川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

暗がりで蠢く

人からすれば小難しいと思われる事柄を考えて、ここに記載している理由はたった一つ。自分の身を守るためである。

 

夏目漱石草枕の冒頭に有名なセリフがある。「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。 ー どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画が出来る。」芸術の存在意義を端的に言いあらわした名文である。このブログに書いてある文章は、自分が生きづらいと思った気持ちを少しでも和らげるために、自分のために生まれた。そう考えないと生きてはいけなかったといってもいい。 

 

あくまで自分と同じような状況の人が、ああなるほどと理解しやすいように、リズミカルな語調と語り継がれる説得力のある事例を活用し、出来るだけロジカルに書いているつもりではあるが、結局のところ自分のどうしようもない性格を、無理やりにでも解釈して、生きていってもいいと自己を肯定するために書いているだけである。極寒の環境に出向く際に、必ずコートを羽織るように、世間の荒波を渡る際に、言葉で身を守っている。その世間を荒波とも思わない人達が大勢いるのであるから、生きることは非常に難解であると思う。難儀な性格である。と評することで、誰にも理解されずに頑張っている自分を演出し、肯定している。と評することで、自分を客観的に見れる広い視野を持っているという意識を向けて、自分自身を安心させている。と評することで、多階層を知的に嗜むユーモアも持っているとおまけに納得させている。

 

改めて自分の気持ちをここに書いていて思うのだが、よくもまあここまで壮大な言い訳をできるものだなと感動する。坂口安吾を真似て恋愛論などというものを書いては見たものの、こんなのは何も行動を起こさない自分を、ただ肯定するための言葉遊びに過ぎない。「うるさい。ガタガタ言わずにやって見ろ」の一言で片が付く話なのである。妙に考えられているから、そうなのかもと思ってしまうし、何事も簡易化して現状を適切にとらえないのは思考の放棄だと、それっぽい言葉を出してみることで同意を促し、人を暗がりへ誘っているにすぎない。ニーチェは「深淵をのぞいているときに、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」と言っていたが、自分は深淵を演出しているだけであって、実態は岩の裏に貼り付くダンゴムシと変わりはないのである。湿った岩の裏側で蠢く蟲のように、生活の基盤をじめじめとした処に自らを持っていって、隙あらば誰かを引きずり込もうとしているだけなのである。生物は生きる場所を限定することで、外敵から生き延びる方法を探す。じめじめとした場所に生きることを限定し、よく分からない論理という外殻を纏うことで、必死に生き延びようとしている。そして一人では寂しいから、仲間を増やそうと岩陰の隙間から人をじっと見つめている。

 

前に医者の友達の結婚式に参加したことがある。溢れんばかりの希望に満ちたその様子は、湿った岩に隠れて生きている自分にはまぶし過ぎた。人が人に対して優しくするのは当然だと、善意を信じて疑わない様子には生きる場所への根本的な相違が感じられた。たとえ誰かに裏切られたとしても、その周りにいる人達がお互いを助けるのであろう。いい循環である。自分ならまず、裏切られそうな雰囲気を察知することを学習し、裏切られてもいいような関係性を結ぶ。徒労である。

 

どこでどう生きる道を間違えたのだろうか。核家族の中の1人の少年として、完全な肯定感こそなかったものの、特段不平もなく育ってきたはずなのである。1日仕事を頑張って、幸せな家庭に帰って、家族みんなでご飯を食べて、子供の寝顔を見ながら寝る。確かにそんな平凡な人生を少年の頃自分は夢みていたはずなのである。何をどう間違えたか、毎日が辛い。ただ、日蔭に生きる蟲には日蔭に生きる蟲なりの矜恃がある。生き延びようとする生命的な逞しさだけは過分にあると思っている。でもその矜持があるだけに、なおたちが悪い。矜持に固執し、ますます暗がりに入り込んでいる。

 

自分は自分のことをひねくれていると思ばいいのか、単に考えすぎているだけと思ばいいのか、たまに考えるが答えが出ない。優しいのか、厳しいのか。冷静なのか、情熱的なのか。真面目なのか、ふざけてるのか。怠惰なのか、勤勉なのか。明るいのか、暗いのか。頭がいいのか、悪いのか。客観的なのか、主観的なのか。どこをどの切り口で見てみたとしても、これといった一言で言い合わせる性格はなく、複雑怪奇な様相を呈している。全くよく分からないのではあるが、人生に1回だけこんなに意味の分からない人に出会ったと。だからこそ自分もよく分からないけれど、頑張ってみようかなと。そう思ってくれれば、それに勝る光栄はない。

 

辛いときには自分を奮い立たせたり、自分を肯定するための何かが必要である。人にとってはそれが家族であり、恋人であり、友達であり、酒であり、趣味なのだろう。それが自分にとっては、ここに書かれているような言葉であった。言葉は決して即効性のある形で、劇的に自分自身を守ってはくれないが、そこに寄り添う形でやんわりと自分の生き方を守ってくれているような気がする。誰に何を言われようと、生き方が間違っていようと、向いている先が深い暗闇だったとしても、前を向いて生きていけるのは、自分を守ってくれる言葉のおかげだと思っている。