川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

仕事をし始めて数年は、お前の言っている事が分からないとよく言われた。物事の論理が繋がっていないのだと。Aの結果からBをすっ飛ばして、Cに行っている。それを自分では不思議に思っていた。なんで分からないのだろうか。Aが起きればCが起きのるのは当然の帰着のように思うのだけれど。どうしても、物事の結論を早く出し、途中の考えをすっとばす傾向があった。シャーロックホームズは人を見た瞬間に、その人の過去を言い当てる事ができた。過去をはっきりとあてたのちに、ゆっくりとそこに至る過程の推理を明示する。今になって思うと、経験の少ない若者が過程を無視して結論を焦っていると思うのだが、この考え方の傾向は、子供の頃に読んだシャーロックホームズと好きであった数学に由来する。

 

 色々な学科の理系の人たちで集まって、飲み会をしていた時のことである。異なる専門性を持った人たちが集まると、いかにそこにいる人たちが理解できるありふれた言葉で、自分の専門を語るかが楽しく会話をできるかの争点となる。皆が理系であったため共通の話題である、数学の話が上がった。平成教育委員会の算数の問題が得意。フーリエ変換やばい。葉っぱの上に落ちる水のしずくの曲線の方程式。ささやかな談笑は続き、いつもの定位置の角の席で枝豆を食べビールを飲みながら、昔を思い返していた。

 

自分の高校は、我先にと学校の自習室に集まり、狂ったように参考書を解き続け、夜12時まで明かりが消えない、変態な男たちの集まりであった。色もなく花もない。そんな精神と時の部屋で流行っていたのが、大学への数学であった。正直これを解くことで受験に直結するのか、はなはだ疑問ではあったのだが、挑戦コーナーに応募してその解答が採用されようものなら一躍ヒーローであったため、自分がここにいると存在を主張するかのように、不良の少年ががバイクを乗り回すのと同じように、机に向かって紙にペンを走らせた。結局自分の解答が採用されることはなかったのだが、無邪気に数学を解き続けた毎日の中で答えへの道のりが光って見える瞬間があった。答えが分かるのであるから、あとは数式を書き記すだけでいい。そんな経験は、他のものにはない喜びであった。だから数学が好きだったのだと思う。

 

ささやかな会話を続けていると、不意に数学科の女の子が笑いながら言った。「数式に虹がかかる瞬間がある」その言葉を聞いた瞬間に、はっと息が詰まった。それは、恋に落ちるとも似た衝撃であった。これほどまでに、鮮やかにそして無邪気に、身近なところで同じ感覚を言いあらわした表現は聞いたことがなかった。自分の言いしれようもない感情を同じように理解して、それを超える表現であらわしてくれる人がいると不覚にも感動してしまった。小説であればそこからすったもんだあって、ハッピーエンドを迎えるのだが、とくにはそんなことはない。ただ、その響きを今でも覚えている。自分にしかわかり得ないと思って諦めていた感情を、分かってくれる人がいる。そう思えた時、それに勝る喜びはない。

 

このブログに書かれている文章も、大概同じような考えで記載されている。事例が飛び跳びで、結論ありきでそこに持っていくために、むりやりに解釈を行なっている節もある。自分の結論を頑固に持っているため、それを正当化しなくてはならない。そんなきらいがある。ただ、今まで自分が考えてきたことや、自分の性格、身の回りの環境を考えると、そう結論を出さざるを得なかった。それはそうであってほしいという祈りでもある。

 

今も仕事をしていて、直感的に結果が分かる事がある。それは、数学の問題を解き続けたように、仕事でも問題を解き続けた結果でもある。これをしないと失敗する。それが瞬時に感じ取れるから、苦労をしているのだろう。一つ一つ丁寧に糸をほぐすように、解決して行かなければいけないのだが、その一つ一つの仕事量と自分にできることと相手のリアクションそれを先に読みとることができるため、気持ちが押し潰される。それは将来のことを考えても同じことがいえる。今大分上の人たちが平然とやってのけている仕事をこなせるまでの、その労力と苦悩と葛藤を感じ取ることができてしまう。だからこそ、そこに至るまでのいばらの道に、どうしても足が立ちすくんでしまう。やらなければいけないと分かってはいるし、いつかできるようになると自分を信じてはいるのだけども、少しその気持ちが整うのを待っていてほしい。いつもそう思っている。それでも、期限はいつまでも待ってはくれない。

 

数式に虹がかかるというと、気持ち悪いと思われるだろう。こんなに無駄に考えるのも、何のためなのだろうと不思議に思うだろう。九十九人の人が、そこに興味を持たないとしても、奇異な目で見られたとしても、たった一人だけでも共感してくれる人がいれば救われる。他の人からすればがらくたにしか見えない、数式に虹がかかるという経験は、子供の頃に集めていたドラクエ円筆のように、いつか自慢できる日を夢見て大切な宝物として自分の胸にそっとしまわれている。