川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

意味

自分の特徴はおもしろさを求めることにある。自分にとっておもしろさとは、俯瞰的に見た時の違和感であり、他の人との違いであり、多種多様なものである。ある意味それは自分自身に大喜利を課しているようなもので、今の状況や感情や立場をキャッチーなフレーズで言い表すことができれば、「おもしろい」として成立するという、不思議な構造を持つ。飲み会の場で、「これってなんかおもしろくない?」と笑いながら問いかけできれば、全てが「おもしろい」の一つで済ませることができる。辛いことも、悲しいことも受け入れることができる、独特な合理化手法である。その合理化していく流れと考えについて詳細に触れてみたい。

 

今は周りに人が少ない中で、馬車馬のように働いている。週3で漫画喫茶に泊まり、言い方は悪いが使えないじいちゃんと仕事をしている。当然追い込まれるその状況に不満はあるのだが、あまり気にならない。週3で漫画喫茶で泊まって働いている時点で、自分にとってなんかおもしろい出来事であり、その中で使えないじいちゃんに、もっと働いていくれと懇願しているその状況は、なんかもっとおもしろいことだからである。だからこそずっと笑顔である。不機嫌なまま誰かと相対することで生じる不利益というものは、自分の功利的・合理的な性質上容易に経験・想像ができるもので、笑顔でいないという選択肢はあまりないのだが、それ以上におもしろい立場に立たされていると認識し、その状況をドヤ顔で人に語ることで、その不満が解消されてしまっている。

 

ここでいうおもしろいとは、爆笑するfunnyというよりは、にやにやするinterestingに近い意味合いである。その二語を分けるのは状況の見方に客観的見地が入るか否かである。客観的見地に立脚するinterestingなおもしろさの中で、他と違ければおもしろいということは、ほとんど全ての事象に当てはまる。そもそも自分の置かれた状況を俯瞰的に見渡す人が少ない世の中では、もうその時点で他とは違うということであり、そんなわけのわからない存在がしゃにむに愚直に何かを行なっているだけで、自分の中ではおもしろさとして成立する。

 

ここで一番重要なのは、そのおもしろさを人と共有することである。頭の中でいくらでも考え、ほくそ笑むことはできるのだが、それを誰かに伝えなくては、得した気がしない。自分のおもしろい経験によって人を笑わせるという自己承認だか、役に立ったと自分の中で腑に落ちるからこそ、不満に対する溜飲が下がるのである。周りを見てみても一般的に割とこう思う傾向はよくあるのではないかと思う。だいたい忙しい人であったり忙しい時に飲みに行くことが多いのだが、こんな頑張っているのに誰にも認められないその状況を笑って誤魔化すために飲み会がある。飲み会の意義とはそこにあるのだと思っている。

 

そう考えていくと、人心を掌握するために最も重要なことは、相手に意味を与えることなのではないかと思う。自分の辛い経験を笑いながら話し、相手を笑顔にした時点で自分自身の経験が報われる気がするというのは、逆に相手からすれば、辛い経験を聞いて笑ったという時点で、辛い経験を話した人の役に立っているのであり、何かを与えているという意味で、何かしら得した気分になる。それは互いに、あなたのおかげで今日も生きていけるとの言葉を伝えているのと、相違ない。それは、相手という存在に意味を与えているということに他ならない。

 

ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」という本は、精神科医である著者自身がアウシュビッツの収容所を経験し、過酷な状況を生き延び、そこで見たことや自分の感情を書いている本ではあるのだが、収容所の中で生きていくことができる人とそうでない人との違いについて触れていた。物理的に毒ガスにより死を迫られる状況については致し方ないが、想像を絶する過酷な環境の中で、病気にならず気力を保ち生き続ける人が持つ思考の共通点について以下のように述べている。

「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある。」

極限の不衛生でご飯も満足にない状況においても、自分の未来に希望を持ち、意味を持って生きる人は、自分の傷の手当てや体の汚れを落とす、水を節約するといった、今できる生きるための最善の行動を自発的に熟考しながら行う。そしてその行動は、生きる確率を数%でもあげることができ、その生きる理由によって、「夜と霧」という今でも読まれ続ける本を出版して、人々に影響を与えている。だからこそ、人間関係を円滑に行う大きな要因は、その意味を相手に与えられるかなのだと思う。

 

戦争から帰ったら家族が待っているから。あいつを一人ぼっちにすることができないから。一般的に死亡フラグというセリフではあるのだが、あくまでそれは展開的に激動の御涙頂戴的な物語を用意しやすいから、そのセリフを言わせその人を死亡させているが、現実においては生きるための大きな力となりうる。逆に妻に先立たれた夫であったり、自分のために生きている人というのが、難病の際に生を諦めることはよく聞く話であり、案外他人を理由にした方が、生きる力を持てるというのは想像に難くないであろう。他人を生きる理由にする様々な見地については依存・自立・願望・共存・惰性・諦め・脅迫など色々な観点を挙げられるが、ここでは話の趣旨からはずれるため触れないことにするが、気をつけるべきポイントである。

 

人々の人間関係がうまくいかない理由があるとすれば、それは全てを商品と見なしているからである。この世の中では、自分の商品価値を高めることに重きを置かれて、他人もまた自分の商品価値を高めるためのアクセサリーである。モテること。学歴がいいこと。外見がいいこと。美人な彼女がいること。イケてる友達がいること。役職を持つこと。全てが自分に箔をつけるための理由であり、人に何も与えることができていない。ステップアップをしていくと、今までのアクセサリーは不要になり、新しくかっこの良いものを欲しがるようになり、人間関係を切る切らないといった無限地獄のような戦々恐々とする怨嗟に巻き込まれていく。だからこそ重要なのが、自分の隣にいてくれる人に理由を与えることなのである。

 

大切なことは「あなたが隣で生きていけるだけで、おれは生きていける。」である。漫画の聲の形に出てきたセリフの「おれが生きていくのを手伝ってほしい。」でもいい。互いに生きる理由を作ることのできる、不思議と力の湧いてくる言葉である。でも、この言葉を言わなくてもいいと思う。男同士でいうことはほとんどなく、女性相手にたいしてもいうことは稀である。助かったよとか、ありがとうとか、そんな些細な言葉でも感じ取れるものだし、ただ笑っているだけで、十分理解できるのではないかと思う。それは相手に対して、生きていてほしいという願望であり、自分が生きる理由であり、人と人とを円滑に繋ぐ言葉である。

 

幸いなことに、いつでも飲みにいくことのできる友達が、周りにいる。それは自分が辛い状況を生きるために必要な存在であり、そしてそれを相手も必要とされているとなんとなく感じているから、なんの抵抗もなく付き合ってくれるのであろう。人に対して高圧的に出るということも無感情で相対することも、人間関係においての一つの解ではあるのだが、何かをよくしたいと思うのであれば、相手に意味を与えるということもやってみてはいかがかと、ふと思った。