川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

4月は君の嘘

海外で弱った自分の心を奮わせるなにかを探しているときに、4月は君の嘘というアニメを見た。昔からタイトルを聞くことはたまにあったのと、自分自身ピアノを弾くのでとても興味があって見てみたのだが、平日の夜10時から見始めて、気づいたら朝の5時であった。このアニメを見て、なぜ自分が恋愛できないのかがわかった。

 

この物語はヒロインの女の子が、絶望に打ちひしがれた天才ピアニストである主人公の青年を救う物語である。伏線へのいい意味での裏切りが多い昨今の物語とは対照的に、4月は君の嘘というタイトルの意味が、早々にして容易にわかってしまうのだが、それすらも頷けるような、純粋な感情を描いた気持ちのいいアニメであった。「ピアノを誰のために弾いているの」「人の心に居場所を作れたかな」「届け」。自分を変えてくれた何かに対して想いを込めて、ピアノを弾く。その愚直で純粋な想いは、人の心を揺り動かす。灰色な世界をカラフルに変えることのできる、とても鮮やかな物語であった。

 

ピアノで最も重要なことは、音を聴くことである。自分の音の響きや、リズム、音程、それらを聴く力があって初めて、いい演奏とは何かを理解できる。ピアノにおいて響かせるとは鍵盤を叩くときの硬さと重さと速さに等しい。肩甲骨・肘・手首を連動させながら柔らかく使い、指の先端を固くして自分の体重を乗せながら押し込むと、凛としたいい音が出るようになる。ピアノは弦楽器であるため、そこに弦が見えなかったとしても、鍵盤を弾く際に緊張した弦をはじくイメージは必要である。作用点である指の先端と肘の向きを合わせて重心を一定にすると、安定して同じ力でピアノを弾くことができるようになる。なんとなくピアノを弾くのが好きだと思って続けてきたけれど、その響きに真面目に向き合ったのは、人の前で弾く機会があったからだった。人に聴かせるということは、自分自身が出す音と丁寧に向き合わなければならない。なにより音に何を込めるのかで、聞こえてくる音は多様に変化する。技術と込める想いが混じり合って、初めていい演奏ができる。

 

大切なのは、何かに込める想いと、それを伝えるための技術である。どちらかだけでは、うまくいかない。こじらせて尖っていた自分は、純粋な気持ちというものばかりを重視していた。自分は何をしたいのだろうか、それは本当にしたいことなのだろうか。そればかりを気にするが故に、人との間に壁を作っていた。自分が愛されているかを確かめるためだけの言葉や、孤独を紛らわすだけの態度、そしてそれらを無意識に行うその恋愛という行動には、どうしても心が動かされないと、いつも自分に対してもっともらしい言い訳をしていた。出来ない理由を作り出すことだけが、うまくなっていた。

 

このアニメのラストシーンで、「好きです。」と3回語りかけるシーンがある。相手の目を見て、はっきりと意思を伝えている。奇のてらいのない、卑屈さも尊大さも全くない等身大の自分自身の真っ直ぐな感情を伝えていた。とてもうらやましいと思った。

 

人生にただ一度だけ、本気で人に好きですと伝えたことがある。相手の目を見て言うのが怖くて、ただ純粋に好きですとメールで伝えた。人との恋愛の方法など、誰も教えてはくれなかったし、今でもよくわからない。その時も付き合いたいと思って言ったわけではない。なんとなく相手が好意をもっているのも分かっていたけど、その人の隣にいる自分をうまく想像できなかった。相手もそうだったと思う。ただ自分から溢れ出そうな気持ちを、相手に伝えたかった。その一心であった。とても懐かしい思い出である。

 

人の隣に居続けるためにも、技術がいる。それを技術と呼ぶのが適切かどうかはさておき、選ぶ会話の内容も、それを話す音程も、適切な間の開け方も、相手との受け答えの割合の適切さも、再現性があるという意味では、自分にとって立派な技術であった。好きだと言った自分には、十分な気持ちはあったのだけれども、その気持ちを表現し、持続するだけの適切な方法を知らなかった。気持ちだけを伝えてわめていたのでは、駄々をこねる少年と変わりはない。先人たちの真似をしたり、体の動かし方や、道具の使い方など、常に意識していくことで、継承や進歩ができるのが技術である。やってみて間違えて、直しながら改善していけるのが技術のいいところである。

 

自己肯定感が小さく、自分に厳しい性格で、相手に与えらるものがないと常に勝手に決めつけて、誰かの隣にいることを憚っていた。でも、色々な経験を経ることでやっとそれなりの年齢になって、等身大の自分として人と話すことができるようになった。自尊心やプライドや虚無感や色々な感情にとらわれることなく、老若男女いろんな人と作り物ではない嘘のない自分の言葉で楽しくしゃべることができるようになった。それは時には月15回キャバクラに通い、時には週3,4回友達と朝まで飲んでから仕事をして、時には闇の売人としか見えない知り合いと腹を割って話し、時にはアプリで出会った知らない女の子と飲みに行き、時には全く外に出ずひたすら小説や映画やラジオを見続けた、その行動の結果である。好きですとしか言えなくて、隣にいることができなかったふがいない自分を変えたいと思い続けた結果でもある。最近になって初めて、誰かの隣にい続けることができるという自信が、少しだけ芽生えた感覚がある。そんな自信なんかなくても、誰かが隣にいるだけで救われることなどいくらでもあるのだが。

 

恋に焦がれる年ごろの女の子のように、いつの日か「好きです」と等身大の言葉で相手の目を見て言える日を夢見ている。そんな夢をいつまでも見ているのだからダメなんだよとか、やってみないとわからないよとか、いろんなことを怒られそうだなとも思うのだが、自分の感覚に従って誰かの隣にいることのできる自分になれたのだから、自分の中に生まれる純粋な好きという感情に殉じてみたいと、改めて思っている。

 

主人公が弾くピアノの音色も、感情を表す色彩的な表現方法も、不器用な感情を伝えるストーリーの構成も、伝えたいまっすぐな想いとそれを表現する技術であふれていた。自分の人生などこじれてひねくれた、しょうもないものだけれども、何に嘘をついたとしても自分の気持ちくらいには嘘をつかないで生きたい。そんなことを思い出させてくれるアニメであった。