川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

上昇志向

よくわからない感情の一つに上昇志向がある。人を切り捨てでものしあがる。よく聞くセリフではあるのだが、あまり周りでそういう人をみたことがない。昔は、人の数が多かったから、自分の存在を示すかのように、上にいくことにより自分自身を証明したのだろうか。今は例外的な平和な世の中で、誰かと争う必要は無いから、上に行ってまで自分を見せつける必要は無いのだろうか。時代時代で見られる、持て囃される感情の違いについて、ちょっと考えてみた。

 

自分に上昇志向がないのは、ある程度自分という存在を認められたからなのだと思う。昔から、割となんでもできて、束縛もされることなく、自由に生きてきた。フロイトの考えに沿ってみると、抑圧された自我というのは、ときには神経質的に人を縛る鎖でもあるのだが、それを乗り越えた人からすると、大きなジャンプ台となる。自分自身おもしろい人に囲まれ、誰よりも平凡であるというコンプレックスを抱え続けたからこそ、それに抗う形で反抗を続け、おもしろい人であろうとした。抑圧された自我というのは、少なからずバネを抑えつけてるようなものであり、常にエネルギーを抱えているに等しい。それを主観的な方向性で正か負かに使うかによって、一般的に成功か失敗という呼ばれ方をする。

 

今、おもしろいのは韓国ドラマである。過去からの風習や圧倒的な権力、がんじがらめのルールに対して、主人公が自由に華麗にときには泥臭く失敗して、仲間と共に、既存の枠組みを取っ払う。それは、大概の物語で変わらない。それをおもしろいと思うのは、現状の自分が生きづらさを抱えており、そこに共感する部分が大きいのだろう。韓国ドラマでこういうおもしろい物語がたくさん生まれるのは、それだけ抑圧がされているのだと思う。

 

日本人とはとても奇怪な民族であると思う。どんなときにも微笑をたたえ、感情を表に出すことを極端に避ける。滅相もございません。つまらないものですが。大変恐縮ですが。自分自身を貶める言葉を使わないでしゃべることは難しいくらいである。日本人とは、昔から極端に復讐心というものを持つことができない民族である。戦争でアメリカに負けて対面した時も、適切な敬う言葉でしゃべるように苦心するほど、負けたときの引き際が潔いものである。昨日の敵は今日の友。そんなお互い斬り合っていた相手に対して、なんの抵抗もなく立場のみで、敵にも仲間にもなれるのである。武士道なんて、かっこ良さそうに見えるシステムを作り出したのは、誰よりも復讐心を持てない日本人に、制度を守る厳格さを利用して、うまく人心を掌握する都合の良い枠組みを作ったのだということもできる。

 

ルールというものは、できない部分に対して宣言として旗印的に作られることが多い。皆が当然のようにできることならば、そこにルールを作らない方が、管理するコスト少ないからだ。日本の武士道にしても、インドのカースト制度にしても、アメリカの独立宣言にしても、その国々の根源的なルールは、逆に言えば最もその国の弱さなのであるとも言えるところがある。弱い犬ほどよく吠える。えてして、表面的に現れる姿勢と内面は、全く反対であることがよくある。岸田秀のものぐさ精神分析で著者の根本的な発想は、個人の内面と集団の行動原理は同じ挙動をするものだというおもしろいテーマの設定があったが、今回の発想もそれを起点にして考えている。福岡伸一動的平衡でも、分子レベルで起こりうる現象は社会一般にも当てはめることができるという考えを持っており、発想としてはおもしろく、色々な切り口でこの世の中を考えることができる点で、とても有用な発想である。

 

上昇志向とは、下流に貶められた実感に対する反抗であり、束縛される側から束縛する側への移動に過ぎない。砂の器は、犯罪者の息子は犯罪者になるのかという、自分自身と向き合うの物語ではあるのだが、結局人は変わらないのでは無いかという、なんとなくそんな気もする事象をリアルに描いている。それと変わるとことなく、下流に貶めらる危機感を持った人間が、上流に行くために、周りを押しのけて上流にいくことで、下流の人々を支配するという、循環とも呼べる輪廻を有する。

 

そして今はその認識が薄い。人を大切にしなさいという教育を施され、自分自身も1人格として、尊重される。それは今まで苦しみ傷つき戦争をして、その上で勝ち取った立派な成果なのである。下流に甘んじようとも、1人の人間として食べる物に困らず、娯楽を存分に楽しめる事ができるこの世の中においては、特に自分自身の尊厳を揺るがすほどの抑圧はない。だから上昇思考が薄いのだと思う。

 

もう一つ個人の内面と社会の挙動が一致するという見解から、自分の状況を考えてみたい。最近女性と積極的に会うようにしている。その中で、上昇志向とも取れる女性に会うことが多かった。特に審査が厳しいマッチングアプリでは、ある程度男側のステータスを絞られることもあって、女性は容姿を厳粛に審査される。容姿というものは、化粧や見せ方によってある程度矯正できるものではあるものの、天性として与えられたものが多く、そこに磨きをかけることにアクセルを踏むことができるかは、どうしても資質があるかどうかによってしまう。女性社会の評価は残酷である。かわいいとか美人という天与の性質は、いい男性に会えるかどうかの大きな分かれ目であり、それによって極端に社会の評価が変わる。とても残酷である。

 

そういう意味で自分は呑気である。少なくとも、色々なことに頑張ってきたという自負があり、一目会った女性に否定されたところで、自分自身に対する評価というものが変わらないくらいには、自信があり揺るぎがない。だからこそ、弱みも存分に見せることができるし、格好の悪さもさらけ出すことができる。愚痴というコラムにも書いたが、刹那を生きる女性にとっては、そんな考えは甘いのだろう。一時期女性蔑視として叩かれた考えではあるが、子供を持てるまでの適切な年齢があり、それまでに常に評価される続ける視線を浴びせられたその抑圧の対価としては、いい男を見つけるため独善的に振る舞うというものは至極真っ当な話である。平和な世の中では、両性ともに中性化されるという話を聞いたことがあるが、女性はその抑圧がある分、男性的な上昇志向を持ちうるのは、それはそれでそうかなと思う。

 

人は皆誰かから認められたいのだろう。皆が皆何かしらの部分で、抑圧を感じコンプレックスを抱え、それを乗り切るために、力に変える。それは確かにいい方向である。激動の物語は、人を惹きつけ、人を誘惑する。何かの選択を行う理由として、自分自身に対して正当な物語と認識できるように決断を行うことは多い。

 

ここでの主張は2点である。個人の内面と社会の挙動はリンクする。人の内面と表面的な行動は相反する形として現れる。その2つの考えは何かを考える補助線として、非常に有用なものとして今現状では思えている。もうちょっといろんな方向で検討してみて、その理論に正当性があるのかどうか、ここでは上昇志向という現象に対して考えてみたが、色々観点から検証してみたい。

 

 

 

 

 

愚痴

自分の抱えている感情の中で、言ってもどうしようもないものは一般的に愚痴と言われる。ここに書かれているほとんどなど、論理的客観的に見せかけた愚痴であるのだから、少し感情面を存分にのせた愚痴を書きたいと思う。

 

最近前向きに女性と会うようにしているのだが、その中で少なからず感じるのは、自分のために生きる人が多いということである。これを表現したい。このために生きたい。誰かを幸せにしたい。そういう感情ではなく、自分という人生をきれいに卒なく楽しく生きるために、結婚相手というものを選定する。そんな意図が感じられる。対面したときに、この人の会話は自分を楽しませているかどうかを判断し、清潔感という用語で自分に害がないかを判定し、次に合うか合わないかを決める。その決まりきった問答の何がおもしろいのだろうかと思う。

 

論理から入るのは、非モテのかなしい性ではあるが、婚活を始める際にエーリッヒフロムの「愛するということ」という本を読んだ。1956年に刊行された古典的な本ということで、他の本を読み続けてきて、ここに書かれていることと似たような内容ではあったのだが、資本主義における人間の幼稚さについて触れている。神という存在そのものが、株式会社の取締役のような存在になっており、必要なときに自分を救う都合の良いものと成り下がっていることが書かれている。資本主義社会の中で、自分を高めるとは、自分への投資であり、自分の価値を高めることに重きを置かれる。誰も人を愛するという技術について、理解し実践することなく、自分以外の心理に対する客観性がないことに触れていた。

 

今の女性の容姿は良くなっていると思う。化粧品が良くなっているのか、エステに通っているからなのか分からないが、自分自身を飾り付けることに涙ぐましい努力をして、表面的な会話を続ける話術を習得し、料理や旅行や趣味などなんとなく耳ざわりのない話題を人の内面に触れずに、きれいに話す。それは、自分にとって良い男性に選ばれるための戦略である。そういうものを昔から女性に対して違和感として持っていた。

 

女性と相対して思うのは、人を幸せにしようという能動的な意識はあるのだろうかということだった。一見すると、相手のためを思って言っているようにも思えることなのだが、それは自分の庇護欲であったり、優越感であったりと、自分のために言っているように聞こえる言葉であると感じることがよくある。容姿をよくするのも、きれいな話題を話すのも、自分の利益のためとしか思えない。

 

別にそのこと自体を悪いと思っている訳ではない。人間であれば当然自分の利益のために生きることは、至極真っ当なことである。ただ、いただけないと思うのは、自分の意識を誤魔化して、さも人のために生きていると美化している、そのねじれた心理である。夏目漱石虞美人草には謎の女という女性が出てくるが、感情と発言は別のことをいう女を謎の女として登場させている。息子に対して世間体があるから出ていくないといい、常に自分の感情とは反対のことをいうことで全てを煙に撒いている。

 

ただ、こう思うのは自分が男だからである。人に対しての優しさであったり、愛であったりというのは、人それぞれ違う形として現れる。その表現方法にはいろいろなものがあり、誰かのために美しくいると言うのも立派な愛情であるのだとも思ったことがある。

 

前に男性のリアルと女性のリアルは違うという話を耳にした。男性にとってリアルであるとは、汚いものを露骨に顕すことである。漫画やアニメにおいて鉄骨の錆や、コンクリートのひび割れを緻密に描くことで、リアルというものを表現する。汚いおっさんや年老いた老人をそのまま登場させ、その人にもその人の人生に見合った人格を与える。対して女性にとってリアルとは、純化することである。少女漫画に出てくる登場人物は、主人公の女性も含めて全てが美化されており、汚いものを除いた純粋なるものを表現することが多い。登場人物は全てが、イケメンが美女であり、超能力を持っているとも思えるほど万能で、欠点すらもその人のギャップを示すだけの道具として使われる。汚いものを取り除いて、良いものを残すことが最もリアルな表現なのであろう。

 

それは興味深い違いである。自分のやり方は過度に男がすぎるのであろう。自分の心に嘘をつけないという心理が根本にある。相対する人に対して、数十年後も同じようにできないと思ったことをしたくはない。だからこそ、欠点を先に示す。それが最もリアルだと思うやり方だからだ。だからこそ人との付き合いは長い。最低限をわかりやすく示すことで、そこから良さを見せる方法を採用するため、最初はよく分からない人だと認識されることが多いが、最初の印象よりどんどん良くなっていき、基本的に印象が悪くなることが少ないため、関係性が長く続く。対して女性は、最もきれいなものを見せることを重要視する。相手に対して、良い印象を持たせ、その分相手からも良い印象を感じ取れることを大切にする。そうしていくと、男にとって誠実さとは、汚さを見せることであり、女にとって誠実さとは、きれいさを見せることである。

 

こう考えると、違いは時間的感覚なのであろう。自分は気が長い質であり、寛容であるから、何事もロングスパンで考える。それに対して、女性は美という概念に殉じているからか、刹那的に生きているように感じられた。ロングスパンで考えていくと、大切なことは成長であり、齟齬を少しずつ埋める作業である。自分を省みて違うと思ったことは改善していく。対して刹那的な考えでいくと、大切なことは不快感のなさである。相対する人に対して、不快に思わせることは、それだけで罪であり、美しさを見せるというのは確かに優しさである。視点的に考えていくと、男は遠くを見ており、女性は近くを見ることに主題を置いているのであろう。これは、役割の違いであり、生まれ持った機能の違いであると、いうことができるのかもしれない。

 

真面目に本を読んで勉強し、愚痴を突き詰めて、考え方の違いについて触れてみた。愚痴というのは、心の中に芽生える違和感であり、何かに対する諦めであり、自分と人との違いであり、新しい気づきでもあると思った。真面目に考えてみて、少しおもしろいテーマであるなと思ったので、これからもふとした拍子に考えてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性格の悪さ

出来るだけ、いい面も悪い面も拾うようにして、話を書くことを心がけてはいるのだが、オリジナリティとは偏見の積み重ねでできるものだという話を耳にした。偏見とは人に対して持つ自分の性格の悪さの集合体である。それなりのスペックでこの歳まで結婚出来ないのは自分の性格の悪さが根本的に原因なのだと思う。ただそれは、確実な良さであり、おもしろさであり、独自性である。どうせどうしようもない性格なのであれば、自分の性格の悪さについて、あまり良い面でフォローせず、性格が悪くなる理由について書きたいと思う。

 

自分の特徴は、基本的に人のことを馬鹿にしていることである。自分の中の優しい側面と合理的な性格が、悪い印象を持たれる不都合や不利益を感じ取り、知らず知らずのうちにいい人を演じるような振る舞いを求めるが、出会った人々を悉く下に見る風潮がある。それは自分の人生を賭けて、おもしろさという、あやふやな概念に身を投じた結果であり、誰よりも努力をして、勉強をして、考え抜いて、時間をかけて自分という人間を形作ったその成果である。

 

人を馬鹿にするのは、その人たちの読みが浅いと思っているからである。女性からドライだとか、冷静だとかいうことをよく言われるが、その批評は検討外れだと思っている。単にその女性がもつ価値観や狭い範囲内の考察による、自分の利益のみを考慮する考えに同調できないだけで、誰よりも情に熱く、優しく、献身的である。一言で言うならば、死生観とスケールが違う。自分にとって、生きていることはそれだけですごいことであって、どんなに絶望の淵にいようが、病むことがあろうが、死ぬことに比べればたいした問題ではないと思っている。こんな平和で、雨風をしのげて、食べることに困らない世の中では、生きてさえいれば、どうにかできる。そう思っている。その中で他人のために頑張ろうとしている人を見ると、その人のために頑張ろうという気持ちになる。それは親戚とか友達とか、相対的な関係性の中ではなく、各人に対する絶対的な評価である。目の前にこまっている人がいれば助ける。だからこそ、建設業という非常に混み合った人間の絡み合う仕事は手を抜くことができない。対して女性は、身近な自分の周辺に位置するものに対しての特別な優しさを発揮する。家族に対して優しくなかったり、友達に対して厳しく当たるなど、その考えから逸脱する存在に対して、負の評価を与える。

 

知り合い夫妻の新居ができた時の話である。その時自分は週7で働いて、週3日通勤の時間を惜しんで、仕事場の最寄りの漫画喫茶に泊まっていた時のことである。辛そうなことも楽しそうなことも、あまり顔に出さない性格であるから、新居のお披露目とあって呼ばれれば、何食わぬ顔で新居を訪ねる。そこで奥さんから求められたのは、新居の検査と引っ越しの手伝いと、電球の設置である。何食わぬ顔で接するのは、辛さを全面に出してその場の雰囲気を悪くすることに対する配慮である。一から自分の辛さを説明して、同意と共感を求める事は簡単だが、得てして損をする辛い人生を送りがちな自分の状況を、苦しい顔をして毎度説明しても、いいことなど何一つない。それを理解しているから、何食わぬ顔をしている。電球の設置や引っ越しの手伝いに対して、自分の体力の限界を超えてやることなどできないから、業者を紹介して金も出すからと答えると、スーパードライだという。その問答そのものが間違っていると思う。

 

知らないものを知ることはとても難しいことである。当然子供を持つ母親の苦労もあるのだろうが、9ヶ月の育休をしている旦那がいてどの口が手伝ってと言えるのだろうか。一般的には週5で朝7時から夜22時まで働き、土日も書類の整理している人の考えなど分からず、そもそもその状況を想像することさえできないだろう。自分が持ちうる感情など、目の前で働く人たちが困らないように、いいものができるようにという祈りだけであって、自分の限界を超えたとしても、それで気持ちよく皆が笑って仕事できるのであれば、それ以上のことはないという優しさのみの考えである。その上で、疲労が残る体を引きずって、疲れなどおくびもださずに、来てくれた人に対して、ドライと評するその考えが分からない。この感情のどこをドライだというのか説明してほしいというのが、その人に持つ率直な感想である。

 

性格が悪くなれるのは、実が伴うからである。口だけでなく、むしろ口で言うことは少なく、背中で見せる。意地を張り通すだけの、根拠と実行力をもち、限界を超えてまでやりきる実がある。狂気と酔狂の狭間に優しさを据える人間を、適切に評価できない自分の想像力の欠如から、分からないものに対してドライとか冷たいとかいう言葉を選ぶ、その裁量の狭さを馬鹿にしているのである。自分の時間や金の節約なんていうつまらないもののために、自分という存在を使うのではなく、この世の中の人を笑顔にしたいという大義のためであれば、喜んで力を貸す。その情熱と優しさが、自分のレベルまで達していないから冷たく見えるのである。

 

こんなことをそれぞれの人にそれぞれの理由で思っているのである。思っていることは決して口に出しはしないし、よく分からない人だと関係性を終始することにしている。よほど自分のことを改めたいと強く念じているのであれば別だが、自分の考え方など幸せに生きている人にとっては毒でしかない。そもそも幸せとは、他人を顧みない鈍感さゆえに持ちうる幻想と思っているのだから、口に出さない方がいいと思っている。

 

無駄な頭脳が自分の行動に正当性を見出し、それが行動を加速させる。その負のループの結果辛い人生を送っているのだから、結果としては頭が悪いとも思うのであるが、その状況をおもしろいと思ってしまったのだから、そんな人生に殉じてみたいと思ってしまったのだから、仕方がない。だからこそ人を馬鹿にするのも仕方がない。自分の納得のためにやっているだけだからと強がりを言って、人の評価は気にしていないと嘯いてはいるが、なんだかんだで人から認められたいというかわいい気持ちがひねくれて、性格の悪さとなっているような気がする。

 

なんだかんだ言っても、頑張っているねと認められたいのだなと思った。まじめに考えてみると、とてもかわいい性格の悪さであると感じた。

 

 

上司

海外で囲まれているのは2回り以上の上司であった。建設業ではよく聞く話であるが、氷河期もあってか、40代の構成する働き盛りの人員が少ないため、今まで直属の上司は少し上か、大分上の人が多かった。建設業は過酷である。何も疑問を持たず、当然のように土曜日も祝日も働き、朝は7時から夜も22時まで働くことは普通のことである。周りの友達からしても、どう考えてもおかしい働き方を続けており、それ以上に過酷であった2回り上の上司たちは普通ではない。少し、率直な意見を書きたいと思う。

 

当然のように、土日も祝日も朝も夜も働くためには、自分の中に正当化できるだけの理由がないと続かない。建設業の特徴に、完成形として建物が出来上がるため、とても分かりやすい仕事である。お客さんや設構備協業して計画を作り、技術的に建てられるかを検討し、膨大な見積りを作り、申請を出し、図面を書いて、職人に指示して、周囲への理解も行いながら、建物を作っていく。ある程度大枠では同じ建物でありながら、それぞれが個別の要件になっているため、どれもが独創的である。その世界で生き延びて、今でも第一線に立って働いている人というのは、仕事をする速さも、正確さも、全てが一線を画している。

 

海外と日本で明らかに違うのは、一緒に働く人々がプロフェッショナルかどうかである。日本だと、どの業種のどの人と話していても、実現可能な技術や補償や契約を期日の約束を守りながら話すことができる。ただ、海外における建設業では、ローカルの会社には自分の製品を保証するだけの確証がないことが多く、原則は壊れたら直すである。日本的な建物を世に送り出すためには、全てを自分の目で見て、論拠を述べるだけの知識を得て、適切に指示して、確認して、仕事を進めていかなければならない。対応する人数にも限りがあるため、人が対応する範囲は必然的に、広範囲をカバーしなければならない。

 

その中で生き抜いてきたのが、今の上司である。日本では考えすらも起きなかった細かい事象についても確認し、その返答を求める。プロとしての知識も、一般的な総務も全てを一手に引き受けなくてはならない。尋常なことではない。海外特有の事象と曖昧な環境に囲まれて、日本と同等の要件を会社は求める。そんな中で生きてきた今の上司を一言で言うのなればプロフェッショナルであった。古い会社特有の職人気質の性質を持ち、頑固な考えで協力会社にも日本と同等な品質を求める。図面をチェックし、工場をチェックし、現場をチェックし、お金にも妥協はしない。

 

プロは相手にもプロを求める。周りに対してプロを求めることはできないのだから、入ってきた部下にプロフェッショナルを求めるのは当然のことであろう。海外という初めての土地でコロナという特殊な状況下で、当然のように仕事をこなすことを求めるそのスタンスは、普通の人であれば相容れないだろう。話をしていて、1週間で分かった。机の後ろの席には膨大な数の資料があり、語られる言葉は厳密で、常に問答に逃げ場がない。それは数えきれない逃げ場のない苦労の結果なのだと。今回これ以上この環境で仕事をしていくと、自分の何かが壊れると思った。誰に迷惑をかけようが、上司の負担が大きくなろうが、そこから逃げなくてはならないと思った。

 

だからこそ全てを伝えた。どうやっても今の自分に与えられている環境は異常なものであり、それを鑑みない上の方々の方針にはついていけないと。今のまま組織を運営していって残るのは、よほど無神経な人か鈍感な人でしかない。強者しかいない組織というのは、とてもぎすぎすする。相手の立場や状況を省みない発言を言える人だけが、残れるのだと思うが、そんなものは新たな風通しの悪さを作っていくにすぎない。

 

上司には知識も経験も全てある。足りないと思うのは斟酌であると思っている。少なくとも、事務作業を肩代わりし、いろんな物を積極的にやろうとしていた若者がいなくなったことで、我が身にふりかかる苦難から、自分の考えを見つめ直すと思う。今でもその技術力を尊敬している。海外でも厳密であろうとするその姿勢も、今の自分では到底ついていけなかったが、今後折に触れてその凄さを実感するのだろう。

 

老害とか頑固とか時代を分からないという話で済ませるのは、とても簡単な話である。でも、お互いの状況を歩み寄ろうとする意思こそが、持続可能な良い組織の運営に必要なのではないかと思った。

 

 

 

 

 

 

リア充の写真

一番初めにも書いたが、幸せな人を色眼鏡で見る癖がある。Facebookで幸せそうな家族な写真を見るたびに、絶望の淵にいる人たちのことが思い浮かぶ。それは単に嫉妬という感情なのか。ひねくれているからなのか。自分自身がいいやつであることも嫌な奴であることも自覚はしているのだが、自分の中に毎度のように浮き上がる感情とその理由について少し詳細に考えてみたい。

 

王族とは生贄のシステムであるという考え方がある。誰が王様になっているかというより、王様という存在が、特定の社会を存続させるために必要であり、平常時では王様は栄華の限りを尽くす。右向け右の号令で末端の人々の暮らしを一変させる権力をもち、国中から集められた食べ物や女をむさぼる。とてもいい暮らしではあるのだが、それが戦争や飢饉や階級闘争により、危機的な立場に立った時に、処刑されるという運命を持つ。スケープゴートとしての役割の対価に栄華をむさぼると考えると、妥当な報酬ともいえる。上の者にはいつも、栄華の対価としてうまくいかないときの凋落という生贄的な役割が存在する。

 

岸田秀のものぐさ精神分析の中で、抑圧された自己に対して聖なるものの凋落を求める快楽を説いている。真正面から見る裸よりも、何気なく見える姿にエロスを感じ取るように、大衆はいつも社会の一員でかつ、自分のより上の社会的地位と名誉を持つものが隠し持っている穢れたもの尾を暴き出すことに異常な興奮を覚える。それが大学教授であったり、天皇であったりと、社会一般で聖的なものと認められる立場にいる人が、ふとした拍子に穢れたものが露呈された際の大衆からのたたかれ方は、異常とも思える様相を呈している。この本自体が1977年に刊行されたものであるから、日本国内において今でもたたかれている芸能人の様子を見ていると、昔から受け継がれる社会的動物としての生来の性質なのであろう。

 

常に人はどこかしらで何かを夢見ている。自由に生きている人を見てうらやましいと思い、家族をもっている人に憧れ、成功している人を羨望のまなざしで見つめる。実際に行動してみてやればできるかもしれないのだが、自分は自分だと言い聞かせたうえで、今までの生き方を踏襲し、ほかの人が歩んでいる道を見て聞いて簡易に追体験することで、今の自分を保っている。抑圧された自我を保ち現状を肯定するためには、時にはその憧れが凋落する様子を楽しむのは致し方がない。

 

上記の理由が幸せな人を素直に受け入れることができない理由の一つである。自分は自分の中に、規律と禁欲を求める傾向が強いため、その自分を肯定するために幸せを遠ざけようとする。抑圧された中で生きる自分自身を認めるためには、幸せな人を素直に認めようとはしない。

 

もう一つの理由としては、幸せとは想像力の欠如によってのみ得られる自分勝手なふるまいだと思っているからである。この世の中は、技術も知識も経験も国土もインフラもすべてが昔の人から引き継いできたものである。今生きて得られた身分や能力や収入など運によってたまたま自分のところに運ばれてきたものであって、努力するという事自体、努力できるように育てられた環境と先祖からの慣習を引き継いでいるだけであって、自分が身一つで成り立たせることができることなど何もないという考えが前提にある。

 

鬼滅の刃の煉獄杏寿郎の母親が以下のように言っている。

「生まれついて人よりも多くの才に恵まれたものは、その力を世のため人のために使わなければなりません。天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任をもって果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように。」

 

言葉を聞いて人がどう解釈するかは人によって大分違うとは思うのだが、幸せというもの自体が天から賜ったもので、それを持っている時点でこの世の中で強者であると思っている。そして、それをどんな形であれ人に還元するべきだと思っている。SNS上で幸せな様子を残すことは、限定的な家族のみに終始する幸せであるため、この世の中に還元しているとは到底思えない。自分の思い出の写真の整理のために、載せるという考えもわからなくはないのだが、不幸せな人々がそれらの写真を見ることで自分の弱さを再認識してしまうという、その心の痛みを理解しない想像力の欠如をどうしても感じ取ってしまう。

 

才能とはGiftであり、与えられたものである。与えられたものを自分の中にため込み、肥し続けることがよくないのは、経験的にも論理的にもそうだなと感じる。幸せであることは一向にかまわないし、それをSNSにあげることに対して直接的に人にどうこういうことは決してないのだが、自分の幸せは自分が勝ち取ったのだと、さも言い切るように見られるリア充の写真を残し続けるのは、たたかれても致し方ないと思う。幸せであることを知っているのであれば、知らない人に教えてあげて欲しいと切に思う。教えるという行為そのものが、本質的な理解を要し、表現の仕方によって劇的に効能が変わる。誰かに幸せを教えてあげようと真に向き合うのであれば、その表現も自分の行動も変わっていくと思う。

 

「人にやさしく。世界が平和になりますように。」

ポエムのように書き連ねる抽象的な概念も大いに結構であるが、時には歴史的・具体的な検証も必要なのではないかと思っている。幸せそうな写真を見て、こんなことを思っているのだから、やさしさと同時に呪いでもある。だからこそ考えるということ自体を軽々に人におすすめはしないのだが、自分が与えられたものを誰かに渡していく、そんな優しい循環のある社会であることを強く願っている。

 

 

 

 

ヒカルの碁

いつでも黄金時代は昔であるように、過去の想いでは大抵のものが美化されている。どんなに退屈であったとしても、どんなにつらかったとしても、何かを食い入るように見たり行ったりすることは、勝手にきれいな思い出になる。改めて今再度見直したときに、昔以上に感動した物語があった。ヒカルの碁である。

 

素晴らしいと思うのは、構造である。SF小説ともとれる、師匠となりうる佐為(幽霊)が存在し、その佐為の存在がヒカル(主人公)の碁の成長を導く。師弟関係そして、そのライバル関係。師弟ともにライバルがおり、それぞれがそれぞれの「神の一手」を目指す。過去と未来をつなげる。それがヒカルの碁の最も根源的なテーマなのだけれども、世代の変遷・意志の引継ぎ・自分の存在意味・才能の世界での葛藤、かかわる人すべての心境が絵とともに丁寧に描かれており、とてもきれいな作品だと思った。

 

アカギとも共通するけれども、こういった作品で碁についての知識はあまり必要がない。「初手天元!!」「左上隅小目」「星」。全くよくわからないのだが、なんかわからないけど感動してしまう。新しく深く何かを知ること。自分のちっぽけさを思い知ること。それでも頂きに立ちたいと思って行動したいと思えるほどの動機と出会うこと。それはどんな分野であろうが変わらないのであろう。

 

好きなシーンが3つある。主人公に取りついていた佐為が突然消えて、碁の中に佐為を見つけるところ。ヒカルが初めてプロになり、名人と戦う際に佐為が代わりに大きなハンデを自分に課して対決するところ。佐為がネットの中のみに名前を出して、名人と初めてオンラインで本気で対決するところ。それぞれに好きなセリフがある。

 

「いた…どこを探しても見つからなかった佐為がこんなところにいた…」「できれば互い戦で打ちたかった。なんで君がこんなことをしたのかはわからないが、それでも君の持つ何かは隠し切れない。」「私はヒカルにこの一局を見せるためにこの悠久の時を生き永らえさせたのだ。」「碁は2人でなければ打てないのじゃよ。」

 

そのセリフだけで全ての状況を暗示できるほどの意味を込めており、簡潔に言いあらわしたそのセリフと、絵の演技がとても分かりやすく、不必要な全ての言葉をそぎ落としている。

 

坂口安吾堕落論の中で、次のように言っている。「美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識してなされた所からは何も生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のある事、ただ、そのやむべからざる必要に飲み応じて書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が美をうむのだ。 - 問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。」

 

友情・努力・勝利のジャンプの基本原則に、師弟関係、世代関係を追加して、必要のみを描いたこの作品に、今の自分は美を感じた。時代を超えても推奨できる稀有な名作であると思う。

 

 

 

 

本の紹介

どんなに引っ越しをしようとも、毎回ついてくる本がいる。買っては捨ててを繰り返しているけれど、歳を経るほどに読み方が異なる本は、いつも見えるところにおいてある。もういやだ。そう思うことは色々あるけれど、そんなときに現実逃避をするために難解な本を読む。そうすると、少しだけ現実から離れられる気がする。

 

分かりやすいことが好まれる時代である。キャッチーな言葉で、一目で人を惹くことを今の人は主題にする。でもそれは、株式会社的な個人主義的な近代の考えである。たまに、中学で見た一番好きな映画のラストサムライを見返すのだが、どんなに近代化がなされて科学が進化し、技術が進もうが、今の自分たちを作っているのは、過去から受け継いだものだけである。「自分たちがどういう人間であったか忘れてはいけない。」良いことも悪いことも含めて、今の自分たちがある。どうしても流行になじめないのも、好きなことで生きていくという生き方に従えないのは、よく言えば過去生きてきた人々に敬意を払っているからである。

 

分かりやすいものが好まれる世の中で、あえてわかりにくいものの紹介。ワークライフバランスといって、自分の楽しさというものを追求することは、とても素晴らしい考えだけれども、不自由な状況の中で、時には自由を求めて、時には何かを守って、命を懸けて生きることは、案外幸せだったのではないかな思える本。受け継がれ伝えられるものはそれだけの理由がある。そうやってブラック企業が醸成されていくのだから、それも考え物だけれども、一つの考え方の補助線として。辛い状況を乗り越える一つの方法として。

 

浅田次郎 「壬生義士伝

一般的にはモブである新選組の1浪人を描いた作品。二駄二人扶持の貧乏侍が、脱藩し己の才覚を、家族のために生きるために使ったお話。

「人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ - しかしそのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。」

 

夏目漱石 「虞美人草

初めて出版するために書いた処女作。人や物の描写等まどろっこしい言い回しは、面白いけど読みにくいが、少年ジャンプのような熱量で書いた作品。

「真面目とはね。君、真剣勝負の意味だよ。相手をやっつけなくてはいられないって意味だよ。」

 

谷崎潤一郎 「春琴抄

盲目の三味線弾きの少女とお付きの男のわかりにくい恋心を描いた、つんでれの原点とも言える作品。琴の師として弟子に対峙しその挙動を常日頃から恥ずかしむるる様子盲目で独身なる偏屈さを感じられるも凛と端座した端麗な口元から発せらりける言葉誠に痛快で優美なる事この上なし。人間の奥底にあるマゾヒズムという感情を、特殊な背景を持つ特殊な二人に持たせるとこういう答えになったという、ある意味必然とも思えてしまう関係性の特殊解を巧妙に描いている。

「天鼓のごとき明蝶の囀るを聞けば、居ながらにして幽邃閑寂なる山峡の風趣を偲び、渓流の響の潺湲たるも尾上の桜の靉靆たるもことごとく心眼心耳に浮び来り、花も霞もその声の裡に備わりて身は紅塵万丈の都門にあるを忘るべし、これ技工をもって天然の風景とその徳を争うものなり音曲の秘訣もここに在りと。また鈍行の指定を恥しめて、小禽といえども芸道の秘事を介するにあらずや汝人間に生まれながら鳥類にも劣れりと叱咤することしばしばなりき」

 

ジョージオーウェル 「1984

世界が3つの大国に併合されて人員の思想がコントロールされたディストピアの世界を描いた作品。真理省と愛情省と平和省と豊富省により統治された世界。過去を書き換えることが当然の世界であれば、人の考え方などいかようにもなるという並行世界を描いている。

「対立が生み出す矛盾のことを完全に忘れなければならない。次には、矛盾を忘れたことも忘れなければならない。さらに矛盾を忘れたことを忘れたことも忘れ、以下意図的な忘却のプレオスが無限に続く。」

 

ル・コルビジェ 「建築を目指して」

建築を設計するにあたり、心構えを書いたような本。もの見ざる目。いかに人が物を見ていないかを嘆いていて、建築とは住むための機械であるというとおり、部分的な意味を大切にしている考え方を説いている。

 

九鬼周造 「いきの構造」

大正時代に描かれたいきについて構造を解説した作品。語源的な考察、時代の確認、宗教観。複数の立場からいきの構造についての説明を論理的・端的に行っている。

いきとは、垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)なのだという。いきの根底は色恋にあり、それをはねつけるだけの心の強さがあり、真剣さを免れるためのあきらめが必要なのである。

 

内田樹 「日本辺境論」

日本人の考え方・行動原理を辺境という切り口で、描いた新書。日本という国名そのものが、中国を起点としている通り、常に絶対的な何かに対しての相対的な位置を確立している。何かを主体的に引っ張て行くというよりは、後の先を取るような意識により今の日本があるという考え。論理的というよりはビックピクチャーを描いており、わかりやすく肩肘はらない本。

 

坂口安吾 「堕落論

人は生まれ堕ちたときから堕ち続けているという堕落を勧める本。本当は、一切の堕落をし先の、根本的で根源的な人間的な感動や感情こそが真に必要と説いている。

「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけである。しかしながら、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。 - だが他者からの借り物でなく、自分自身の純潔なるものをとどめ、自分自身の武士道ないしは天皇を編み出すためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのである。」

 

山本兼一 「利休をたずねよ」

才覚に優れた千利休がなぜその才覚を持ち続けることができたのか、内面の動きと周りからの見られ方を含めて、丁寧に描いた作品。同時代を生きた秀吉との確執が生まれる様子を描いており、歴史小説というよりは、頂に立ちうるための素養や気質また、それにより生じる確執を教えてくれつつも、心の内に秘める激情と静かなる侘び寂びを体現する茶の世界を描いた、静と動入り乱れるドラマティックなお話。

「あの日女に茶を飲ませた。それからだ、利休の茶の道が、寂とした異界に通じてしまったのは。」