川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

衝動に支配される世界

最近若者を手厚く気遣う熟練の人々という構図をよく見る。すぐ何かあればパワハラと認識され、過剰なほどに優しさを意識して接する。わりと上の世代と関わることが多いのだが、その丁重さにはむずむずとしたなんとも言えない感情がつきまとう。そのなんとも言えない感情について、少し考えみたい。

 

前に同じ会社内の違う職場を見学した時のことである。そこの三番手の人が職場の説明をしてくれて、一見してうまく行ってるように見えた。たまたま同期がそこにいたので、飲みに行こうと誘われて、一緒に飲みに行くことにした。そこで話をされたのは、若手を中心としたグループから二番手の人をモラハラという状況で、人事に訴えているということだった。その同期は最近転任してきて、あくまで第三者的におもしろがるという立場で、酒の肴という気楽さで話をしていた。

 

そういう状況に立つと、ひねくれている自分としては、あえて巷で言われることの逆のことを言いたくなる。モラハラをしているその二番手の今まで仕事をしてきた大変さを擁護し、数年働いただけの若者の身勝手な振る舞いを指摘し、たかたが言葉の使い方が下手というだけの上司の考えもわからないで、一方的に反抗することに対して、組織として結果的に損をするという話をした。あまりそこまで納得はできないようではあったが、理不尽さに耐えることになれる同期としても、なんとなく理解はしてくれた。

 

わりと万事が万事こんな感じである。今の時勢すらも読めないで、気遣うことをしないその上司も情けなくはあるのだが、自分の感情こそが世界の全てで、自分の外にある世界を想像せず、自分の認識できる範疇で快不快を決める、衝動的な若者にも辟易する。どちらの世代もなんとなくわかるから、そういう立場にあった時誤魔化すのは上手いが、ある程度世代が離れた集団が衝突すると、こういうことになるのかとしみじみ思った。

 

そういうことを考えていたときに、表題の本を読んだ。書かれたのは2014年付近であり、ちょっと古いのだけども、アメリカの1950年代から2010年くらいまでの、社会の移り変わりを金融業界や経済・政府の政策をメインに、個人が全体主義から自己至上主義に移り変わるその変遷を丁寧に描いており、今の日本とも相通ずる非常におもしろい本であった。

 

そこで描かれていたのは、会社の役員への報酬が株に変わったことや、投機家が会社の転売を進めたことにより、会社自体の存続よりも、株価の上昇につながる短期的な利益にのみ注力することで、事業そのものの生産よりも、金融的な価値を市場のみで判断する、短期的で非生産的な差益を得ることによるテクニック的な金の生み出し方の隆盛であった。そこから、個人もサブプライムローンと称される、不労の不努力による利益の獲得をした世界をもてはやすようになり、個人個人の衝動的な欲望を充足する商品をマーケティングする企業が強くなることで、個人の自己感が肥大化し、結果として社会へのつながりが分断化・階層化して、自分の世界を全能的に理解する人々が多くなったことが書かれている。そして、同じ価値観でのみ集まる集団というのは、自分に盲目的な自信を持つようになり、人々は極端な意見が多くなるというのも、とてもおもしろい考えである。

 

全く日本も同じである。昔からどうしても、一方的に自分が正しいと思う意見に頷くことができなかったのだが、それはこの極端な自信を嫌っていたからなのだと思う。自分自身が極力いろんな世代と交流していただけに、同じ世代でのみ集まるその考えの極端さに、危うさを感じていた。だから、人の愚痴を折りたがるのである。愚痴として、自分はこんなに頑張っているのに、こんなに認められていないと言われても、そんな狭い了見で語られる言葉など、無知の知への敬意も、人に対する敬意も、何もないよと言いたくなってしまう。とても性格が悪くもありながら、ひねくれた優しさでもある。

 

そう考えると、これは自分にとってチャンスである。必要なのは翻訳家である。理不尽を経て成長したため、上の人たちの気持ちがわかる。俺強えの異世界漫画も好きなため、したの人の気持ちもわかる。この状況で必要なのは、世代を行き来できるトリックスターである。内田樹の7人の侍で、三船敏郎扮する菊千代の重要性を説いており、トリックスターとは2つの領域をまたがるものであり、侍でかつ農民という二重性を持つ人だからこそその集団をまとめることができたと言っている。

 

今必要とされているのは、この立場である。上の愚かさも、下の無知さもわかった上で、上の苦労も、下の孤独さも感じ取れる。その2つの領域にまたがる存在こそが、必要なのだと感じる。案外これだけ技術が進歩したとして、飢饉や疫病を乗り越えたとしても、いろいろな苦悩は無くならない。全てが自動化し、人間という物質が全部解明されたとしても、案外不平不満は残るのではないだろうか。そんな状況では、違う世代をまたがる架け橋的な役割こそが重要になってくるのではないか。その架け橋の掛け方をもう少し考えていきたいと思った一つのきっかけであった。