川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

無邪気

子供から無邪気な目で見られた時、大概の場合大人は対応に窮する。感情の種類が少ない子供にとって、世界とは知らないもので満ちていて、複雑なしがらみを知らないため、相手の立場も気遣わない純粋な疑問を投げかけることができる。一人の大人が抱える悩みなど、頑なに自分をそうだと決めつけて、「なんでそんなに大変なの」という質問に正確に答える術を持たないことが往々にしてある。友達と飲んでいた時に、一人の悩める友達に、子供のような無邪気な質問をしている友達がいて、悩んでいたことが堂々巡りしているだけだったことを明らかになった事例があった。

 

大人になるとは、複雑さを抱えるものだと思う人がいる。自分もよく利用するが、日本的な苦労を礼賛される文化では、辛いというポーズをとっている人が、楽しそうに仕事する人よりも評価される場面が多々ある。内田樹の「下流志向」という本の中で不快感についてかたられていた。不快に耐えていると態度で示すことで、自分がまさに今おこなっている労働を誇示し、対価を手にする権利があると主張しているのである。子供たちが嫌そうにだらだらと授業をうけるのも、家庭内で不機嫌そうに母親が家事をしているのも、会社員がつまらなそうに残業しているのも、自分の時間を犠牲しながら、相手のために労働を行なっているのだと、暗に主張しているのである。

 

意識してそういう振る舞いをとっていようがいまいが、どうしてそんなにつまらなそうなのですかという質問はとても答えが難しい。「僕は学校で、こんな楽しいことがあったんだ。お母さんはなんで悲しい顔をしているの?」長年の関係性の中で、何を言っていいか悪いかの空気を読みがちなのだが、純粋な気持ちを投げかけるのは、別に悪いことではない。「不快感を前面に出すことで、パパに私の労働に対する対価を要求しているのよ。」そう冷静に答えることができるほどの策略家であれば、その人の人生など自分が気にかけなくても、うまくいくだろう。でも、不快に生きている自分自身を冷静に捉えていない場合、答えにとても窮することになる。子供の純粋な質問は、相手をどうしようとも、何をしようとも思ってはいない。当然、母親の身を案じている気持ちもあると思うのだが、ただただ不思議なのである。

 

自分はものを考えすぎるだけに、ものすごく人の気持ちを気遣ってしまう。一見すると何も気遣っていないように見せながら、その人の成り立ちや立場、感情に配慮をしながら話をする。それは他の人にはない、独創的な良さであるとは思うのだが、何かをよりよくしたいと思いながら、誰かに何かを言って、何も変わらなくて、その人の気持ちを理解して初めて、その人の何かを変えることができるのではないかと思っている。でも、そんな共感とは無関係な、人を変える可能性を秘める無邪気な問いかけに飲み会で出会った。

 

このブログに何度もかいた友達は、毎日を辛いと言って生きている。一方無邪気な友達は、あまり何も考えずに生きている。結婚をするというアプローチを考えて行った時に、とても両極端であった。辛い友人にとって、結婚とは未知のものである。数回の婚活で自分には向いてないと絶望し、その数回の経験を何百回やっても変わらないと頑なに思ってしまっている。無邪気な友達にとって、結婚とは確率の問題である。自分にとって居心地の良い人は、間違いなくどこかにいるはずで、婚活とはそれを探すまでやり方はいろいろあれども、何回施行しくじを引き当てるかにすぎない。どちらの気持ちもわかるが、とても両極端である。

 

無邪気な人は言う。「〇〇さんに会う人っていると思いますか?」「いないことは無いと思う。」「その人に出会えるまで、出会いを続ければ良いと言うことですね。出会いの場に行かないのは何故なのですか?」「結婚というもの自体をイメージできないから。」「ちょっと意味がわからないです。自分にとって、居心地がいい人に出会う確率を上げる行動をすればいいだけで、出会いの場に行かないことは結婚のイメージができないことと関係ないと思うのですが。」「ぐぬぬ。」無邪気な友達は、高スペックを持った辛い友達が、なんで辛そうに生きているのかが、純粋に不思議であっただけである。やれば終わる可能性がある労力をかけてないという事実に、無邪気な疑問を投げかけていただけだった。

 

たしかにそうなのだと思う。自分の行動にもっともらしい理由をつけるけど、事象と確率を考えると、やるべき行動なんてものは自ずと決まってくる。何かをやって失敗するのが恥ずかしいと思えるほどの可愛い年齢ではないのだし、とくに行動しない理由を探す方が難しい。やってうまく行かなかったら次の人に行けばいい。相手だって、100%うまくいくとは思ってないのだから、うまく行かなくても、お互い様である。余計な気遣いが、行動を縛ってしまう。

 

辛い友達は、世の中に叫んでいるのである。理不尽な世の中で、自分は辛さに耐えて労働を行っている。そして、それに見合う対価が得られるべきだと。その対価は、自分の気持ちなど誰もわからないのだから、放っておいてくれというあきらめでもある。でも単純に考えれば、笑うために何をすればいいのかという考えを放棄し、暗がりに閉じこもっている。確かに言われてみれば、不思議な状況である。そんな考える必要ないんじゃないんですか。その通りでしかない。

 

いつか同じような事象があれば、無邪気に聞いてみたいと思う。辛そうな顔をしている人に、「なんで辛そうに生きているの?」と言ってみたいと思う。極端に言えば、対処方法は3つしかない。自分を変えるか、環境を変えるか、耐え続けるかの3つである。辛い状況を自ら望んでれば別だけれども、笑っている方がいいのは子供でもわかる。純粋に不思議だなと思う疑問を持て相手に投げかけると、案外頑なな心もほぐれていくような気がすると感じた。頑固な人へのアプローチをさらに一つ発見することができた、おもしろい飲み会であった。