川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

性格の悪さ

出来るだけ、いい面も悪い面も拾うようにして、話を書くことを心がけてはいるのだが、オリジナリティとは偏見の積み重ねでできるものだという話を耳にした。偏見とは人に対して持つ自分の性格の悪さの集合体である。それなりのスペックでこの歳まで結婚出来ないのは自分の性格の悪さが根本的に原因なのだと思う。ただそれは、確実な良さであり、おもしろさであり、独自性である。どうせどうしようもない性格なのであれば、自分の性格の悪さについて、あまり良い面でフォローせず、性格が悪くなる理由について書きたいと思う。

 

自分の特徴は、基本的に人のことを馬鹿にしていることである。自分の中の優しい側面と合理的な性格が、悪い印象を持たれる不都合や不利益を感じ取り、知らず知らずのうちにいい人を演じるような振る舞いを求めるが、出会った人々を悉く下に見る風潮がある。それは自分の人生を賭けて、おもしろさという、あやふやな概念に身を投じた結果であり、誰よりも努力をして、勉強をして、考え抜いて、時間をかけて自分という人間を形作ったその成果である。

 

人を馬鹿にするのは、その人たちの読みが浅いと思っているからである。女性からドライだとか、冷静だとかいうことをよく言われるが、その批評は検討外れだと思っている。単にその女性がもつ価値観や狭い範囲内の考察による、自分の利益のみを考慮する考えに同調できないだけで、誰よりも情に熱く、優しく、献身的である。一言で言うならば、死生観とスケールが違う。自分にとって、生きていることはそれだけですごいことであって、どんなに絶望の淵にいようが、病むことがあろうが、死ぬことに比べればたいした問題ではないと思っている。こんな平和で、雨風をしのげて、食べることに困らない世の中では、生きてさえいれば、どうにかできる。そう思っている。その中で他人のために頑張ろうとしている人を見ると、その人のために頑張ろうという気持ちになる。それは親戚とか友達とか、相対的な関係性の中ではなく、各人に対する絶対的な評価である。目の前にこまっている人がいれば助ける。だからこそ、建設業という非常に混み合った人間の絡み合う仕事は手を抜くことができない。対して女性は、身近な自分の周辺に位置するものに対しての特別な優しさを発揮する。家族に対して優しくなかったり、友達に対して厳しく当たるなど、その考えから逸脱する存在に対して、負の評価を与える。

 

知り合い夫妻の新居ができた時の話である。その時自分は週7で働いて、週3日通勤の時間を惜しんで、仕事場の最寄りの漫画喫茶に泊まっていた時のことである。辛そうなことも楽しそうなことも、あまり顔に出さない性格であるから、新居のお披露目とあって呼ばれれば、何食わぬ顔で新居を訪ねる。そこで奥さんから求められたのは、新居の検査と引っ越しの手伝いと、電球の設置である。何食わぬ顔で接するのは、辛さを全面に出してその場の雰囲気を悪くすることに対する配慮である。一から自分の辛さを説明して、同意と共感を求める事は簡単だが、得てして損をする辛い人生を送りがちな自分の状況を、苦しい顔をして毎度説明しても、いいことなど何一つない。それを理解しているから、何食わぬ顔をしている。電球の設置や引っ越しの手伝いに対して、自分の体力の限界を超えてやることなどできないから、業者を紹介して金も出すからと答えると、スーパードライだという。その問答そのものが間違っていると思う。

 

知らないものを知ることはとても難しいことである。当然子供を持つ母親の苦労もあるのだろうが、9ヶ月の育休をしている旦那がいてどの口が手伝ってと言えるのだろうか。一般的には週5で朝7時から夜22時まで働き、土日も書類の整理している人の考えなど分からず、そもそもその状況を想像することさえできないだろう。自分が持ちうる感情など、目の前で働く人たちが困らないように、いいものができるようにという祈りだけであって、自分の限界を超えたとしても、それで気持ちよく皆が笑って仕事できるのであれば、それ以上のことはないという優しさのみの考えである。その上で、疲労が残る体を引きずって、疲れなどおくびもださずに、来てくれた人に対して、ドライと評するその考えが分からない。この感情のどこをドライだというのか説明してほしいというのが、その人に持つ率直な感想である。

 

性格が悪くなれるのは、実が伴うからである。口だけでなく、むしろ口で言うことは少なく、背中で見せる。意地を張り通すだけの、根拠と実行力をもち、限界を超えてまでやりきる実がある。狂気と酔狂の狭間に優しさを据える人間を、適切に評価できない自分の想像力の欠如から、分からないものに対してドライとか冷たいとかいう言葉を選ぶ、その裁量の狭さを馬鹿にしているのである。自分の時間や金の節約なんていうつまらないもののために、自分という存在を使うのではなく、この世の中の人を笑顔にしたいという大義のためであれば、喜んで力を貸す。その情熱と優しさが、自分のレベルまで達していないから冷たく見えるのである。

 

こんなことをそれぞれの人にそれぞれの理由で思っているのである。思っていることは決して口に出しはしないし、よく分からない人だと関係性を終始することにしている。よほど自分のことを改めたいと強く念じているのであれば別だが、自分の考え方など幸せに生きている人にとっては毒でしかない。そもそも幸せとは、他人を顧みない鈍感さゆえに持ちうる幻想と思っているのだから、口に出さない方がいいと思っている。

 

無駄な頭脳が自分の行動に正当性を見出し、それが行動を加速させる。その負のループの結果辛い人生を送っているのだから、結果としては頭が悪いとも思うのであるが、その状況をおもしろいと思ってしまったのだから、そんな人生に殉じてみたいと思ってしまったのだから、仕方がない。だからこそ人を馬鹿にするのも仕方がない。自分の納得のためにやっているだけだからと強がりを言って、人の評価は気にしていないと嘯いてはいるが、なんだかんだで人から認められたいというかわいい気持ちがひねくれて、性格の悪さとなっているような気がする。

 

なんだかんだ言っても、頑張っているねと認められたいのだなと思った。まじめに考えてみると、とてもかわいい性格の悪さであると感じた。