川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

不安の先

不安であれ、喜びであれ、ある種動物として生をうけた以上、ある一定の感情には、その感情を持ちうるための理由がある。同じ人間同士を食べないのは、同種族同士に感染するウィルスの蔓延を防ぐという説もあり、忌避感という感情はそれに役立つ。辛さというのは、刺激物を感知し、嫌っているのであり、体の防御反応と捉えることができる。痛いという感情を無くしてしまったら、平然と刃物を自分に突き立てることができ、生物として生きる確率は減るだろう。生命の本能として、死という絶対的な存在から逃げる確率を上げるための手段として感情があり、逃げる確率が高い存在が生き残るのは確率的には順当であろう。当然生き延びた個体同士が、交配し子孫を残すのであるから、教育的にであれ、遺伝子的にであれ、より強く似たような感情をもちうる個体が生まれる。

 

人に迷惑をかけてはいけないと教わった。忙しい人がいる中で、その人に迷惑をかけてはないけないという意識を持つため、自分に抱え込む癖がある。そうすると必然的に、できない時にも、その場に一人立ちすくむことがある。真面目であるので、逃げ出すこともない。そんな中で言いようのない不安を持ち続けていくと、その状況に飽きてしまった。気にいってずっと聴いていた音楽が、途端に聞きたくなくなるような感覚である。体感として飽きるという言葉がぴったりであった。

 

不安でいることに飽きるという状態の良い点は、不安でなくなったと言う事である。自分の心を占める、言い知れない不安を考えても仕方ないと、心が区切りをつけたためか、そのことを考えるのをやめることができた。海外に来て5ヶ月間は不安でしようがなかった。現地のお客さんと打ち合わせをし、提案を行い、見積もりとスケジュールを組み、下請けの会社と調整しながら実行する。それを全て初めての英語で行うのである。なにをどこまでやるかもわからない中で、自分で動かなければ進まない。全てにおいて期限があるのだが、誰がどうどこまで動いてくれるのかが分からないため、とてもストレスを感じる。土日もずっと不毛な考えのループを繰り返し、悩み続けた。5ヶ月の間不安でい続けると、それはもう平常状態と心が認識したのであろう。不安ではなくなっていた。

 

不安でいることに飽きるという状態の悪い点は、失敗を回避しようとする感度の減少である。不安とは今後の失敗や、今までの過去の経験から割り出されるよくないことが起きることへのセンサーである。自分自身がどんな状況でどんな行動ができるかを、よく内省的に考えるタイプであるだけに、自分のできないことがよくわかっている。不安のもとである問題を一つ一つ丁寧にほぐしていかなければならないのであるが、初めてで海外であるとその一つ一つの過程を解決する自分を想像することができない。間違えてもいいという適当な方針でポンっと現場に放り出されて、人の力を借りこそすれ、結局その失敗をどうにかするのは自分なのだから、気持ちがさらに押しつぶされる。そんな状況の中で不安がなくなったとしても、別に問題が解決されたわけではない。ただ考えるのをやめただけである。それは期限があったとしても、それを守らなかったり、詰めなければならない提案を詰めなくなる。そんな状態であった。不安という危機に対する感情を持たなくなってしまうということは、何かしらの部分で自分の心を壊していることに等しい。とても哀しいことである。

 

サラリーマンとしては失格なのであろう。上司から与えられた課題と、お客さんへの対応のどちらも保留し、なんとなくぼーっと仕事を行う。心の病とまではいかないが、鬱々とした気持ちでぽつぽつとできることを行う。真面目な性格であるため期待には応えていたから、過去にこういう状況を体験し得なかったのであるが、よく分からない仕事をいっぱい持つと、こういう気持ちになることを初めて理解した。できないことに、申し訳ない気持ちもあるのだが、その感情すらも薄れてきているため、最近よく感じるが、色々な人からの小言を耐えればいいだけの話である。その小言には様々なボリュームがあったり、表現方法があったりして、人が離れてしまったりするのだが、あまり気にならなくなった。サラリーマンである前に、一つの生命である。生きていかなくてはならない。それすらも思い過ごしの可能性もあるのだが、不安を常に負わせ続けるような状況を与え続けておいて、怒られてもあまりピンとこない。別に会社のために命をかけているわけではない。やろうとしてみて頑張って、全然うまくいかなくて、不安を心に持つ続け、その不安という感情すらも飽きてきて、色々な感情が薄まって、投げやりな気持ちではあるが、人の気持ちを忖度しなくなったのは、悪いことだけではないと思う。自分が生きてきた中で持ち続けていた価値観が揺らぐほどの状況で、新しい考えを自分の心で理解出来るということは、未来につながることである。たとえそれが後ろ向きな気持ちであったとしても。

 

昔から前向きな人が好きではないと感じていたのは、楽しかったり成長しなくては生きている価値がないと、やんわりとその人から感じてしまうからである。辛いことがあったらそれをバネにしてとか、辛いに一本足すと幸せになるとか、常にここではないどこかに気持ちが向いているその考え方は、どうしても相入れなかった。ごみためのような家に住んでいる人も、出来ないという烙印を押されている人も、成長して笑って生きている人も、生きたくとも生きられなかった人も、同じ人間である。世の中なんてのは平等ではないのだし、万人に通ずる一般解などあり得ない。大変な状況にあるというのは事実に過ぎない。それを幸せと思うのか、不幸と思うのか、その人が選び取った主観に過ぎない。

 

ただただ今の感情の変化を記述したいと思っている。それは限定されて、特殊な一つの問題に対する解に過ぎないのではあるのだが、色々な問題と解を知っていれば、それだけ色々な問題が解ける。ここに書かれているのは、あまり他の人と同じことを思いたくない、とてもひねくれた考え方だが、それを意識していただけに、一般的な考えも知っているし、なんとなく人とのずれも知っている。ただただこれからの感情の変化も記述したいと思っている。