川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

逆境

何かの選択をする時に、何となく「おもしろそう」な方を選ぶ。その選択をする際の自分の一つの癖に、逆境を楽しむということがある。中学校の時に、何かの漫画で「人生を楽しむ秘訣は、逆境を楽しむことにある」と書かれているのを読んだ。今では漫画の題名すらも思い出すことは出来ないのだが、ひねくれた少年にはとても格好いい生き方に思えた。いつも逆境を乗り越えた時には、今までの自分が持っていない新しい感情と出会うことができた。個人的にそれは、とてもおもしろいことである。

 

自分の中にある秘めたる成功体験は、未来の行動に影響を及ぼす。失敗を笑いにする人は、知らず知らずのうちに失敗を呼び込む。失敗という自分の弱みをさらけ出すことで、人を自分の領域に誘い込みやすいことを知っているからだ。しっかりしていない人がいるが、しっかりした人が結局のところ助けに来ることを、経験的に知っている。人にしっかりしなさいという言う人は、善意もあるのだろうが、誰かを指摘する自分自身を認識することで、自分の優位性を確かめている。変えたいのであれば、首根っこを掴んで崖から放り落とすか、侮蔑の目で見つめた方が早い。言う方と言われる方、互いが互いの状況を甘んじて受け入れている。成功している人に理由があるように、失敗する人にも理由がある。余分なエネルギーを要しない等速直線運動を行う物体のように、状況は違えども今までの生き方を踏襲している。人の本質などは変わらないと思っている。今まで生きた秘めたる成功体験を繰り返しているに過ぎない。

 

重要なのは目的である。誰かを観察するときに必要なのは、その人自身を見ることではなく、その人が見ているものを見ることである。その人が目指しているものを理解すると、その人の感情の向かう行先と方向性を理解しやすい。誰かに叱られたとて、その人が叱りたい気分であるのならば、その言葉が込める想いに意味は薄い。自分自身が何がしたいのかを内省的に考える性格であっただけに、ほかの人が何をしたいのかをじっと見ていた。自分自身の利益のために叱る言葉には、どうしても興味が持てなかった。この人は何のためにその発言をしているのか。好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか、そんな感情を抜きにして、いつも人をじっと見つめている。とても性格の悪いことである。

 

逆境を楽しむとは、本質的には破滅の考え方である。逆境を乗り越えることで、確かに成長はしている。自分自身の成長を実感できることは、おもしろいことである。そうすると、さらなる逆境を求めることになる。その一連の流れを逆境を楽しむという。ただ、人間に死という限界がある限り、逆境にも限りがある。成長にするについて、成長の限界を突破するための逆境は、常に深く苦しくなっていく。高所の綱渡りのスリルを求めるために、限界の末いつかは落下をしてしまう人がいるように、究極の逆境とは命を賭けることになる。

 

薬というのは、基本的に毒でもある。毒の耐性をつけるだけの、適切な接種量を薬という。健康であるのならば、わざわざ毒も薬も服用する必要はない。逆境なんてものは、進んで求めるものでもないし、苦労なんて避けるに越したことはない。逆境に身をおくことで、手っ取り早く成長を手に入れるという、自分の中の成功体験を繰り返しているに過ぎない。

 

今も初めて仕事で海外に来て、逆境と言える状況にある。「おもしろそう」という理由で何となく海外に来た。初めての環境で、自分の心を支える何かを探すことから初めて、毎日謝りながら仕事をしている。とても疲れてきたのではあるが、海外に来て「不安でいることに飽きる」という、初めての感情に出会った。言語も法規も人も材料も立場も違う中で、お客さんからの要望に答えて、期限を守らなければならならい。何も知らないため、気持ち的にも資料的にも用意が十分でない中で、毎回崖から飛び降りるような気持ちでお客さんとの打ち合わせを迎える。怒られたり、白い目で見られたり、相手にされなかったり、様々な負の感情を抱える。考えすぎる性格も相まって、休みの日もどこにも行かずに考え続ける。今抱えている悩みを、違うことで発散しようとしても問題の解決にはならないため、他で発散しようという気にならない。そんな毎日を過ごしてくると、不思議とその状況に飽きてくるという気持ちになった。不安で不安でしょうがないのであるが、ある意味今の状況の中で、不安の下限を知ったため、それを覚悟することで、不安に対して考えることをやめたのだと思う。不安でいることに飽きるという方法で、独特の平穏を手に入れた。その初めての感情に対する対応は、とてもおもしろいものであった。そうやって自分なりに逆境に対する密かな楽しみを持っている。

 

このまま生き続けていくと、最終的に死ぬ間際のギリギリの感情はどういうものなのか、そんなことを思いかねないと感じている。おもしろいものを知らず知らずに選択するうちに、不幸になっていく予感もする。不幸を乗り越える物語が巷で溢れているのは、そこに強い共感があるためなのだが、その感情を理解しようとするために、知らず知らずに不幸を呼び込むからである。アメリカの作家にアルコール中毒者が多いのも、日本の作家で死ぬことで自己を完結させたりするのも、その気持ちがわかる気がする。

 

あくまで逆境を楽しむのは、手段に過ぎない。自分が向かっている目的に行くまでのその手段が、現在目的になっているような気もする。不安に慣れてきたため、他のことにも考えを割く余裕ができてきた。少しすると、今持っている不安や辛さや孤独を忘れて、新しい感情に出会ったというおもしろさのみが自分の心に残る。不安や辛さはその時の一時の感情で、新しい感情は今も自分の心に残っているからである。そうすると、結婚や安定から離れて、さらなる苦難を求めるようになる。一体自分が何をしたいのか、よくわからないのではあるが、なんでもやりすぎるのは良くないと知っている。環境に適応できたというのは喜ばしいことではあるのだが、逆境を楽しむという状況に中毒にならないように、少し自分を諌めようと思った。