川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

全振り

最近大学の友達とオンライン飲み会をしているときに、高校時代辛かったという話をしている友達がいた。出会ってから十数年経って初めて打ち明けられて、素直になったなととても感慨深かったのであるが、自分の心境に触れて何が辛かったのかを語っていた。それは、進学校に入って勉強というものに絶望したのだという。友達も少なく、自分の感情を共有できる場を持たず、勉強をするという選択肢しか持たず、それが上手くいかなかったから、とても辛かったのだという。結構こういう人は多いと思う。何かを行動するときに、一つの選択肢のみに執着し、それ以外の選択肢が見えなくなる。勉強にしろ、仕事にしろ、恋愛にしろ、何にしろ、上手くいかないと自分自身を否定された気がする。その選択肢が一つしかない状況では、自分の全てが否定されたと認識するのは、致し方ないだろう。今でも彼はなかなか上手くいかないと悩んでいた。

 

自分自身の高校時代を省みると、幸運なことに色々な選択肢を取ることができていた。前にも書いたが、色もなく花もない狂人たちの紳士の社交場であった進学校の男子校には、色々な人がいた。勉強も部活も遊びも、色々なことを選ぶことができた。死ぬほどやった部活をやりつつも、現役でそれなりの大学に入ることができたのは、勉強に対してあまり負担を感じなかったからだろう。勉強が駄目だったら死ぬ。そういう強さもあるのだろうが、自分の場合は逆だった。勉強ができたのは、知らないものを知りたいという純粋な欲求もあったのだが、ふざけているのに勉強もできる周りの人たちに肩を並べていたいと思ったからであった。進学校では勉強ができるのは当然として、他に何か違うものを持っていることが人気者になる秘訣である。それはなんでもいい。部活でも、プログラムでも、ゲームでも、変態性でも、人と違うものはとにかく賞賛された。「勉強してないやべぇ」というポーズをとりながら、平然とテストでいい点をとりつつ、そのポーズを証明するために勉強とは全く違う分野の話題の深さを競い合っていた。皆が皆、将来というものに深刻になることを避けていたような気がする。それが良かったのだと思う。こんだけ部活をやっているのだから、勉強できなくてもしょうがないけど、できたらなんとなくかっこいいという、思春期男子特有の俺強えをやりたいだけの痩せ我慢をしていたのだが、案外ばかにならなかった。

 

それは今も変わらない。海外で想像の5倍辛い状況であるのに、それでもやっていけているのは、小説家になりたいという別の夢があるからである。想像の5倍辛い状況というのは、なかなか体験できることではないので、とても面白い状況にある。ある程度の挫折も苦悩もわかっていたつもりではあったが、それとは全く違った状況があるとわかるのは、主観的には勘弁して欲しいのであるのだが、一方でしめしめと思っている。新しい感情と出会うことは、物語に深みとリアリティと説得力を与える。仕事辛えと思いながらも、心が完全に折れないとわかっているのは、死ぬわけではないとわかっているし、大きな失敗をすればそれも小説の題材になりうると思っているからである。ここで仕事に全振りしていたら、それができずに失敗してしまった瞬間に、全てを否定された気になるが、物語はよくそこから始まることが多いため、それを密かに楽しみにしている。むしろ失敗を望んですらいるかもしれない。

 

日本人の美徳に、一生懸命という言葉がある。脇目もふらず一つのことをやり抜くということである。それは、確かにいいことだと思う。何か一つを極めようとしたときに、当然としてぶつかる様々な壁がある。人との交渉能力であったり、同じ分野の人との連携であったり、機材や器具などの環境の整備であったり、極めることでの副次的な知識や能力の獲得により一つ以上の選択肢をもたらす。昔の日本では世襲制が当然とされていたため、選択肢がなく集中せざるを得ないのであるから、美徳としてあげられるのは当然であろう。今でもその感覚は道徳的に語り続かれている。ただ今の世の中はとても選択肢が多く、誘惑も多く、そして社会自体の変化が早い。何がやりたいと選べる分、選ぶのはとても難しいことだと思う。全然縁がない世界ではあるが、ベビーカーはものすごく種類があるらしい。今の自分であれば、面白そうという理由でマクラーレンのスピード特化型のベビーカーを買おうという選択肢を取れるのだが、選択肢が多すぎると何を基準に選べばいいのかが分からない。高校生ならましてやである。

 

大切なのは、深刻さを免れることと、言い訳できる余地を持たすことであろう。何かに全振りするということは、素晴らしいことのように思えるが、リスクヘッジという概念を見逃している。また過度に力が入ると、本来の能力を発揮することは難しい。「いき」な人には余裕がある。そして世界は広い。若者としてわかった気になっている自分のちいさな世界など、世界全体から見れば、海に絞ったレモン果汁くらいちっぽけなものである。真面目な人こそ、自分の選択肢を絞りがちである。一つのことに全振りできることは、まごう事なき美点である。でもそれは都度、修正されなければならない。ちっぽけな世界を広げる壮大な努力の中で人と関わり、これで正しいのか間違っているのか、具体的な反省と行動が必要不可欠である。

 

夏目漱石の「虞美人草」の中で、宗近くんという登場人物が出てくる。「虞美人草」は夏目漱石の初期の頃の作品で、少年ジャンプのような熱意を持って書かれているため、個人的にとても好きなのだが、宗近くんはいつも「ハハハ」と笑っている。誰に蔑まれても、「ハハハ事実だから仕方ない。」と受け流している。そんな宗近くんが、最後に真面目であることについて説いていた。真面目とは真剣勝負の意味である。相手をやっつけなくてはいられないということである。普段ちゃらちゃらとして、人に笑われている彼が外交官に受かり、人と向き合う姿勢を説いていた。面皮ではなく、本当の人間になるということの意味は、真剣になれるかどうかだと。

 

間違っているのであれば、正せばいい。あってから十数年経って、初めて素直になれたこの友達が変わないわけはないと思っている。大学のときにすでに「人生の8方塞がりのうち7方までは塞がった。」というかっこいい名言を残した彼ならば、自分自身の道を切り拓けることだろう。その一方の道を愚直に突き進む姿を見ていたいとも思うが、そんなに方向を決められるほど世界は小さくないよと、言いたい今日この頃である。