川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

異物

元来が無口な人間である。誰かと会話をすることよりも、無言で雲を見つめることのほうが好きである。今雄弁に語っていることは、自分の内面や物事の構造を言語化することで、考えを発展していけると思うから、しゃべれるようになっただけで、別におしゃべりというわけではない。最近の世の中は多弁であることがもてはやされている。「沈黙が金」と呼ばれた時代ではなくなっている。テレビでは芸人がすべらない話をはなし、クラスでは似たように面白い話を皆に伝える人が、人気者になる。気持ちは伝えないと伝わらないよ。ドラマでは、言葉で伝える必要性がいたるところで放送されている。西洋的な考えに支配されて、いつしか日本古来の古典の良さが見失われている気がする。

 

大学の時に一番好きだった飲み会が、友達と2人で安い焼肉屋に行って18時から24時までいることだった。金がないという理由で選んだ焼肉屋だが、焼肉はとてもおいしく、ほどほどの混み具合であったため、毎週通っていた。何をそんなしゃべることがあるのとたまにいわれたけれど、別にしゃべらないときが多々あった。基本的に会話の内容は、読んだ本についてこれ面白いとか、こんなことが書かれていたとか、そんなたわいのない会話であった。その時の友達は、今でも心の中で師匠であり続けているのだが、人と接するときの頑張ることの無意味さを無言で語っていた。会話と会話の合間の沈黙は、しゃべりたいならしゃべってもいい。しゃべりたくないなら、しゃべらなくていいといつも語っている。「なんでそんな風になれたの?」軽い気持ちで師匠に聴くと、少し考えるしぐさを行い、沈黙があって言葉を発した。「自信があるからかな。」そのあとの説明も何もいらなかった。その言葉と沈黙だけで、何よりも雄弁にものを語っていた。現代人が忘れがちなそんな当たり前のことを、ありありと体現していた。ガード下の雰囲気のような、七輪の炭火による煙が蔓延する焼肉屋での時間は、宮殿で貴族たちが嗜む紅茶の時間に匹敵するほど、精神的に優雅な時間であった。

 

合コンでもキャバクラでも時々しゃべらないことを選択する。しゃべらなければいけないという空気を読むことにつかれているのである。時に会話とは無理して音を発して、その音に相手も反応する。ただそれだけである。そういう時に、無言でいることを選ぶ。合コンやキャバクラでも女の子は話をしなければいけないという、強迫観念に縛られるためか、元々女性がそういう生き物だからか、そんな中でも話を続けようとする。そんなときは、こけしのことを考える。どう考えてもアンバランスで不気味なあの人形が、どうして現在に至るまで受け継がれているのか。受け継がなかったら呪うという恐怖もわかるのだが、人は恐怖のみで理由もなくこけしを継承していくものだろうか。そんな不毛なことを考える。こんな発言をしたところで、共感してくれる人がいないだろうという程度の常識は持ち合わせているから、特にそのことを発したりしない。でも、変わったものがいて、今も存在している現実がある。別に飲み会でしゃべらないことなど、世界全体からすれば大した話ではないと、一人納得する。何となく楽しそうにたゆたう自分を見て、隣にいる女の子もそんなものかなと無言になる。気が向けばしゃべったりもするのだが終わりの時間が来て、そのままの無言の流れで「ごちそうさま」といって席を立つ。たまに不快感をあらわにされることもあるが、うれしいことを言われることもある。「なんかほっとしたよ。」そんなんでいいと思っている。無言で時間を経過し、女の子より多くを払って、そっと帰る。とても優雅である。

 

基本的に人の考えていることなどわからない。互いのことをしゃべればしゃべるほど、わかるというわけでもない。時に沈黙の時間が雄弁に人に語りかけることを知っている。傷つきふさぎ込んでいる人に必要なのは、ただ何も言わず隣にいてあげることである。何もせずいてくれるだけで、なんか気持ちが回復する。そんなときがある。押しつけがましいやさしさよりも、気づくか気づかないかくらいのやさしさが一番人の活力を出せるものだと思っている。やさしさは冷蔵庫に置いてくれるプリンくらいがちょうどいい。冷蔵庫にぼつんと置かれているプリンは「あまいものでも食べて頑張って。」と暗に語り掛けている。そんな音にならない言葉をプリンに込める。それを一緒に食べようとも、一人で食べようとも、置いてくれた誰かが隣にいてくれる気がする。物理的な糖分の補給でもありながら、精神的なよりどころにもなる。押し付けのないそんなやさしさを、人は見過ごしがちである。多弁なことを評価される風潮はあるけれども、寡黙なことを評価する風潮のないことは、あまりいいことだとは思わない。わかりやすさが好まれる現代において、わかりにくいことは放っておかれがちである。でも、いつも本当にいいものは放っておかれることはない。たまに自分自身にそう言い聞かせている。

 

もともと自分が異物であることは自覚していた。自分のコミュ力の低さも、しゃべる能力の低さも誰よりも自覚していたけれど、いつも飲み会にいた。断る理由を考えるその手間がめんどくさかったから、呼ばれればいつも行った。そして無言で酒を飲んでいる。全く知らない人や、なじみのメンバーや、老若男女問わずいろんな人と飲みに行った。大体が、よくしゃべるやつが飲み会を開くため、別にしゃべる必要はないのだが、あまり気にせずほがらかに笑って、酒を楽しんでいた。飲み会に呼ばれ続けるのには、そうである理由はいろいろあるのだけれども、どう考えてもよくわからない異物としか認識されない自分が、どんな飲み会にでもなじめたのは、師匠のおかげであった。

 

長くかかわりがある人から、恋愛のアプローチをされることがよくある。最初はなんだかよくわからないのだと思う。話す言葉は妙な説得力があり、変に勉強ができて、無駄な知識がある。そしてだいたい無言である。なんかいいなと思っても、どうやって隣にいていいのかがわからない。でも別にいたいと思うだけでいいと、いつも無言で語っている。出るものは追わないし、来るものは拒まない。カフェに行ったらそのコーヒーの香りを楽しみ、居酒屋に行けば食事と酒を楽しむ。辛いことがあれば、「そっか」と相づちを打ち、楽しいことがあれば「よかったね」と答える。映画を見てつまらないと思えば、つまらなかったといい、楽しければ楽しいという。晴れていれば、「いい天気だね」といい、雨が降っていれば、「天気悪いね」という。1日として同じ日が来ない毎日のなかで、人生を楽しむなんてものは、その程度で十分だと思う。

 

最近の大人たちは若者に変化を求める。恋人を作れ、高級車に乗れ、時計を買え、ブランドものを着ろ。でも若者たちは疲れている。不況の時代を生き負け続け、公園にある遊具は怪我をするという理由で無くなっている。コンプライアンスを守り、勢いのない時代の中で失敗することができない。ITの革新によりあまりにも時代の変化が速い状況に適応しながらも、増え続けるルールを暗に守り続けることで精一杯である。珍しい現象である。たいがいは若者たちが大人に変化を求めるのであるから。でも、どんな時代でもぼくのような異物はいたと思う。早すぎる変化の時代の中で、ちょっとプリンでも食べて落ち着こうよ。そんなことを無言でいつも語っている。