川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

リア充の写真

一番初めにも書いたが、幸せな人を色眼鏡で見る癖がある。Facebookで幸せそうな家族な写真を見るたびに、絶望の淵にいる人たちのことが思い浮かぶ。それは単に嫉妬という感情なのか。ひねくれているからなのか。自分自身がいいやつであることも嫌な奴であることも自覚はしているのだが、自分の中に毎度のように浮き上がる感情とその理由について少し詳細に考えてみたい。

 

王族とは生贄のシステムであるという考え方がある。誰が王様になっているかというより、王様という存在が、特定の社会を存続させるために必要であり、平常時では王様は栄華の限りを尽くす。右向け右の号令で末端の人々の暮らしを一変させる権力をもち、国中から集められた食べ物や女をむさぼる。とてもいい暮らしではあるのだが、それが戦争や飢饉や階級闘争により、危機的な立場に立った時に、処刑されるという運命を持つ。スケープゴートとしての役割の対価に栄華をむさぼると考えると、妥当な報酬ともいえる。上の者にはいつも、栄華の対価としてうまくいかないときの凋落という生贄的な役割が存在する。

 

岸田秀のものぐさ精神分析の中で、抑圧された自己に対して聖なるものの凋落を求める快楽を説いている。真正面から見る裸よりも、何気なく見える姿にエロスを感じ取るように、大衆はいつも社会の一員でかつ、自分のより上の社会的地位と名誉を持つものが隠し持っている穢れたもの尾を暴き出すことに異常な興奮を覚える。それが大学教授であったり、天皇であったりと、社会一般で聖的なものと認められる立場にいる人が、ふとした拍子に穢れたものが露呈された際の大衆からのたたかれ方は、異常とも思える様相を呈している。この本自体が1977年に刊行されたものであるから、日本国内において今でもたたかれている芸能人の様子を見ていると、昔から受け継がれる社会的動物としての生来の性質なのであろう。

 

常に人はどこかしらで何かを夢見ている。自由に生きている人を見てうらやましいと思い、家族をもっている人に憧れ、成功している人を羨望のまなざしで見つめる。実際に行動してみてやればできるかもしれないのだが、自分は自分だと言い聞かせたうえで、今までの生き方を踏襲し、ほかの人が歩んでいる道を見て聞いて簡易に追体験することで、今の自分を保っている。抑圧された自我を保ち現状を肯定するためには、時にはその憧れが凋落する様子を楽しむのは致し方がない。

 

上記の理由が幸せな人を素直に受け入れることができない理由の一つである。自分は自分の中に、規律と禁欲を求める傾向が強いため、その自分を肯定するために幸せを遠ざけようとする。抑圧された中で生きる自分自身を認めるためには、幸せな人を素直に認めようとはしない。

 

もう一つの理由としては、幸せとは想像力の欠如によってのみ得られる自分勝手なふるまいだと思っているからである。この世の中は、技術も知識も経験も国土もインフラもすべてが昔の人から引き継いできたものである。今生きて得られた身分や能力や収入など運によってたまたま自分のところに運ばれてきたものであって、努力するという事自体、努力できるように育てられた環境と先祖からの慣習を引き継いでいるだけであって、自分が身一つで成り立たせることができることなど何もないという考えが前提にある。

 

鬼滅の刃の煉獄杏寿郎の母親が以下のように言っている。

「生まれついて人よりも多くの才に恵まれたものは、その力を世のため人のために使わなければなりません。天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任をもって果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように。」

 

言葉を聞いて人がどう解釈するかは人によって大分違うとは思うのだが、幸せというもの自体が天から賜ったもので、それを持っている時点でこの世の中で強者であると思っている。そして、それをどんな形であれ人に還元するべきだと思っている。SNS上で幸せな様子を残すことは、限定的な家族のみに終始する幸せであるため、この世の中に還元しているとは到底思えない。自分の思い出の写真の整理のために、載せるという考えもわからなくはないのだが、不幸せな人々がそれらの写真を見ることで自分の弱さを再認識してしまうという、その心の痛みを理解しない想像力の欠如をどうしても感じ取ってしまう。

 

才能とはGiftであり、与えられたものである。与えられたものを自分の中にため込み、肥し続けることがよくないのは、経験的にも論理的にもそうだなと感じる。幸せであることは一向にかまわないし、それをSNSにあげることに対して直接的に人にどうこういうことは決してないのだが、自分の幸せは自分が勝ち取ったのだと、さも言い切るように見られるリア充の写真を残し続けるのは、たたかれても致し方ないと思う。幸せであることを知っているのであれば、知らない人に教えてあげて欲しいと切に思う。教えるという行為そのものが、本質的な理解を要し、表現の仕方によって劇的に効能が変わる。誰かに幸せを教えてあげようと真に向き合うのであれば、その表現も自分の行動も変わっていくと思う。

 

「人にやさしく。世界が平和になりますように。」

ポエムのように書き連ねる抽象的な概念も大いに結構であるが、時には歴史的・具体的な検証も必要なのではないかと思っている。幸せそうな写真を見て、こんなことを思っているのだから、やさしさと同時に呪いでもある。だからこそ考えるということ自体を軽々に人におすすめはしないのだが、自分が与えられたものを誰かに渡していく、そんな優しい循環のある社会であることを強く願っている。