川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

愚痴2

最近の若者はと思うのは、自分自身の身も心も老いてきた証拠なのであろう。目の前にある事象をなんとか自分の中で無理矢理にでも飲み込ませるために、世代の差というなんとも変え難い大きな壁としてとらえるのは、仏教感でいう諦めが支配的な日本ならではの合理的な態度であろうか。しょうがないの一言で、自分を諦めさせるテクニックとしては、有効かもしれないが、原因と結果を追求する理系の立場とは相反するので少し考えてみたい。

 

最近思うのは、周りの人のことを顧みる人が少ないということである。それは言い換えれば、どれだけの物量の仕事があり、どれだけのことをしなければならないのか。そういった長期的なスパンで考えることはなく、自分の報酬に対して、それと対応する成果さえ出していれば問題ないと断じている人が多いということである。問題なのは、その成果を徹頭徹尾自分で決めていることである。

 

自分の成果を自分で決めるのは、良いことだとは思う。他の意見に振り回されることなく、自分が決めた方針で自分の生き方を決める。そう言われると、人間としてかくあるべしという気がする。ただ、それはひとりよがりに過ぎないのではないかと思っている。今までその場を形成してくれた人への敬意も、今持っている自分の環境への感謝も、なにも考えないその無知さと想像力の無さが好きではない。自分の一挙手一投足で、振り回される誰かがいることに気づかない鈍感さは非常にうらやましくあるのだが、結果として喪失するものの大きさも測り知ることは出来ないと感じる。

 

そういう意味では、素直な人が増えたなと思う。衝動に支配される世界という本の中でもあったように、自分の快不快を満たすことも、避けることも簡単な世の中で、他者の意見というものが不要になってきたのだろう。同質的な繋がりさえあれば、それ以外の感覚を弾いたところで、自分を満たす何かは手に入る。あとは小言に耳を貸さずに、心さえ動かさなければ、相手側が勝手に諦める。そういう時代なんだよという虚しい言葉に抗うことのできる人など、本当にごくわずかである。とても賢い。自分がなれなかったやり方をとても卓越した方法で実践しているから見事である。

 

いろいろ考えてはみたが、やはりその感覚の違いを埋めることは無理だと思う。どう考えても自分自身を犠牲にする、今の自分の働き方はおかしいと思う。その状況で得られる達成感や信頼感など、若者からすれば高級な寿司と変わりはない。別に食べれば、美味しいと思うけど、その対価を払ってまで食べる必要性がない。そうであるのならば、わざわざ苦行に付き合う必要などない。人は変わることができるのかというのが最近の自分の中での大きなテーマであるのだが、これは好き嫌いの話であり、気質の話であり、言っても詮ない話である。

 

必要なのはただ生き様を見せることなのだと思う。上の人たちを見て、そう生きようとしないのは、そこに楽しさがないと根底でわかっているからだ。何かを諦めて生きる人をみれば、そこに憧れる理由はない。日本的な美徳である、犠牲心にのみ訴えかけるのではなく、こうなりたいと思えば勝手に真似をする。今の現状を憂う前に、論理で何かを固める前に、まず自分が楽しく生きなくてはならない。まずはそこからしか始めることは出来ないかなと思った。