川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

哲也

最近はとても親切な世の中だと思う。多様性が重んじられ、個性を尊重される。すべてのものは人が快適に使いやすくなるように作られ、必要な情報は滞りなくスムーズに提供される。サランラップは片手で切れるし、掃除用のころころは床に引っ付くこともなくなり、インターネットにアクセスして数秒でドラマを見ることができる。「あなたはかけがえのない存在です」。人は常にそういわれており、特に自分で生きる意味を考えなくても、何となく生きられる世の中になっている。

 

哲也は主人公が勝負師として成り上がる、1昔前によくある麻雀のアニメである。「お前には力がねえ」。哲也が一人の玄人(バイニン)に出会い賭け麻雀をして、有り金全額をむしり取られ立ち尽くしていたときに、そう言われる。哲也には「力」というものがわからない。「俺にはこれしかねえんだ」。すがるように教えてくれと頼み込み続けた。見どころがあると思ったのか、玄人は哲也をとある雀荘に無銭でひとりぼっちで放り込む。カモにされて、ぼこぼこにされながら生きるための「力」を学ぶ。そうやって物語は始まる。

 

まったくもって親切心のかけらもない。説明もなくマニュアルもない。ほかに生き方を知らないため、わからないままにやるしかない。どうにかして自分の頭で考えて、痛みを覚えて、そうならないように生きる方法を探す以外に道はない。誰でもない自分の足で立って歩き続けるしかない。最近の時世とは全く逆の考え方だ。

 

何かを手に入れるということは、何かを失うということに等しい。「安定」を手に入れれば、「スリル」を失う。「才能」を手に入れれば「平凡」を失う。「繋がり」を手に入れれば「孤独」を失う。望むにせよ望まぬにせよ、何かを得た際には必ず何かを失っている。物語には何かを手に入れることで何かを失う無常さを問うものが多いのは、歳を経て感じるその無常さへの共感に深く染み入るからなのであろう。

 

親切な世の中になることで何を失っているのだろうか。それは生きる力だと思う。親切さとは文字通り”自然”ではないと思う。自然は弱肉強食の世界であり循環の世界である。強いものが捕食し、弱いものは場所を限定したり、小さくなることで自分の身を守ろうとする。強いものは食べ物がなくなる危機と向き合わなければならず、飢えと戦っている。親切心などはない。同じ縄張りにおいてお互いの相互支援などはあるのだろうが、過剰な親切さなどはない。

 

今の世の中は歴史的に見て例外的な平和な世の中である。国にもよるが、飢饉もなく戦争もない。明日食べるのものの心配をしなくてもいい。素晴らしいことだと思う。でもそんなさなかで当然のように受ける親切は、考える力を減衰させる。生き抜こうとする必要がないからだ。必要とは発明の母である。

 

身一つで生き抜こうとする覚悟を持って玄人とする。知識や技術に先行して覚悟がなくてはいけない。それを哲也は理解する。それはどんな職業でも変わりはない。「願わくば 我に七難八苦を与えたまえ」「むごい人生よもう一度」。苦難を求める名言は多くある。別に今あるものを捨ててわざわざ苦難を求める必要はないけれど、そういう人はかっこいいなと思った。