川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

怒り

最近怒りに対して折り合いがつかないと感じている。怒りとは自分の無力感に対して、行き場のない感情が出るためだと聞いたことがある。たしかに無力感は感じている。やる気のないじいちゃんと二人で働いており、逃げ場はなく、否応なしに仕事を引き受けざるを得ない。自分の方が立場が上のこともあり、大人になって、適切に指示をし続けなければならないのだが、どうしても、言葉が出てこない。たぶん嫌いなのだと思う。そんな意地を張ってもしょうがないので、折り合いの付け方について考えてみたい。

 

自分が怒るのは、困っている人を助けるという価値観を持っているからである。ある意味でそれは、困っている人を助けない人を排他的にみるという点において、困った人を助けない矛盾を持つ。基本的に人は頑張る意識を持つというのが前提であり、ある程度一般的な見識を持って仕事をしている人とであれば、何の支障もないのだが、うちの会社で初めて仕事をする、独身の夢もないじいちゃんとでは、その価値観は適用できない。ある程度、考えを一巡することで、じいちゃんの擁護も考えてはいるのだが、それを補ってもあまりあるほど、救い用がないと思ってしまう。自分が何が好きで、何が嫌いかをある程度はっきりさせないと、いつか歪みが噴出するような気がするので、その救いようないという気持ちは抑えるべきではないと思っている。

 

じいちゃんの強さはある意味で無敵の人であることである。慢性的に人不足な建築業界においては、いるだけで成立するという状況は結構成立する。派遣という仕事の性質上、嫌であれば次の職場に行けばいいだけである。そういった状況にあって、強さとは人の感情を無視して、自分の感情のみに振り切ることである。自分で自分の限界を決めて、できないことはできないと言い続ける心の強さを持ちうるのであれば、それ以上何かをやる必要はない。必要に駆られた、責任ある立場のものが、それをやるのだから。

 

その視点はなかなかに盲点である。人は努力しなければならないという、刷り込まれた価値観にある存在にとっては、頑張らないという選択肢はあまりない。頑張らなくても、頑張って得るその対価と、頑張らないで失う信用といったものを無視できるのであれば、それは正しい選択であろう。そこに、期待がなければ、喪失もない。年季が入った60歳だからこそ取れる無敵な戦略である。そんな人生の何が楽しいのという問いかけは一切無駄である。その問いかけに心が揺れ動くのであれば、少なくともそんな生き方はしてはいない。自分の対応方法が間違っている可能性もあるのだが、経験上9割の人とある程度はうまくいっていることから、じいちゃん自体が悪い可能性は高い。

 

そういった状況下では、どのようにすべきだろうか。自分よりも劣った存在として、一段下に見ることで、溜飲を下げるべきなのか。それとも、興味深い存在として対象を観察するべきなのか。はたまた、それを吹き飛ばす勢いで、明るく接するべきなのか。いっそのこと、格下の存在としていびるべきなのか。どうしても答えが出ない。普段ある程度の距離感を作れるほどには器用さを持ち得たのではあるが、自分の中に怒りが溜まっていくのを感じる。

 

思えば、それは自分の実生活に不満があるからなのだろう。独身として人生を謳歌できる状況にありながら、なすべきことを成せていない。つまらないことをつまらないままに、我慢してやっているという思いから、怒りに変わっている気がしてきた。今までであれば、そんな人の存在をそもそも気にかけることはなかった気がする。そう意味では、自分の状況を楽しめていない私生活の状況に問題があるのだろう。前までは、アホみたいに飲みに行き、愚痴を言い、知らないことを経験し、忙しかった。そう意味では、暇なのだと思う。やるべき目標も持たず、ダラダラと生きているから、同じように暇そうに生きている人の一挙手一投足が気になるのだ。

 

やはり文字として書いていくと、わかることがある。何かを書いていくと、連想ゲームのように、発想が広がっていく。だいたい考えているだけだと、同じことを考えてしまいがちである。そこに文字として書いていく作業を入れると、次のことを連想しなければならないという強迫観念からか、何か違うことを考える。そうすると、違う発想がひらけていく気がする。ここで分かった、自分の人生を楽しめていないのはたしかにそうだなと感じる。書くという作業は、決して悩みを解決はしないのだが、違う状況として、認識させてくれる。とても、尊いことであると思う。

 

今必要なのは、今の状況で楽しめるなにかである。昔はだいたい酒を飲みにいっていれば、事足りた。今は、仕事の責任も増えてきて、なかなかにその状況を共用できる人も減ってきたから、不満も溜まるのである。だとすれば、必要なのは、共有できる誰かか、それを吹き飛ばせるほどの、楽しいことだ。それがわかるのであれば、後はそんなに難しいことではない。なんにせよ、楽しめる場を見つければいいだけなのである。それを見つけるための行動か、もしくは何かを楽しもうとするマインドセットの仕方に問題があっただけなのだから。

 

そう考えていくと、じいちゃんは被害者でもある。自分の現状に対する不満の吐口として、より立場の弱く、わかりやすいものが、選ばれているに過ぎない。やはり案外自分のことはわかりにくいものである。他の人のことであれば、雰囲気を見て、わかるようなことなのに、言葉として書かないとわからないとは思わなかった。現状を楽しむということに対する無力感と言われると、たしかにそんな気もする。世間で言われているものも、やはり一考の余地がある。

 

初めて入ったバーという環境の中で、ひまなので。怒りという感情について、少し書いてみた。ある意味で、つまらない状況をつまらなく生きる社会人のような生き方をしていると認識できた意味で、とても有意義である。自分の中に存在するおやっ?と思う感情を持てる時間はとても必要なのだと感じた。