川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

大人

自分の足で立って生きるかどうか。常にそれは生きていくうえでの命題であったと思う。今まで生きてきた中で、もうどうしようもなく逃げ出したいと思うことが数回あった。辛く、寂しく、孤独で、不安で、誰にどう伝えていいかもわからない感情を抱えて、それでも進むしかないと自分に言い聞かせながら、時には現実を逃避して、自分をごまかしながら、歩みを進めてきた。自分の足で立って進めてこられたのは、自分の人生がだれのものでもなく、自分のものだという意識が常にあったからだろう。

 

最近過干渉の母親について取り上げられることをよく目にする。ゆとり世代、さとり世代といわれるいわば、新しい世代の上の世代の親たちのふるまいである。母親というのは、子供の弱さを知り尽くしている。一人で生きていけない赤ん坊のころから誰よりも自分の手で育てあげてきたのだから、当然であろう。子供の成長は早いと言いながらも、その子供たちを庇護し、人生をかけて苦労して育ててきたのであるから、人情としては頭が上がらない。

 

母親と接しているときにたまに疑問をもつのだが、自分に対して発せられる言葉は、誰に向けて言っているのであろうという時がある。部屋を片付けなさい。勉強をしなさい。早く風呂に入りなさい。身ぎれいにしなさい。与えられた役割を鋭敏に感じ取る庇護される対象である少年には、その命令ともとれる注意を察して行動に移すことを強いられる。反抗期を通して、そこに駆け引きをしていくのだが、どんな状況でもご飯を提供し、寝るところを整備してくれる親には絶対的な優位な立場がある。それが無くては生きていけないのだから。

 

そもそも少年の生きる世界は、家庭が非常に大きな割合を占める。学校に行ったり、部活動をして、多少のほかの世界も知りうるのだが、大きく見れば環境の似通った友達との関係性の中で把握できる世界には限界がある。そんな最中で絶対的に発せられる親からの発言については、それを実行するにしろしないにしろ少年の感情には大きなウェイトを占めていく。案外その言葉が本当に本人に向けていっているのか、世間を気にした上での発言なのか、何となくでも感づくものである。

 

自分の反抗期を思い返すと、親への反応が少し独特であった。今改めて考えてみると、親というのは子供の庇護することを欲しているのではないかという解釈をしていたように思う。反抗とは相手の嫌がることをすると定義し、親に一切の面倒をかけないことをもって、謝意を表しながら反抗をするという、孝と自立を矛盾させずに自身に引き受ける独特なスタイルをとった。学校での成績はよく、部活も熱心に励み、誰に迷惑をかけることもなく、親に対して自分喜びや苦しみといった感情をさらけ出すことがなかった。社会の厳しさは薄々と感じていたから、自分に必要であろうことを粛々と遂行し、自分の中に何が足りていないのかを常に計っていた。家庭ではとても無口な少年であったと思う。

 

過干渉の親はすべての行動に口を出す。素直に受け入れることができればいいが、それが少年を主体者として認識しているかどうかで、少年の反応は大きく異なると思う。どう考えても世間体を気にして発言し、少年自身を主体者と認識されていないと本人が感じた際に、それは呪いの言葉に変わる。自分自身の気持ちを持たず、親の言われた通りにやってきたのだから、その発言に対しての行動の結果は自分の責任ではない。いわれた通りにやってきて今こうなった。それはあなたのせいだと。反抗心の分だけ失敗を自分から引き受けるようになる。それだけ、あなたのせいだという言葉の切れ味はいいものだからである。結果的に自分の行動に対して責任を負うことができないため、社会で働き始めて挫折をする。自分でそう決めつけている節もあるが、社会は辛く厳しいものである。自分で気持ちを引き立てて、生きていくしかない。こうして自分の足で立つことができない大人が出来上がる。

 

お金があまりあって、常に隣に親がついている状況であれば別だが、結局のところ人生など自分で生きていくしかない。こうしてある程度の年齢になってよく考えると、親に自分の行動についてほとんど伝えなかったのは、それを伝えて何かを言われて従順に従っていた際に、自分の行動に十全な責任を持てないと思ったからなのだと思う。今後生きていって、ちっぽけではあるが自分の人生の失敗や苦難を誰かのせいにしたくはなかった。辛さも苦しさも負の感情も含めて自分の人生は自分のものだと思いたかった。

 

大人になるとは、自分の足で立つことだと思っている。今新しい環境の中で、どうしようもなく逃げ出したくなっても、かろうじて立ちむかっていることができているのは、少年のころに自分の人生は自分のものと決めて、ささやかな反抗をしてきたのが大きな要因であると切に思っている。