川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

海外で働く

大きな企業において海外で働くことの悪い点に、個人に会社の責務を負わせるということがある。規模が小さければ、小さいほど、組織力は小さくなり、個人の能力の割合が高くなる。ただし、責務は個人の能力を負わせてはいるが、会社の看板を背負っているため、遂行するものはそれなりのものを求められる。そんな中で、自分の身一つでその環境を生き抜いてきた人たちには、そこを潜り抜けてきたという自負がある。自分の人生をなげうってでも、組織に貢献して、今の成果を得ている。一人の人という視点で見たときそれは、とてもすごいことである。でもそれは時に、組織に対して負の側面をもたらす。

 

教育を行うということは、まず自分自身を顧みて、そこに存在した成長の体験を伝えることしかできないと思っている。自分の中にある経験以上のものは、知らないのだから伝えることができない。海外にぽつんと立たされた立場には、到底思いもよらない苦労があるのだと思う。その結果を経て今の自分があり、曲がりなりにも組織が運営できているのだから、後輩にも同じようなやり方を課すことになる。まずはやってみろと。それも一つの教育ではあるが、その状況で成長するのにとても時間がかかる。

 

失敗をするということは、ある種前提条件をすべて満たしたうえで、そこから漏れてしまう、1つや2つのミスによって発生する。それで初めて失敗ができる。大きなくくりで、何もできずに終わる結果も失敗といえるが、何も得ることのないその失敗にあまり大きな意味はない。あの時こうすればよかったという後悔が起きない行動では、次につながる余地がない。現状の問題を、自分ではなく誰かに責をを求めるようになる。今自分が生み出している失敗は、後者のような気がしてならない。

 

海外の上の立場の人は、新しく入ってくる若者に何を求めるているのだろうか。そう考えることがよくあるが、それは何より今ある空席を埋めて、組織の運営を延長させるという、延命処置に過ぎないと思っている。海外の支店に座るお偉方は、本社から具体的な金額や達成率によるノルマを課され、ある一定以上の成果を出さなければならない。それをずっと行ってきた人が、上に行くということであり、数値に対する対処的な方法にはたけているが、その人もまた自分の身一つでやってきたという意識が強いため、それを他者に強いるという点では、現状の問題に対する対処が優先され、教育の観点がおろそかになっている。丁寧な教育を施すことは、今までほったらかされて頑張ってきた自分をある意味で否定することになるため、積極的に行う人が少ない。何より、教育するという行為そのものを知らない人が多い気がする。また、海外にいて同じ立場や国にいるということは数年であり、その非常に短い期間の中では、種をまくということの功績は、会社の評価には関係ない。入ってきた若者に神経を配れるほどの余裕と気持ちは、上にはない。

 

わからないままに、わからないことをさせて、そこから何かを得るという、成長の方法は実務的にとても効率が悪い。目的が胆力やストレスの耐性をつけるというのならば、人生に一回でも経験するのは悪いことではない。何事も、辛さの下限を知っていれば、ある程度の状況を想定し、対処することができる。ただ、実務的な言語や法律や規則といったものを覚えるのには向かない。ある人がその人になるまでの、辛かった経験を、同じ形でもう一度別の人間が経験しなければならないのであるから、それは時間の浪費といってもいいだろう。全てをその立場にある個人が一から覚えなければいけないため、組織としての集合知といったものがが踏襲されない。また、そこから努力できるかどうかは、すべてが属人的で個人の資質によるものであり、今まで生きてきた気質や性格、知識や目的で大きく左右される。博打を打っていることと変わらない。組織としての方針が、100人の若者を未知の環境に放り込んで、そこから這い上がる幾人かを選び出すというのであれば、異を唱える気はないが、一人ひとりの個性を尊重するこの時代で、上昇志向の少ない今の若者にそのやり方を強いたところで、長くは続かないだろう。組織が人を抱えている以上、当然弱い人も怠惰な人もいる。それを補うだけのある一定のオーバーワークをする善意の人で組織は成り立っている。

 

学習をする際に、一番てっとりばやい方法は、人を真似ることである。顧客の対応であったり、部下への指示の仕方であったり、その人がもつ息遣いや、仕事をする背中をみて、ああこのやり方であれば問題ないんだと、腑に落ちることが肝要である。すべてのものを目的が最優先として、目的の達成のために自分から必要な行動を見つけに行くことができる人が多くいれば、それに越したことはないが、そもそもそういう人は会社員になどならない。もっと楽しそうな環境に身を置いているはずである。寿司屋の職人で、若いころに皿洗いや掃除から始めさせるのは、自分自身では知り得ない、清潔さやお客さんや寿司に向きあうための気遣いを教えるためである。今までの自分では実行することのない何かを毎日行う中で、自分の中にある確かに変わったものを発見する。それが学習するということである。

 

自分自身の経験として、わからない状況にある中では、思考が停止する。同じことを考え続けるとか、そのことに悩むとかは、どうあっても無駄な時間なのではあるのだが、心を持つ人間である以上、それは致し方ないと思う。その悩む時間は、人によっても変わるのだが、わからないことをやり続ける状況においては、その精神的な負荷は大きい。言語を習得しようとか、法律を学ぼうという、他に向ける積極的な意識が出にくい状況になってしまう。

 

海外で、上の立場の人と直接のやり取りすることなく、ぽつんと仕事をしている。真似る人もおらず、何から始めればいいかもわからない。その悩みを相談した時に、海外は皆そうやってきたとその一言で済ませられる。とても便利な言葉である。取り付く島もなく、相手の発言意図をへし折るのに、これほど適切な言葉はない。思考停止とはこのことである。適切な教育も、本来あるべき組織による集合知も属人的な資質にゆだねられている。期待をしていたという一言で適当に配置して、責をその人にかぶせるのであれば、マネジメントという言葉を使ってほしくはない。Pドラッカーの「マネジメント」を、真面目に読むことをお勧めしたいのだが、狭い世界では軋轢は災いを及ぼす。そう思わせる小さい組織なのだから、問題のであろう。愚痴を言ったところで始まらないから、知らないなりに今の状況で何となくでも仕事を回すことになる。分からなくても、聞き回ってやるしかない。とても疲れることである。

 

この立場に対する今の自分への評価を、上の立場の人が良いというのか悪いというのか、個人的には正直どうでもいい。自分も通ったであろう孤独で不安な状況を省みずに、さもできて当然のように仕事を振ることしかできないその振る舞いに、評価などされても心に響くものはない。自分の現時点での無能さも努力も成長も自分が一番知っている。似たような、ある一定の若者を海外に原則2年従事させてから、日本に帰すというのが今の会社のきまりである。ただ、この状況に対する自分の行動を少しでも評価して、自分の裁量を認めてくれるのであれば、二度と海外には呼ばないでくれというのが率直な今の想いである。使えないと評価するのであれば尚更である。そう思わせるこの仕組みに、何の意味があるのだろうか。海外で即戦力として仕事できる人を早期に判別することが目的なのだろうか。それであれば成功している。二度と仕事はしたくないという強い決心を持つことができた。そんな疑問を持ちながら、今日も海外で働いている。