川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

原点

毎年一回小学校の友達との飲み会かある。3人のうち2人は、中学校一緒であるからなんとなくわかるのだが、1人は小学校5、6年生の時の付き合いのみである。大学のときに不意に会いたいと思い、正月に連絡した。その流れは今も変わらず、1年に1回会うことを続けている。意外にそういう話は少ないらしく、割と周りから羨ましがられる。思い出話をすることは個人的には少ないのだが、2年間の付き合いの小学校の友達と自然と話し合う会話は、思い出話が主になる。ゆっくりと話し合い、手繰りよせるように記憶を探していく会話の中で、今と変わらない自分に出会う。

 

嘘が嫌いな少年であった。バカ正直に生きたり、正義感があるということではない。何十年後も同じように同じことをできないと思った自分の嘘っぽい行動を、ことごとく恥ずかしいと思っていた。今もどんな人であろうが、さも昨日あったかのように会話をするのは、昔からの名残りなのだろうと、しゃべっていて思った。中のよかった3人組はいつまでも独身である。今と変わらない行動をしていた小学校の自分を省みて、自分を貫く精神など何ひとつ変わっていないことを確認したため、少し書く。

 

小学校の友達はお笑いにとても厳しい。夜眠い目を擦り続けながらみた爆笑オンエアバトルは、企画も何もない地の面白さを伝えていた。企画と勢いが優勢なめちゃイケも好きではあったのだが、洋楽に憧れる少年のように、その純粋なお笑いをとても尊いものだと思っていた。自分の身一つでできるその笑いは、誰も傷つけず人を笑顔にしていた。タイムマシーンが好きであれば万人受けな性格。アンタッチャブルが好きであれば体当たりな笑が好き。ラーメンズが好きであれば知的な感じ。底抜けエアーラインを好きであればセンスがある。そんなふわっとした性格判断を見出し、やはりセンスを重視したラーメンズや底抜けエアーラインを好きだと言った。万人に伝わらないよさの中で、絶対的に面白いと思う人がいる。そんなことを言葉にするまでもなく共有していた小学校の自分達は、独自の面白いと思うものを追求した。日常の中の非日常。あまりに自然に溶け込む流れの中で、行動や感情を誇張したり、逆を取ったりする。今でも一見すると普通に見えるのに、だんだん知り合ううちに頭がおかしいと思われるのは、そんなセンスを追求したからであった。

 

思い出ばなしのひとつに、りんご飴の話がある。小学校で年1回のバザーか何かの催し物で、毎年リンゴ飴の出店があった。今でも味を思い出すことはできない程度のものなのだが、なぜだか長蛇の列ができるほど人気であった。どうやったらそのリンゴ飴をセンスよくおもしろく手に入れられるのか、独自のおもしろさを追求した少年はある案を思いついた。それは朝4時から並ぶことであった。友達と時間を決めて集合し、土の上に座ってただひたすらに待つことを選択した。会場を設営する人すらも全くいない、薄暗い校庭の中で、土の寒さに耐えながら座り続けた。友達は6時くらいに来て、結局9時ぐらいになるまで全く人は来ることなく、そのリンゴ飴を食べたのかも定かではないのだが、別にこの話を誰かに聞いて欲しくてやったわけでも、その様子を誰かに報告されたかったわけでもない。自分がおもしろいと思えるものに、殉じてみたいと純粋に思っていた。ただそれだけである。それは今と全く変わることはない。この話を聞いて、誰がつまらないと思おうと、子供の頃の自分の感性にはセンスがあると今でも確信している。大切にしてるのは構造である。平凡な日常の些細な出来事に、小学生に似つかわしくない意地と気合を足しあわせて、不毛という大きな目標に向かって、突き進む。人生に対しての余裕すらも感じ取れるその優雅な考えを持ちながら、その余裕を余すことなく行動と不釣り合いな無駄なものに向けるその姿勢は、今も自分の原点である。

 

誰に理解されなくてもいい。でもそれをわかってくれる人がどこかに必ずいる。そんな分かりにくい、人を置き去りにするおもしろさの追求は今も続けている。一般的な思春期を経て、異性の目を意識して、分かりやすいおもしろさで異性を惹きつける。普通であればそうやって変わっていくものなのだが、そうなってしまうのは暗闇の中にぽつんと座っていた純粋な自分と、それをおもしろいと思って隣にいてくれた友達に嘘をつくことになる。今でも、変わることなもなく友達と話すことができるのは、その感情を大切にしているからである。そして、友達も同じようにその感情を大切にしているから、今でも一緒に飲むことができている。

 

だからだめなのである。人生にある程度の見切りをつけて、幸せな人生に舵を取っていかなくてはならない。普通はそんなことすらも考えることはなく結婚して、幸せな生活を手に入れていくものなのだろうが、その舵を取ることができないからこそ、結婚もせず平凡な日常を異常に生きている。

 

何が正しいかなど全くわからない。少なくとも、そんなわけのわからないものを大切にしながら生きてきて、よくわからない友達ができた。でも振り返るといつもふざけ合って笑っていた思い出しかない。米津玄師の歌で「まちがいさがし」という歌がある。間違いだらけの人生で、間違いながら生きてしか出会えない人と出会ったと言っている。全く同じである。今も隣にいる間違えだらけの友達たちは、間違えだらけの自分にいつも笑いをくれた。


何がいいことなんかわからないけど、地面の寒さに耐えて拳を握りしめてぽつんと座り続けた頑固な少年は、大人になっても変わることなく育った自分にいつもこう語りかけている。

 

「しょうがないよ。それがおもしろいと思ったのだから。」

 

そして誰よりもその少年を、今の自分が誇りに思っている。嘘のない自分でいること。そんなことを思い出すことができた飲み会であった。