川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

石橋をたたいて渡る

前もって周到な準備を行い、確認を怠らないことをことわざで「石橋をたたいて渡る」と表現する。最近そんな世の中だなと思う。不祥事をしたり、不倫をしたり、犯罪をしたり、会社や人が失敗をしたりする情報が出回り、過剰に非難される。情報リテラシーと称して、個人個人が適切に情報を選別するべきだとの風潮がある。

 

自分もそうだからわかるけれども、「石橋をたたいて渡る」のは無駄なことが多い。あくまで比喩だけれども、自分の性格上たたいて渡るべき橋があると感じると、その石橋の基礎の種別・配筋の有無・熱伸びに対しての伸縮・表面の素材の滑りやすさ・施工業者の実績・図面の確認・各種試験成績書・施工写真の確認・まじかで見たときのひび割れの有無・地域の地震津波、台風の確認・当日の天候など無数の条件を調べる。よく言えば用心深いのだけれども、悪く言えば人を信用していない。自分の目で見ないと信用ができないその疑り深さは、良い点でもあるが、悪い点でもある。往々にして無駄なことが多い。

 

ここにこうやって言葉として書いていることは、普通の生活の中ではオーバースペックである。自分は自分の考えていることを、趣味と酔狂の中間と位置付けているから、特に気にしてはいないのだけれども、日常を普通に生きるうえで、多種多様な考え方を持つことは、あまり必要がない。わからなければ、わかる人に聞けばいいのだし、わかる人を見抜く目を養い、わかる人との意思疎通しやすい状況を作ればいいのである。内に内にと向かう姿勢が、無意味な考えを作り出し、合理的な思考がその無意味さに意味を与える。別に趣味と酔狂でやっているのだから、特にかまわないのだけれども、日常にまで干渉するその用心深い性格は、結果として負の側面を巻き起こしているような気がする。

 

恋愛して結婚をするという文化はここ最近のものである。自分で自分の好きな人を選ぶという考えは、上位の人間には有用であるが、一般的にはそうではないと感じる。ドラマや映画やバラエティや身近な人が恋愛の重要性を語るのだけれども、当然できる人もいれば、できない人もいる。恋愛をして結婚をして幸せに生きる人は、当然ほかの人もそうなるように、時には強く、時にはやんわりと勧誘をするが、みんなができれば人口減少なんて起こりはしない。大切なのは、集団の中で失敗する人もいれば成功する人もいるその混沌とした状況なのである。

 

今の社会的な現状を考えると、失敗を恐れてる文化である。日本という国が相対的に貧乏になり、互いの監視が強くなっているのだから当然であると思う。どこかしらのタイミングで、恥ずかしい自分をさらけ出さなくては、恋愛など何も前に進まない。恋愛を経るには、自分の恥ずかしさを乗り越えるだけの確固たる個を持たなくては始まらない。やらなければ見る目が養われないのだけれども、何かしらの成功の物語ばかりに触れている人は、成功を追いかけるようになり、成功をしないものには手を出さなくなる。当然の帰着であると思う。

 

昔は、許嫁であったり、仲人であったり、お見合いであったりと、色々な半私半公的な制度がたくさんあった。独身が奇異な目で見られることも、結婚する圧力としては十分であろう。当然結婚したとして、成功する人もいれば失敗する人もいる。それが重要である。すべてがハッピーエンドで迎えられるほど、そんなに人生など確定的なものではない。頑張れば確率をあげられる行動もあるのだと思うけど、結果的に失敗と思っても生きていけるのであれば、次につながっていく。各家庭の屋根の下にどれほどのドラマティックな物語があり、不幸のどん底にいる人がいたとしても、集団全体を見れば結果的に成功である。

 

今は個人が尊重される。個人の人格も尊厳も尊重しなければならないというバイアスが強い。相手を尊重するためには、自分のことも尊重しなければならず、一人の人格として成り立つためには相応の教育と修練が必要になる。ニーチェが言う超人に皆がなれればかまわないが、そんな成功例だけを見て、こうしろと押し付けるのでは何も生まれない。

 

日本人は真面目なのだと思う。ほかの国よりまわりの雰囲気を察して、同じ行動をするきらいがある。失敗してはいけないと、雰囲気を察知し、同じ行動をとる。とてもけなげである。

 

今石橋をたたいて渡ろうとすると、情報を集めやすいから自分に適切な情報を見つけ出すことが必要となる。自分が決定し自分の意志で選択をしたのであるから、それの結果がどうであれ、後悔をせずに自分で責任をとれるのは、いいことであるとは思う。ただ、その必要な情報を選別する目を養うのはとても骨が折れる。その労力が徒労であると感じてしまう。その徒労を意義があると信じてつき進められればいいけれども、ショートカットをするためには信じられる人を見つけることが大切だと思う。その人から「この石橋は安心だよ」と言われれば、たとえそれが嘘だったとしても安心してわたることができる。恋愛など同世代の中で終止してしまうため、結局淘汰された経験というものが適用されない。日本で恋愛がもてはやされたのは、文明開花により西洋化がされたことで、個人主義が台頭し、個人個人を尊重したことから始まる。夏目漱石が小説で、個人の考えの果てによる失敗を緻密に描いていたけれど、日本人にはあまり向いていないのだと思う。古から存続する制度というものは、良くも悪くもそこにいきる人を見ており、よくできている。

 

イスラム教では結婚するまで一回もあったことのない夫婦がよくあり、それでも離婚率が低いという話を聞くけれども、恋愛結婚という構造にもともと無理があるのかもしれない。今後この世の中を存続するために、「まだ恋愛などしているの」というムーブメントができるかもしれない。恋愛が個人消費の促進のために、メディアによって拡散された手法により広まった側面もあるのであるから、何かしらのメディアなり権力が日本を存続させるために、違う概念を持ち込むようになる気がするからだ。

 

とても便利な世の中である。スマホにより、どんな時間でも格安で興味の尽きないコンテンツにアクセスすることができる。身近な人からの口うるさい説教より、今を忘れて夢を見させてくれる物語に熱狂するのも頷ける。人は苦難には抵抗するが、快楽には抵抗できない。時代によって、覚醒剤や酒や煙草が無条件に享受できていた時もあるが、法によっての制限が加えられた。いつしかこの情報という快楽を何かしらの形で、規制されていくのかもしれない。

 

武士道とは、奇怪な制度である。仁義礼智。言わんとすることは、とても格好いいのだけれども、遣える君主とともに朽ち果てたり、恥辱よりも死を選んだりする。日本人的な価値観を有しているから、その気持ちもわからなくはないけれど、個を優先する西洋的な価値観からすれば到底理解のできない発想である。あえて枷をしょいこむことで、自分の限界以上の力を発揮する。決まりきった枠の中で生きることは、自由ではないが、安心が得られる。どちらがいいと言いたいのではなく、とてもおもしろい現象である。今の世の中も、エコノミックアニマルと蔑まれた不自由な生き方の礎のもと、先進国としての自由な世の中がある。でも、その自由を日本人は持て余している。

 

今後はどうなるのだろうか。従来から師弟制度により支えられた文化や技術の継承をしてきた日本では、師によって弟子の結婚相手を半強制的に選ぶというのは考えにくい話ではない。古来の頑とした、決まりきった制度ではなく、もっと緩やかな師弟関係になるであろうが、そんな世界線があってもおかしくはない。もしかしたら、AIが師となり、結婚相手を見つける世界が訪れるかもしれない。

 

「石橋をたたいて渡る」前に、その石橋を保証する人がいればそんな必要はない。日本になじみのない個人主義を是とする前に、変わりゆく世の中で、もっと何かしらの世代的なつながりが必要なのではないかと思う。