川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

死んだ魚の目をした友人

20代はインプットをする時期で、30代はアウトプットをする時期とよく言われる。この文章を書いているのも、そろそろ自分の中にためた知識や経験を、社会にアウトプットする時期になったのではないかなと思って、書いている。誰に見せるために書いているわけではないのだが、自分の中の思考の方向性を見極める意味では、いいことであると思う。

 

初めてここに書かれている文章を人の目に晒した。「事実」と「黒子のバスケ脅迫事件最終意見陳述」モチーフは死んだ魚の目をした友人である。彼と長年の付き合いをしている理由は「意味が分からない」それに尽きる。わからないことをおもしろがっているのである。世間一般を見ても、これはかなり特殊な関係性の結び方であると思う。言葉として書いては見たものの、彼が有数の大学を合格できた理由も、今を辛そうに生きる理由も、自分にとっては意味が分からないのである。無理やり論理だててストーリーとして書いては見たものの、そんなものはパーツパーツを組み合わせて、何となく形づくっただけの不格好のレゴのようなものである。彼にこの文章を見せて、オンラインによる飲み会をしたのだが、彼の発言は意外にも知性的であった。いつもの卑下する彼とは違った、とても大きな変化であったと感じた。

 

自分の中で一番しっくりくる解釈として、「知性」とはこの世の中のどの部分に自分がいるかを把握することである。切り口にも色々ある。世界の中の一人。組織の中の個人。男女としての男。家族・友人の中の一人。経済の中の一消費者。職種としての一仕事。イデオロギーの中の一思想。歴史の中の今。生物としての一個体。粒子の集合体としての人間という物質。神がいる世界においての一存在。複数の要素による階層の中で、自分の立ち位置の実態が適切に評価されているか。それが「知性」があるかだと思っている。過信も卑下も尊大も「知性」ではない。また、優秀であるかも「知性」とは因果関係がない。引きこもりだったとしても、親と金と社会と自分を適切に評価して、自分の意志によって選択をしているのであれば、「知性」があると思う。別に知性があることや、論理的であることは、かけっこがはやいとか、力があるとか、ルックスがいいとかその程度の個性や能力の一つでしかないと、思いたいとは思っているが、今回彼と話をしているときに知性を感じた。別に書いてある文章に触発されて、そうなったわけではないと思うけれども、おまえはこういう人間でここに位置しているんだと指摘されると、そうかもと思える部分と、そうでないと思える部分が必ず出てくる。あくまで自分が客観的であろうと思う主観的観点から、メタ的に俯瞰的に見る視点を一方的に認識させたことで、それなりの納得とそうではないという反発心を生んだのかもしれない。自分なりに立ち位置に対しての微調整をするような知性を、飲み会で感じた。

 

あえて「浮遊霊」という強いワードを書いてみたのだけれども、彼がそこまでひどいものではないと思っていた。そうでなければ、ダメ人間として大学でヒーローのように愛されていた彼の存在理由を説明できないからだ。ただ、感情が薄れているその状況を描写するのに手っ取り早い事例を、最終意見陳述を見て思ったのだから採用をした。三つ子の魂百までという言葉があるように、人格の成立には家庭環境が大きな要因を占めることから、家庭環境に彼自身が今辛いと考える原因を探すことは出来るのだろうが、まあそこまでよくその家庭環境を精査していないからなんとも言えない。

 

この文章を見せる前に、今の彼自身が無理をしていることを伝えた。職場内のいろいろな人が彼に対して「圧がある」と感じていることを察知しており、飲み会でも別の友人から直接言われてへこんでいた。大学の時の彼自身は誰よりも頑張っていなかったから、愛されていたのではと思うが、今の彼は本来ダメ人間である自分を偽って無理して社会人をやっており、周りの人ができないことをそのままにする理由がわからない彼は、周りの人ができるように指導している。そしてその無理による余裕のなさが、相手に賞賛や本人の努力という一方的な対価を強いる。入試や直接的なシステムの仕事といった他の人を介さない職務は彼に最適なのであろう。なんせ彼は幾千いる会社内で生産性2位で表彰を受けており、ボーナスで一番上のランクを取った男なのであるから。あくまで自分が辛そうにだらだらと生きるのは、不機嫌そうな態度をありありと見せることで、自分が労働を行っているのだと声高に主張しているのである。その原理は、つまらなそうに家事をする主婦も、あえてだらだらと授業を受ける学生も変わりはない。声にならない不満の対価を態度を露わにすることで求めているのである。また今までの彼は、エンターテイナーとしてのサービス精神なのか、自分をよく見せることを格好悪いと思っているのか、道化のようにふるまう一面がよく散見される。自分を卑下することで、誰かを笑わせるのは彼にとっての上等手段であるのだが、そこに知性を感じさせないほど、役割に殉じていた。それを自分自身と無意識に思い込んでいるのかもしれない。

 

最近の飲み会で知性的だと感じたのは、案外自分の感情を雄弁に説明していたからである。自分は怠惰でありつつ真面目であるという前提のもと、上司や組織や会社が求める自分の存在を考え、今のぬるま湯のような環境の中で、ほかの大変な部署を見ていると、そんな甘いものではいけないと言っていた。部下がやると1週間かかる仕事も、2時間で終わらせられるらしい。大学時代を知るぼくからしても、とても彼に似つかわしくない言動であると感じる。要は今までの状況においては、ある上層の階層の中で下流でいることを甘んじて受け入れてきたのだが、中層の階層の中で上流でいることを強いられていると本人が認識している今の状況については、対応方法を知らないのである。それは、常に下流でい続けようと思った彼自身の策略の誤算である。

 

彼の厄介さは、IQが高いがEQが低いことにある。自分のEQの低さを理解して、周りのIQの低さを理解して、そのギャップに絶望して辛いといって生きることは、ある意味IQの高さにより、環境と自分の立ち位置を適切に把握していると言える。人の感情がわからないのであれば、それに寄り添うよりもATフィールドを展開したほうが、自然な対応と言える。厄介なことは、自分が相手より上として見ていいのか、下として見ていいのか、よくわからないことなのだと思う。仕事での能率を考えると上にいる。人生の幸福度を考えると下にいる。そのねじれの意識によって、人に対しての自分のスタンスを定めることができない。無理して上の立場から発言するから、圧がかかるのである。

 

IQが高いのも、EQが低いのもぼくから言わせてもらえば、ただの個性にしかすぎない。変に意固地になるから、軋轢が生まれるのである。この前2chまとめサイトで、ボーリング好きな男のスレを見た。初めてのデートでボーリングに行って、彼女専用のシューズをプレゼントして、2フレーム使用するアメリカンスタイルを採用し、ボーリングの技術を自慢していた。側から見ていると、とても痛々しく滑稽なのだが、女性からすればたまったものではないのだろう。友人が行っているのも、大枠で見ればあまり変わりない。相手のリアクションを想像せずに、自分だけの振る舞いを行う。一般的な感覚とはかけ離れたふるまいだからおもしろいのだが。彼を見ていて発展性がないといつも思うのが、全て1つのやり方しか採用しないからである。

 

相対する人に対して、彼は1つのアプローチしかしない。ただ案外彼は無意識に対応を相手によって使い分けている。初対面の人にはぎこちない笑顔で取り繕った人格で接し、この飲み会の場では不器用なエンターテイナーの役割を演じる。部下には圧のある先輩として君臨し、仲の良かった同期には、少しでもいけている自分を演出する。こう考えると、色々な人に対して適材適所かはわからないが役を使い分けている。それは無意識であり、反射にも近い対応なのだろうが、その複数の人格どれもが本人を形作る要素なのである。彼が変わらないと思う要因は、同じスタイルを同じ人に使い続けることである。IQが高いのであるのだから、ちょっとずつ混ぜていくなり、使い分けるなり、実践して改善していけばいいのに、それをやらないのがとても不思議なことである。人に対応する方法には、北風と太陽もあり、善人と悪人もあり、高圧的も下手に出るのも、肉欲的も禁欲的に接するのも、論理的も感情的に話すのも、色々な方法がある。その選択も濃淡があり、割合を変えることで相手からの印象を驚くほど変えることができる。別に人など100か0かで割り切れないのだから、自分を偽っているわけではない。TPOを使い分けているだけである。自分を他者から好意的にみられることを望んだとして,素の自分と意識的に見せる自分には齟齬がある。その齟齬を違和感なく自分に馴染ませるためには、長い年月を要する。その年月を揶揄する表現で、30年後には結婚できると馬鹿にして指摘しているのである。いつまでも、同じスタイルを使い続けているから、現状の変化がないのだと思う。現状を受け入れいているという選択をし続けている。それはいいも悪いもなく、本人が選び取った決定である。

 

彼が知性的に見えたのは大きな変化である。文章を読んでそれに同調・反発したのでもいい。人に対して、無理をしなくなったのでもいい。自分自身をこうだと決めつけられるほど、人間という生物は単純でないと思う。知性を有しているのであれば、相手への対応方法を選ぶのはそんなに難しいことではないと思う。偏見であれ、一般的な感覚であれ、自分が相手に対して行動をした際に嫌そうな顔をしている理由、もしくはするだろう理由を考え、そうならないように違うスタンスをとればいいだけなのだから。少なくとも、相手に対して圧がある自分を認識し、圧があると言われた自分にへこんでいるのであれば、その圧の原因も何となくわかるであろう。生産性2位を取ったその論理性があるのであれば、なぜそれを対人関係に活かさないのか。今でも彼は自分にとって「意味が分からない」存在であり続けている。

 

アウトプットを人に見せることで、自分の間違えも確認できたし、相手のリアクションも何となく確認できた。ただ、文章を見せて感想を聞いたときに、ある程度の納得もしながら違和感を持っているのは感じ取れたが、意外に気を遣いながら言葉を選んで行動の原理を言語化し、その考え方は間違っていると直接指摘しない、その配慮する姿勢にはとても好感が持てた。なぜそれをほかの人にできないのか。とても不思議なことであった。