川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

上昇志向

よくわからない感情の一つに上昇志向がある。人を切り捨てでものしあがる。よく聞くセリフではあるのだが、あまり周りでそういう人をみたことがない。昔は、人の数が多かったから、自分の存在を示すかのように、上にいくことにより自分自身を証明したのだろうか。今は例外的な平和な世の中で、誰かと争う必要は無いから、上に行ってまで自分を見せつける必要は無いのだろうか。時代時代で見られる、持て囃される感情の違いについて、ちょっと考えてみた。

 

自分に上昇志向がないのは、ある程度自分という存在を認められたからなのだと思う。昔から、割となんでもできて、束縛もされることなく、自由に生きてきた。フロイトの考えに沿ってみると、抑圧された自我というのは、ときには神経質的に人を縛る鎖でもあるのだが、それを乗り越えた人からすると、大きなジャンプ台となる。自分自身おもしろい人に囲まれ、誰よりも平凡であるというコンプレックスを抱え続けたからこそ、それに抗う形で反抗を続け、おもしろい人であろうとした。抑圧された自我というのは、少なからずバネを抑えつけてるようなものであり、常にエネルギーを抱えているに等しい。それを主観的な方向性で正か負かに使うかによって、一般的に成功か失敗という呼ばれ方をする。

 

今、おもしろいのは韓国ドラマである。過去からの風習や圧倒的な権力、がんじがらめのルールに対して、主人公が自由に華麗にときには泥臭く失敗して、仲間と共に、既存の枠組みを取っ払う。それは、大概の物語で変わらない。それをおもしろいと思うのは、現状の自分が生きづらさを抱えており、そこに共感する部分が大きいのだろう。韓国ドラマでこういうおもしろい物語がたくさん生まれるのは、それだけ抑圧がされているのだと思う。

 

日本人とはとても奇怪な民族であると思う。どんなときにも微笑をたたえ、感情を表に出すことを極端に避ける。滅相もございません。つまらないものですが。大変恐縮ですが。自分自身を貶める言葉を使わないでしゃべることは難しいくらいである。日本人とは、昔から極端に復讐心というものを持つことができない民族である。戦争でアメリカに負けて対面した時も、適切な敬う言葉でしゃべるように苦心するほど、負けたときの引き際が潔いものである。昨日の敵は今日の友。そんなお互い斬り合っていた相手に対して、なんの抵抗もなく立場のみで、敵にも仲間にもなれるのである。武士道なんて、かっこ良さそうに見えるシステムを作り出したのは、誰よりも復讐心を持てない日本人に、制度を守る厳格さを利用して、うまく人心を掌握する都合の良い枠組みを作ったのだということもできる。

 

ルールというものは、できない部分に対して宣言として旗印的に作られることが多い。皆が当然のようにできることならば、そこにルールを作らない方が、管理するコスト少ないからだ。日本の武士道にしても、インドのカースト制度にしても、アメリカの独立宣言にしても、その国々の根源的なルールは、逆に言えば最もその国の弱さなのであるとも言えるところがある。弱い犬ほどよく吠える。えてして、表面的に現れる姿勢と内面は、全く反対であることがよくある。岸田秀のものぐさ精神分析で著者の根本的な発想は、個人の内面と集団の行動原理は同じ挙動をするものだというおもしろいテーマの設定があったが、今回の発想もそれを起点にして考えている。福岡伸一動的平衡でも、分子レベルで起こりうる現象は社会一般にも当てはめることができるという考えを持っており、発想としてはおもしろく、色々な切り口でこの世の中を考えることができる点で、とても有用な発想である。

 

上昇志向とは、下流に貶められた実感に対する反抗であり、束縛される側から束縛する側への移動に過ぎない。砂の器は、犯罪者の息子は犯罪者になるのかという、自分自身と向き合うの物語ではあるのだが、結局人は変わらないのでは無いかという、なんとなくそんな気もする事象をリアルに描いている。それと変わるとことなく、下流に貶めらる危機感を持った人間が、上流に行くために、周りを押しのけて上流にいくことで、下流の人々を支配するという、循環とも呼べる輪廻を有する。

 

そして今はその認識が薄い。人を大切にしなさいという教育を施され、自分自身も1人格として、尊重される。それは今まで苦しみ傷つき戦争をして、その上で勝ち取った立派な成果なのである。下流に甘んじようとも、1人の人間として食べる物に困らず、娯楽を存分に楽しめる事ができるこの世の中においては、特に自分自身の尊厳を揺るがすほどの抑圧はない。だから上昇思考が薄いのだと思う。

 

もう一つ個人の内面と社会の挙動が一致するという見解から、自分の状況を考えてみたい。最近女性と積極的に会うようにしている。その中で、上昇志向とも取れる女性に会うことが多かった。特に審査が厳しいマッチングアプリでは、ある程度男側のステータスを絞られることもあって、女性は容姿を厳粛に審査される。容姿というものは、化粧や見せ方によってある程度矯正できるものではあるものの、天性として与えられたものが多く、そこに磨きをかけることにアクセルを踏むことができるかは、どうしても資質があるかどうかによってしまう。女性社会の評価は残酷である。かわいいとか美人という天与の性質は、いい男性に会えるかどうかの大きな分かれ目であり、それによって極端に社会の評価が変わる。とても残酷である。

 

そういう意味で自分は呑気である。少なくとも、色々なことに頑張ってきたという自負があり、一目会った女性に否定されたところで、自分自身に対する評価というものが変わらないくらいには、自信があり揺るぎがない。だからこそ、弱みも存分に見せることができるし、格好の悪さもさらけ出すことができる。愚痴というコラムにも書いたが、刹那を生きる女性にとっては、そんな考えは甘いのだろう。一時期女性蔑視として叩かれた考えではあるが、子供を持てるまでの適切な年齢があり、それまでに常に評価される続ける視線を浴びせられたその抑圧の対価としては、いい男を見つけるため独善的に振る舞うというものは至極真っ当な話である。平和な世の中では、両性ともに中性化されるという話を聞いたことがあるが、女性はその抑圧がある分、男性的な上昇志向を持ちうるのは、それはそれでそうかなと思う。

 

人は皆誰かから認められたいのだろう。皆が皆何かしらの部分で、抑圧を感じコンプレックスを抱え、それを乗り切るために、力に変える。それは確かにいい方向である。激動の物語は、人を惹きつけ、人を誘惑する。何かの選択を行う理由として、自分自身に対して正当な物語と認識できるように決断を行うことは多い。

 

ここでの主張は2点である。個人の内面と社会の挙動はリンクする。人の内面と表面的な行動は相反する形として現れる。その2つの考えは何かを考える補助線として、非常に有用なものとして今現状では思えている。もうちょっといろんな方向で検討してみて、その理論に正当性があるのかどうか、ここでは上昇志向という現象に対して考えてみたが、色々観点から検証してみたい。