性格で、相手に与えらるものがないと常に勝手に決めつけて、誰かの隣にいることを憚っていた。でも、色々な経験を経ることでやっとそれなりの年齢になって、等身大の自分として人と話すことができるようになった。自尊心やプライドや虚無感や色々な感情にとらわれることなく、老若男女いろんな人と作り物ではない嘘のない自分の言葉で楽しくしゃべることができるようになった。それは時には月15回キャバクラに通い、時には週3,4回友達と朝まで飲んでから仕事をして、時には闇の売人としか見えない知り合いと腹を割って話し、時にはアプリで出会った知らない女の子と飲みに行き、時には全く外に出ずひたすら小説や映画やラジオを見続けた、その行動の結果である。好きですとしか言えなくて、隣にいることができなかったふがいない自分を変えたいと思い続けた結果でもある。最近になって初めて、誰かの隣にい続けることができるという自信が、少しだけ芽生えた感覚がある。そんな自信なんかなくても、誰かが隣にいるだけで救われることなどいくらでもあるのだが。

 

恋に焦がれる年ごろの女の子のように、いつの日か「好きです」と等身大の言葉で相手の目を見て言える日を夢見ている。そんな夢をいつまでも見ているのだからダメなんだよとか、やってみないとわからないよとか、いろんなことを怒られそうだなとも思うのだが、自分の感覚に従って誰かの隣にいることのできる自分になれたのだから、自分の中に生まれる純粋な好きという感情に殉じてみたいと、改めて思っている。

 

主人公が弾くピアノの音色も、感情を表す色彩的な表現方法も、不器用な感情を伝えるストーリーの構成も、伝えたいまっすぐな想いとそれを表現する技術であふれていた。自分の人生などこじれてひねくれた、しょうもないものだけれども、何に嘘をついたとしても自分の気持ちくらいには嘘をつかないで生きたい。そんなことを思い出させてくれるアニメであった。