川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

愚痴

自分の抱えている感情の中で、言ってもどうしようもないものは一般的に愚痴と言われる。ここに書かれているほとんどなど、論理的客観的に見せかけた愚痴であるのだから、少し感情面を存分にのせた愚痴を書きたいと思う。

 

最近前向きに女性と会うようにしているのだが、その中で少なからず感じるのは、自分のために生きる人が多いということである。これを表現したい。このために生きたい。誰かを幸せにしたい。そういう感情ではなく、自分という人生をきれいに卒なく楽しく生きるために、結婚相手というものを選定する。そんな意図が感じられる。対面したときに、この人の会話は自分を楽しませているかどうかを判断し、清潔感という用語で自分に害がないかを判定し、次に合うか合わないかを決める。その決まりきった問答の何がおもしろいのだろうかと思う。

 

論理から入るのは、非モテのかなしい性ではあるが、婚活を始める際にエーリッヒフロムの「愛するということ」という本を読んだ。1956年に刊行された古典的な本ということで、他の本を読み続けてきて、ここに書かれていることと似たような内容ではあったのだが、資本主義における人間の幼稚さについて触れている。神という存在そのものが、株式会社の取締役のような存在になっており、必要なときに自分を救う都合の良いものと成り下がっていることが書かれている。資本主義社会の中で、自分を高めるとは、自分への投資であり、自分の価値を高めることに重きを置かれる。誰も人を愛するという技術について、理解し実践することなく、自分以外の心理に対する客観性がないことに触れていた。

 

今の女性の容姿は良くなっていると思う。化粧品が良くなっているのか、エステに通っているからなのか分からないが、自分自身を飾り付けることに涙ぐましい努力をして、表面的な会話を続ける話術を習得し、料理や旅行や趣味などなんとなく耳ざわりのない話題を人の内面に触れずに、きれいに話す。それは、自分にとって良い男性に選ばれるための戦略である。そういうものを昔から女性に対して違和感として持っていた。

 

女性と相対して思うのは、人を幸せにしようという能動的な意識はあるのだろうかということだった。一見すると、相手のためを思って言っているようにも思えることなのだが、それは自分の庇護欲であったり、優越感であったりと、自分のために言っているように聞こえる言葉であると感じることがよくある。容姿をよくするのも、きれいな話題を話すのも、自分の利益のためとしか思えない。

 

別にそのこと自体を悪いと思っている訳ではない。人間であれば当然自分の利益のために生きることは、至極真っ当なことである。ただ、いただけないと思うのは、自分の意識を誤魔化して、さも人のために生きていると美化している、そのねじれた心理である。夏目漱石虞美人草には謎の女という女性が出てくるが、感情と発言は別のことをいう女を謎の女として登場させている。息子に対して世間体があるから出ていくないといい、常に自分の感情とは反対のことをいうことで全てを煙に撒いている。

 

ただ、こう思うのは自分が男だからである。人に対しての優しさであったり、愛であったりというのは、人それぞれ違う形として現れる。その表現方法にはいろいろなものがあり、誰かのために美しくいると言うのも立派な愛情であるのだとも思ったことがある。

 

前に男性のリアルと女性のリアルは違うという話を耳にした。男性にとってリアルであるとは、汚いものを露骨に顕すことである。漫画やアニメにおいて鉄骨の錆や、コンクリートのひび割れを緻密に描くことで、リアルというものを表現する。汚いおっさんや年老いた老人をそのまま登場させ、その人にもその人の人生に見合った人格を与える。対して女性にとってリアルとは、純化することである。少女漫画に出てくる登場人物は、主人公の女性も含めて全てが美化されており、汚いものを除いた純粋なるものを表現することが多い。登場人物は全てが、イケメンが美女であり、超能力を持っているとも思えるほど万能で、欠点すらもその人のギャップを示すだけの道具として使われる。汚いものを取り除いて、良いものを残すことが最もリアルな表現なのであろう。

 

それは興味深い違いである。自分のやり方は過度に男がすぎるのであろう。自分の心に嘘をつけないという心理が根本にある。相対する人に対して、数十年後も同じようにできないと思ったことをしたくはない。だからこそ、欠点を先に示す。それが最もリアルだと思うやり方だからだ。だからこそ人との付き合いは長い。最低限をわかりやすく示すことで、そこから良さを見せる方法を採用するため、最初はよく分からない人だと認識されることが多いが、最初の印象よりどんどん良くなっていき、基本的に印象が悪くなることが少ないため、関係性が長く続く。対して女性は、最もきれいなものを見せることを重要視する。相手に対して、良い印象を持たせ、その分相手からも良い印象を感じ取れることを大切にする。そうしていくと、男にとって誠実さとは、汚さを見せることであり、女にとって誠実さとは、きれいさを見せることである。

 

こう考えると、違いは時間的感覚なのであろう。自分は気が長い質であり、寛容であるから、何事もロングスパンで考える。それに対して、女性は美という概念に殉じているからか、刹那的に生きているように感じられた。ロングスパンで考えていくと、大切なことは成長であり、齟齬を少しずつ埋める作業である。自分を省みて違うと思ったことは改善していく。対して刹那的な考えでいくと、大切なことは不快感のなさである。相対する人に対して、不快に思わせることは、それだけで罪であり、美しさを見せるというのは確かに優しさである。視点的に考えていくと、男は遠くを見ており、女性は近くを見ることに主題を置いているのであろう。これは、役割の違いであり、生まれ持った機能の違いであると、いうことができるのかもしれない。

 

真面目に本を読んで勉強し、愚痴を突き詰めて、考え方の違いについて触れてみた。愚痴というのは、心の中に芽生える違和感であり、何かに対する諦めであり、自分と人との違いであり、新しい気づきでもあると思った。真面目に考えてみて、少しおもしろいテーマであるなと思ったので、これからもふとした拍子に考えてみたい。