川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

合理化

何か辛いことや嫌なことがあると、すぐに合理化をする癖がある。ある意味では、逃避の一種なのだが、無駄に見て読んだ小説や漫画やアニメの知識をフル回転させて、自分の中でもっともらしい理由を見つけて合理化を図る。

 

合理化を図ることの良い点は、現状を肯定できることである。辛い状況に耐えて、それに打ち勝つイメージを肯定的に捉えて、苦難を乗り越えることができる。ただ悪いのは、そこに何かしらの合理的な物語を自分で作ってしまうため、苦難を経ることがいいことなのだと、自分に言い聞かせてしまう。辛いときに2重人格を作り出す話をたまに聞いたりするが、自分の場合は現状の苦難をごまかせるほどの緻密な構成を作り、乗り越えた先の自分をイメージし、逆境を楽しもうとする。

 

今も昔も同じである。知的好奇心がある人間だと思う。確かにそれは嘘ではないのだけれども、現状の適応障害とまで追い込まれた状況、そしてその症状の観察をずっと行い知的好奇心を満たすために、自らその場に飛び込んだと合理化をする。確かにその側面もある。その症状により、何ができなくなり、何ができるのか。どうすれば鬱に発展し、逆に発展しないのか。自分の感情にどういう変化が起こるのか。どういう感情が沸き上がり、どういう感情は消えていくのか。すべて、知的好奇心によってどうなるかを知りたかったのも嘘ではないのだが、そんなものはただ自分の苦難から現実逃避するために、自分の中で合理化をしているに過ぎない。

 

合理化とは自分の頭の中だけに起こる現象ではあり、現状を乗り越える方向に働くので、決して悪いことではない。でも、自分の現状をごまかせるほどの緻密な合理化は自分の気持ちをだましているに等しいとも危惧している。本当はなにがしたかったのだろうか。苦難を超えることにより、子供のころに思っていた大人のイメージよりは、タフになったのだと思う。人の気持ちも少しはわかり、行動の幅も広がった。でも、毎日がつらい。それはいつまで続くのだろうか。

 

「若さが幸福などというのを望むのは、衰退である」三島由紀夫の言である。毎度自分自身に向けてそれっぽい言葉を引用する。そうかなとも思うのだけれども、自分に言い聞かせているとも感じられる。こうやって言葉の意味そのものを一意的に考えず、次数をあげて俯瞰的に捉えることも合理化の一種である。ここまで考えているのだから、そう考えてもいいのだと、自分に対して言い聞かせている節がある。純粋な好きという気持ちでやっている人にはかなわない。

 

子供のころは割となんでもできたせいか、これがしたいと言えるものが特になかった。物語に登場する、一途な行動をし続ける熱い気持ちを持ったヒーローに、あこがれはしたのだけれども、その熱さを持ちえるだけの自分が見当たらなかった。人間なんて弱い生き物である。自分に都合がいいように解釈し、弱い方へと逃げていく。だからこそ自分に逃げ場をなくすために、合理的な考えをこしらえて、自分自身の中でお膳立てして、厳しい環境に自らを追い込んでいく。そうやって何かを得られると、合理的な考えのおかげだと考えて、ほかのものにも転用する。いつも何かをしない理由を作り出す。恋愛も結婚もしないのも、それが原因なのであろうと感じている。

 

自分の直感と好きだという感情と合理的な考え。どれも互いにがんじがらめに絡まっており、どれがどれなのか言葉として説明はできるのだけれども、どの言葉にも無駄に説得力があるため、どの感情に従っているのかがわからない。直観によって今があるのか、今の自分が好きだから今があるのか、合理的な考えを構成していった結果今があるのか。どういった前後関係で発生しているのか少し興味深いテーマである。

 

「なんとなく、自分を好きだと言える人になりたくて、合理的に自分の考えと行動を導いてきた。」それが今の自分なのだろう。言葉にすると、どうしてもとらわれてしまうため、合理的になる自分も少し戒めてみようと、なんとなく思った。