川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

あり

2週間のホテル生活の中で部屋の中にありを目にする。とても小さいやつだ。多くはないが、決して少なくはない。仕事をしているときに視界に入ると、集中力が切れてしまうのと、体に上ってくると少しくすぐったいが、生活の上でそれ以上の差し障りはない。触覚を整えている様子は見ていてとても可愛い。3階であり、特に何もない部屋まで遠征とはご苦労なことだと思う。

 

前に、働かないありには意義があるという本を読んだ。働き者のありの中には2割、働かないありが存在するという内容だった。いいご身分だ。働いたら負けだと思っているのだろう。そんな2割の働かないありだけを集めると、そのうち8割は働き始めるという。そして2割は働かない。案外ありも空気を読んでいるのかも知れない。他のありが働いていないと働かなければいけないという義務感が生まれるのだろうか。他のありが働いているのをみると、さぼってもいいのではないかと2割のありは思うのだろうか。これは「反応閾値」という考えで説明をされている。何かの行動に対して、リアクションをするのかしないのか、個体ごとに反応の閾値が異なる。結果的に働くという行動に対して、2割程度のありでは閾値を超えられない。

 

2割のありは常に余剰戦力という形でストックされている。自然環境は非常に厳しい。明日大雪になるかも知れないし、思わぬ食料が手に入るかも知れないし、心ない少年に巣を水攻めされるかも知れない。変化に対応するためには、余剰を内包していなければならない。会社で言えば、パソコンでソリティアをやっている何も仕事をしていないようなおじさんがそれに値する。ドラマではそういう人が、素晴らしい洞察と謎の人脈を活かして問題を解決するのだが、本当の危機に直面したときに実際にそうなるのかもしれない。同じタイプの人間しかいないチームはうまくいっている時はいいが、危機的な状況に対しては非常に脆い。

 

世の中にはニートが多く存在する。その実態が詳細に把握されてはいないようだが、年配の方もいれば女性の方もいるそうだ。昔は情報が滞っているから、今になってやっと存在が認識されているのか。それとも時世的に増えてきたのか。どちらにせよ、現状の世の中から受けるプレッシャーに対して引きこもるというリアクションをとるのは、種としての生存の戦略ではないのだろうか。今は変化の時代である。将来への予想がつかない。プレッシャーが強すぎるのかもしれないし、一定の層働かない人がいるのは当然なのかもしれない。ただ、ニートは立派な余剰戦力である。一つ一つの家の中で親と子の激動の物語があろうと、ニートが多くいるという事実に罪はない。本当にこの問題をどうにかしようと思うのならば、まずは詳細な分析から始めなくてはならない。生物学のような視点で観察をされなければならない。引きずりだして、スパルタの教育をしろということには同意をしかねる。

 

一生懸命に働く代名詞としてありを例示されるのだが、そうでないありもいる以上、例示されて働きなさいと言われた際は、反論することにしている。物事は1つの側面だけでみるべきではないと思う。Googleの社員は仕事時間の2割を、趣味なり自由な企画に当てはめるというやり方を持っている。いい割合なのだと思う。周囲への気配を感じ取るために、常に2割の余裕は残していなくてはならない。僕自身もそうでありたいと思っている。別に働くために生きているわけではない。別に働かないわけではないが、よくわからない本を読みよくわからないドラマを見てよくわからない人と飲みにいきたいと思っている。いつかそれが大切なものにつながると信じている。

 

好きな小説家に森博嗣がいる。理系の工学者であって、小説かエッセイの中で専門を修得する意味について語っている。一つの専門を極めるということは山を登ることに似ているといっている。ある一定の専門になるとその人以上に理解している人はまわりにいなくなるというのだが、違う人の研究にもお互いにアドバイスができるという。山の頂上からは他の山々がよくみえており、山の登り方さえわかれば、その目指す先に必要な行動・ペース・歩幅・持ち物が分かるからだ。まずは自分の専門を頑張ることから始めなければならない。案外人は言い訳が多い。

 

ありは真社会性動物で力持ちで家も作れて研究の題材としてキリがない。そんな空想に耽っていると仕事もろくにせず、缶詰生活もはや1週間経過してしまった。2週間が1年でも良かったかなと思う今日この頃である。