川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

恋愛

元来恋愛が苦手である。短期的な恋愛がうまくいくためには、ある種わがままの押し付けあいを程よく行う必要があると感じている。何かの欲望を相手に押し付けなければ、物語は始まらない。図書館で同じ本を取るために、手と手が触れたとしても、この本が面白いという気持ちを相手に押し付けなければ、そこからの物語が発展していく余地がない。

 

もともとが内向的な人間なのであろう。何かの問題が発生したときに、真っ先に自分自身を疑う。あの時のあの言い方が悪かったのか、あの時にこれをしなかったのが原因なのか、常に自分と向き合ってしまう。誰かに何かを言えるほど、おまえ自身は最善を尽くしたのか。自分自身に厳しいとも言えるが、悪く言えば人に期待をしていないともいえる。

 

たまに、女性から遠慮しないでなんでも言ってと言われる。何となく手持無沙汰そうな隙間から垣間見える感情を理解しないわけではないが、別に遠慮などしているわけではない。何もない休日には本を読んで、ぼんやりと考え事をして、夜に酒に飲みに行けば事足りる。冷たい言い方をすれば、相手に期待するものが特にない。多分それは自分の本当の考えを理解してくれることはないと、最初から諦めているのだと思う。相手の期待を読み取って、サービス精神による行動を起こそうという時もないことはないのだが、それはあくまで義務感によるものであって、自分の欲求からくる行動ではないため、自分の気持ちに嘘は付けないという謎の漆黒の意志に阻まれる。そうすると繰り返し変わることのない休日を過ごす。学があるとは1人で遊ぶことがうまくなることだと、何かの本で読んだが、その通りかもしれない。

 

何かのもてる技術を論じている本で、女性に言い訳の余地を与えることが重要だと書かれていた。一旦は抵抗するというポーズをとらせる必要があるというのだ。不倫をするときに、強引に迫られて。ホテルに行くのに休憩という名目を取って。自分の意志を超えたため、仕方がなかったの。そういう言い訳をもたせる余地が必要なのだそうだ。

 

どうしてもそういう論客とは息が合わない。思えば自分にはわがままさとずるさがない。言い訳をするなら、やらなければいいのに、といつも思う。悲しい、寂しい、会えなくて震える。身に余る感情を持て余しているのであれば、具体的な反省と行動をしたほうがいい。わざわざ相手の感情を測るような言動を発し、その反応を見て対応を決めるべきではない。目の前の人がどんな人であれ、その人にはその人を成り立たせる背景があり、自分がもてあそんだり踏みにじっていいものなどなに一つとしてない。一つ歯車が異なればその人になっていたのかもしれない。そうであるのならば、1人の人間として畏敬の念を持って対峙するべきだといつも思っている。それは老若男女変わりはない。子供が相手だろうが、遊びであろうが、1人の人間として対峙しているならば全力を持って対応する。そういうずるさのない公平性は、女心とは非常に相性が悪い。私だけを見て。いつまでも愛している。不確的な要素が多いこの世の中で、感情に絶対などということはあり得ない。歯の浮くような嘘とも思えるセリフを吐くことなど到底できない。そういう気持ちを持ってしまうのだから、相対する女の子からしてみれば、遠ざかるのは無理からぬことであろう。

 

決して理解をしないという意味ではない。恋愛をすることで、世界がかわってみえる。それしか見えない。個人的な経験からしてもよくわかる。坂口安吾が言っていたが、「恋愛は人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。」その言葉には全面的に同意をする。ただ常に冷静な目線でしか物事を見ることができないのは、誰に言われたわけでもないのに勝手に無駄に業を背負って、自分を律し続けてきた生き方の弊害だと思う。

 

そいういう意識が強かったので、慣れようか変えようか自分の意識に一石を投じるために、一時期キャバクラによく通ってた時期があった。別に自分主体で行っていたわけではないが、行く機会がいっぱいあったので、多い時では月に15回くらい行っていた。単純にみんなで騒ぐのは楽しかった。感想はそこに尽きる。誰かと喋ることを楽しまなければ、相手も楽しくはないだろう。自分が楽しめると分かっただけでも、それは大きな収穫であった。今でも女心などわかろうという気持ちは微塵もないが、楽しい、辛い、悲しい、そういう人の純粋な気持ちはわかろうとしているつもりである。酔っ払ってはいるがキャバクラでストレートに結婚してと言われた時は、素直にドキっとしてしまった。真っ直ぐにいうその言葉が潔くとても好感がもてた。大切なのは自分の気持ちを、はっきりと自分の言葉で伝えることなのだと思う。純粋な意思による行動は人に影響を与える。

 

自分がどうしたいとはっきりといえる人に、昔からあこがれを持っていた。平凡な家庭で生まれた自分には、確固たる意志がないとずっと思っていたからだ。でも、自分にコンプレックスがあっただけに、誰よりもそれを探していた。自分の本当の気持ちを感じ取るのは案外センスと経験がいる。どうしたいという気持ちがなくとも、生きることができる世の中だからだ。こうするのが当然。こうしなければいけない。自分自身の気持ちを問う前に、決まり切った世間という枠に当てはめられる。恋愛もある意味同じだ。20までに童貞を捨てなければ格好が悪い。クリスマスに1人だと罰が悪い。人が生きていく一生の物語には、その人にしか当てはまらない環境や気持ちがあるというのに、周りを見て流されてしまう。だからこそ半沢直樹のような、復讐心という明確なエネルギーが存在する話に、憧れを抱くのだと思う。

 

HUNTER×HUNTERにでてくる、ゴンの師匠であるウィングさんはこう言いている。

「君たちは発展途上です。器もできていない。出来るだけ自分の器を大きく育てなさい。そのための修行なのです。ガンガン鍛錬に励み、同じくらい遊んで人生を楽しみなさい。 ー 何を思い、何に怒り、何を好み、何を求めるか、どこを旅し、誰と出会い、どんな経験をするのか、それら全てがあなたたちの未来を形作るのと同様に、あなたたちに最もふさわしい念の形を示してくれるでしょう。」分からないのであれば、探せばいい。成長に年齢などは関係ない。この発言にでてくる念を恋愛と変えれば、それだけで立派な教訓を語っていると思っている。

 

もとは人にものすごく気を使う質である。一見すると、何も気を使っていないように見えるのだが、そう見えるように細心の気を使っている。隣にいてくれるのであれば、幸せにしなければならない。そんな謎の騎士道が、恋愛の邪魔をする。幸せでない自分自身が誰を幸せにできるのだろうか。その自問自答に面倒くさくなって、恋愛を避けてしまう。負の連鎖である。互いのわがままを程よくぶつけ合わなければ、人との関係性は長くは続かない。気を使っているばかりでは、お互いの関係性につかれてしまう。

 

自分のわがままさとは何なのだろうか。一体全体自分は何がしたいのだろうか。そう考えると、それを探す行為そのものがいつも自分が追い求めているものであった。いつも自分にあるのは、何かしらの欠如感であった。それだけが、自分の原動力である。自分に足りていない何かを求める過程で、いろいろな人に出会い、いろいろな経験をした。時には辛く、厳しく、孤独ではあったが、一緒にいてくれた人たちのおかげで、今でも思いだすと光り輝いている。少なくともそれらは、自分の欠如感を埋めてくれた。それと同時に、経験を経れば経るほど、自分の小ささを思い知らされた。それは多分これからも一生変わらないと思う。百年にも満たない短い一生の中で、もがき悶えながらここにはない何かを求めて生きていくのだと思う。それでもいいと、一緒に笑いながら地獄に飛び込んでくれる人をずっと探しているような気がする。

 

恋愛について考えれば考えるほど、恋愛からどんどん遠ざかっている。というより何かを考えるほど俗世から離れていっている。100人のうち99人には理解されないだろう考えだと思う。これを読んで意味がわからないと、どんびく人が多ければ多いほど、恋愛から遠ざかっている立派な証である。「一緒に地獄に飛び込んでほしい。」ワークライフバランスや安定な生き方を求める時代に、何を言っているのだろうか。そんなことは分かっている。それでも、こんなわけのわからない理屈を「これだから男は」と一笑に臥せて、笑って吹き飛ばしてくれる1人の人がいれば、そんな人と出会いたいと思っている。針に糸を通すようなストライクゾーンであることだけは自覚している。