川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

痩せ我慢の説

福沢諭吉勝海舟に出したとして、知られる痩せ我慢の説という言説がある。勝海舟が、江戸城の開城に際して、反抗を見せることなく明け渡すことにした、顛末に対しての福沢諭吉の批判である。その中で、「立国は私しなり、公に非ざるなり。」と述べている。国という概念を持たすことができるのは、私的な想いであり、公的に認められているから、やっていけているのではない。上に立つ者の、この国という概念を守るという決意によって、成立しているという考え方である。だからこそ今までの、国というものを支えてきた人間であるのならば、瘦せ我慢をしてでも徹底抵抗しなければならない、と批評している。

 

とてもおもしろい説である。普通政治家というものを公的な存在としてとらえて、その身の潔白を民衆が求めるのが昨今の世の中である。確かに、巷で言わんとしていることはわかるが、それとは逆にこの説の中では、上に立つものの責務があり、ルールを守るという決意があって、それで初めて民衆がそのルールに殉じるという流れになっている。あくまで帝王学的に、上の立場の人が上の立場の人に行った説ではあるものの、何かの集団を維持していくためには、そのルールを守るという事を心に誓った生身の人の存在が必要となる。

 

自分自身が不自由な生き方をしていると思った。あまり欲はないのであるが、欲望に忠実ではなく、常によくわからない自分のルールを守っており、そこから逸脱した行動ができないことが多々ある。なんでだろうと不思議に思っていたのだけれども、この痩せ我慢の説をみて、自分自身がずっと瘦せ我慢をしていたのだと気づいた。年の割に老け顔で貫録があるから、仕事の面でいろいろいうことを聞いてくれるのかと思っていたけれども、だれよりも自分が作ったルールを勝手に自分で守るという決意が人よりも強いからこそ、そのルールにほかの人も暗黙のうちに乗ってくれていたのである。

 

内田樹のブログにおいて、ゴッドファーザーとは、家族の瓦解を描いた作品であると言っていた。2人の主人公のそれぞれの観点では、シチリアの掟のみを行動の原則にするヴィトーというドンと、家族に対しての感情や共感という原則をもったマイケルの2人を見ると、結果的に「家族のために死ぬことのできる」ヴィトーと「家族を殺すことのできる」マイケルという構図が生まれているのだそうだ。その構図はよくわかる。自分自身があまり感情的でないのは、結果として生まれる主観的な判断のブレを嫌うからである。感情をもとに行動を決めると、行動自体に再現性が生まれにくい。その時その状況で感情の高ぶりや落ち込みがあり、恋人を捨てるか家族を捨てるかといった究極的な判断では適切に行動ができない。そして、何より周りの人が行動を推測できない。多分自分自身、そういう時は近いか遠いかで判断する。約束も先に決めたことを優先し、後からのものは後回しにする。物事の大小よりも、自分が守ると思ったことを優先する。よく考えていることがわからないといわれるのだけれども、その行動や反応だけはわかりやすいため、結果として行動規範が共有される。悪くない状況である。

 

最近の人は、感情に振り回されすぎな気がする。守ることは守る。その覚悟が感じられない。衝動に支配される社会でもあったが、今の世の中は個人個人の感覚があまりにもフォーカスされるきらいがある。あくまで一つの考えではあるが、重要なのは守りたいと思える規範であり、それを守ろうとする意志である。マネジメントの基本である社会に対しての効用こそが、会社の存続意義である。当然時代時代に沿った規範が作られるべきではあるのだが、2000年の間人間などほとんど変わってはいない。変わったことは、周りにあふれる機械であり、社会のスピード感であり、世界の近さである。

 

自分の直観的に何故だかやっていることは、よくある。えてして自分の合理的な性格が、総合的に利益を見込んでそう無意識に判断してやっているのだと思う。瘦せ我慢の説。自分の無意識的な行動を考えるにあたり、一つのガイドラインになりうる考えである。周りから見れば、むすっと何を考えているかをわからない自分を肯定してくれる、面白い概念である。