川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

グルーブ感

音楽を聴いていると、たまにどうしようもなくなるくらいリピートをする曲がある。ラップでフロウと呼ばれる波のような乗り心地のある曲である。あまり歌詞がなくても構わないが、敷き詰められた歌詞に、グルーブに乗っているような響きがあるとなおさらいい。ただ聴いているだけなのに、首をふりリズムを取ってしまうこの感覚はいい音楽に出会ったと、思わせてくれる。この曲に乗るという感覚について少し考えてみたい。

 

物理学的に、建物には固有周期というものがある。棒を上から摘んで揺らしたときに、自由落下により行ってから戻るまでの周期がある。その速さの倍の周期で揺らすと、棒はちょうど半分のところで2つの波を描いて揺れる。棒の剛性と長さと重力からからきまるその周期を固有周期という。建物にもそれが適用されて、地震の波の特性上綺麗な周期というものはあり得ないのだが、地震の周期と建物の固有振動数がぴったり揃うと、建物は綺麗に揺れる。その地震の波を間延びさせるのが、免震装置といえば、感覚として理解できやすいであろう。

 

これは音楽でも変わりなく、音の周波数を対数目盛上に12個に等分したものを音階と便宜的に定義しており、波の周期が等分であるドミソの和音が綺麗に聴こえる理由などもここにある。波としての周波数が合うから、心地が良いのである。これは単音に限った話であるが、全ての現象には波がある。音の変化にも、人の感情にも、そもそも海で生じる波というものにも、心臓の鼓動にも。グルーブ感とはその波を掴んで、共振させるという事なのではないのだろうかと思う。

 

波の基本は周期である。音楽に代表されるように、ビートと呼ばれる拍があり、その周期の波の中に、音楽としての揺らぎを作る。一定のリズムを重視するのは、それは鼓動であり、重力による自然現象の基本であり、最も自然なベースとなるからである。どんな現象も基本となる周期は逃れられない。大学で波動方程式にも関連するシュレディンガー方程式を学んだが、最小の量子という物質が次の点に移動する確率を波動方程式として波として捉えている。ジョジョの奇妙な冒険で、美とは自然に帰着するものであり、最も美しいものは、自然的な必然のみから作られた黄金長方形をあげていた。

 

今ここで書いている文章というものも、ただのグルーブ感で書いている。半可通な知識でなんとなく書いているため、それぞれの事象について深掘りはしていないのだが、ぽんぽんとリズムよく放り込まれる複数の知識をただ同じように、波に乗せて書いてるに過ぎない。特に意味などない。重要なのは周期であり、同じ拍子で刻まれる調子こそが最もグルーブ感を出せるものではないかと思う。

 

好きな小説家に浅田次郎がいるとは何度も触れているが、天切り松の闇語りに出てくる主人公は、刑務所にいる囚人に対してさながら講談家のように物語を始める。さあさあよってらっしゃいみてらっしゃい。せげんなんて下衆の下衆のやることでぃ。切った張ったの大正という時代の中に、本当の男と女の関係というものをとくとみておくんな。と小気味の良いリズムで話をする。そこに意味を載せるだけで、不思議な説得力を持って相手を翻弄することができる。あまり聞かない不思議なテクニックである。

 

語り口に音楽的な要素を入れることは、たまに聞く。オードリーの漫才は、元々好きであった継ぎ目の少ないラップ的な要素を入れているからこそ、淡々とした語り口の中に、春日というツッコミを入れることで、盛り上がりを作っている。たしかにリズム感を感じる漫才である。谷崎潤一郎文章読本の中で、口にしたときに音として流れる文章のリズムの重要性を語っていた。自分自身もたまに、つっかえる文章から読めなくなる本というものがあるから、十分に腑に落ちる文章である。

 

理論と感覚。これは相容れない両極端のテーマである。音楽を作る際の天才と呼ばれる人々は、感覚に従って純粋な感動を音にしているのであろう。ただ自分はそうでない。理論と呼ばれるものの助けを得る事でしか、歩を進めることができない。あるものを使えばいいという感覚では、認識するということが最も尊いことである。他の事象のつながりと他の事象のつながりを自分の言葉で認識すること。これこそが今自分が思う、最も好奇心を満たす事象である。

 

そもそもこのグルーブ感を感じたのは、ラップバトルの動画でかしわという不思議なラッパーを見たからだった。相手と言い合いをすることが普通のラップバトルの中で、ただ一人気持ち良さにも似たグルーブ感のみで戦っていた。掛け合いの妙や、韻を踏むとかそんなテクニックを吹き飛ばす圧倒的なグルーブ感の前では、言葉に意味なんかないと、その圧倒的な説得力を持って会場を沸かせていた。とてもすごいことである。

 

わりと自分の描いた文章を推敲する方である。流れがとても気になってはいたのだが、即興的な事にもわりとのりのような意味があることがわかった。誰か人としゃべるときにも、文章を書くときにも、波に乗せるという感覚はとても有用である。自分の中にたしかに存在する、リズムという拍の中で、少したての波の使い方と拍の使い方を意識してみようと思った。