川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

攻略本

昔ゲームとかをしていた時、攻略本をよく買った。今は、ネットを探せばいくらでも攻略情報など出てくるのだが、その当時は友達同士の会話か、テレビでやっている小ネタの紹介か、攻略本でしか、裏技や強いアイテムを手に入れる方法を探す手段がなかった。無限の時間と真面目な性格が、攻略本に頼るという軟弱な精神を許さなかったのではあるが、エスカレーターがあるのに階段を使うという、文明の利器を活用しない発展性のない性格は本末転倒だなと思ったので、ファイナルファンタジーシリーズのアルティマニアを買った。ゲームよりおもしろいんじゃないかと思った。

 

何かの水墨画を書いている人で、技術とは透明さであると言っている人がいた。図と地による構図で、地を表現する技術がないと、本来意図している図が自分の中に入ってこないという。目ざわりとか違和感がおきるというのは、技術の不足によるものだと語っていた。それは音楽でも変わりはない。普段聞くなめらかな音楽が、つっかえたり、コードを間違っていたりすると、リラックスして聞くことができない。子供のピアノの発表会は純粋な技術の成長を確かめるだけだからいいけれども、普段の生活に溶け込めるためには、透明になる技術がいる。

 

ゲームも同じである。自分がプレイヤーとして世界観に没入するために、そこには本当に世界が広がっているような錯覚を持たせることを主題とする。当然その世界に歴史があって、考える人々がいて、現実の世界と同じように、独自の世界を作り出している。そういう作者の思惑を見せないのが技術であり、それが違和感なくプレーヤーを引き込むのがいいゲームである。攻略本のおもしろいところは、そんな世界を作った人たちが、「どうだ。すごいだろ。」と言っていることだと思う。街やダンジョンが俯瞰によって、図解されていて、モンスターの属性や能力が細かく書き記していて、ストーリーでは気づかない細々とした設定が記載されている。どう考えてもそこまでやる必要はないだろという、作者の狂気が攻略本には記されている。語り継がれる作品は、それだけの厚みがある。アルティマニアを見ているとき、世界を解き明かすようなワクワク感がある。そういうものは好きだった。

 

西野かなという歌手に、トリセツという歌がある。自分の取り扱い方法を、メロディーにのせて記している。女心を意に介さない自分としては、真面目に聞いているとげんなりするのだが、聞き心地のいい抑揚の少ない旋律は聞いていて居心地がいい。発想としてはとてもおもしろい試みであると思うので、自分の攻略本について書いてみたい。

 

自分を攻略するための大きな要素は、「やさしさ」と「欠如感」である。日本という国が、日の本という中国を起点にして国名がある通り、常に何かに対して相対的な存在の仕方をとる。古風なものを良いものとする自分の発想は、それとあまり変わりがない。この世の中に対して、自分なんかという欠如感というか、脇役感というものをいつも抱えている。ただ、世界がそんな欠如感を持つ脇役をみとめて、育ててくれた恩義があるため、人に対するやさしさがある。その2つが自分にとって大きなポイントである。

 

攻略するためには、大きく2通り考えらえる。絶対的な存在となって、確固たる自分を見せ続けるか、同じような存在となって心情を同じにするかである。大きく言えば「憧れ」か「共感」である。それは、行動の原理が主体的か客体的かということであり、憧れられるかは、主体的でかつ客体にも利益を及ぼして要るかであり、共感できるかは、客体的でかつ主体的にも利益を及ぼしているかである。わかりやすいセリフで例えると、「自分は好き勝手に生きているけれど、人に対して優しくしている自分も好き。」か「自分は人のために生きたいと思っているけれど、自分の納得のためにやっているだけ。」この2つの理念のどちらかを押し付けることができれば、攻略する糸口が見つかる。

 

このどちらかの理念を持っているのであれば、関係を始めるのは簡単である。重要なのは関係性を続けることである。「欠如感」と「やさしさ」を持った人間はある一定の距離を持った人への互いの干渉を嫌う。「内は内。外は外。」という考えが根本にあり、内に入るか外に入るかが大きな問題となる。欠如感を抱えた人間であるため、他のものを理解できないという状況は苦ではない。欠如感とは偉大なものに対する憧れであり、その憧れに対しての相対的な存在である自分は、理解できない部分に魅入られているからである。結果としてそれを理解しようとは思うが、理解できるはずはないという結論に行き着く。だから、ここでも2パターンの攻略方法があり、「内に入る」か「外にいる」かである。主体的に行動を起こす人であれば、外にいるケースが推奨され、ある一定の距離を保ってずっと関係性を続けることが円滑な関係を保つ秘訣である。結果的には本当のところで理解していないのであるけれども、そもそも人を完全に理解することなどきないのだから、それを大枠として持っているだけだという結論に至る。互いの干渉を行わなければ、関係性は長く続く。客体的な人からすれば、内に入って同じルールを持ち続けることを推奨する。欠如感があるだけに、自分の内側には外に対しての畏怖があるため、自分の中に規律とある種の禁欲を求める。欲望を求めず、自分の得られる範囲内で調整して少しずつキャパシティを大きくしながら、ありあわせの事象に満足することができるのであれば、自ずと関係性を構築ことができる。細かい微調整は他人を理解しようとする「やさしさ」があれば、何とかなると思う。

 

まとめると以上のようになる。

「自分勝手に生きているけれど、人に優しくしている自分が好き。そんな自分がやっていることを笑ってくれるのだから、互いに何かを変えるよりも、好きなことをして今の関係性を続けていきたい。」か「人のために生きているけれど、それは自分の納得のためにやっているだけ。一緒にそう思えるのだから、ちょっとずつお互いの世界を広げていってわかりあいながら、ちょっとだけでも世の中を一緒によくしたい。」この2つの考えをどちらか持っているのであれば、自分を攻略できるのではないかと思った。というかこんな話を、聞いてくれれば攻略できるのだから、難しいのか簡単なのか微妙なところである。