川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

言語化

言語化をすることのおもしろさの一つに、複数の世界をつなげるということがある。文学など、特定の人が書いた、特殊な条件における、特異な事件を描いているだけである。ただ、そこに書かれているものの焦点や、書き方に注視することで、自分とは違う世界の違う認識方法を知る。志賀直哉が書いた「城の崎にて」において、蜂が体を掃除して、飛び立っていく描写が描かれている。小気味のいいリズムとやわらかい表現を使用し、丁寧に蜂の様子を描いているのだが、その動きが目の前に映し出されるようである。言葉が食べ物のおいしさを完全に伝えることができないように、言葉が完璧たることはないのだが、文字や口伝により、様々な情報が伝達されてきた。大人になっても子供の時の趣味を続けているが、むしゃらにやってきた子供のころとは違い、言葉として認識することで、理解を加速させることができる。純粋な子供のような吸収力はないのだけれども、違った楽しみがある。

 

自分の体の使い方を案外人は知らない。「考えるな感じろ」とキャッチーな言葉をうのみにして、理屈で考えることをあまりしない。本を読むのが好きで、漫画が好きで、ピアノが好きで、飲み会が好きで、数学が好きで、建築が好きで、柔道が好きなのが自分である。複数の世界を今でも持っており、それぞれがそれぞれに、言語を通して繋がっている。体の使い方というものに焦点を当てて、そこから重力というものの関係性についての他の分野での繋がりの一例を例示してみたい。

 

ピアノを弾いているときに、「アレクサンダーテクニーク」という骨格の使い方を体系的に書いている本を読んだ。鍵盤を弾く際に、指の先端に安定した力を伝えるのには肩甲骨と自分の体重を意識するというものであった。「ドレミファソラシド」と音程の違う音を違う指で、均等に同じ力で弾くためには、ちょっとしたこつがいる。何も考えないと、指先だけの力で弾いてしまいがちなのだが、手首を回すと指の稼働範囲を広げることができる。肘を使うと、指の先端と肘との向きをそろえることができる。肩甲骨を意識すると腕の重さを利用して、鍵盤を押すことができるようになる。体の体重を意識すると、腕の重さとプラスして体の重さもピアノに伝えることができるようになる。

 

ジョジョの奇妙な冒険第六部」のジョンガリ・Aがかっこいいことを言っている。

「筋肉」は信用できない。皮膚が「風」にさらされる時、筋肉はストレスを感じ、微妙な伸縮を繰り返す。それは、肉体ではコントロールできない動きだ。ライフルは「骨」で支える。骨は地面の確かさを感じ、銃は地面と一体化する。それは信用できる「固定」だ。

 

ピアノを弾く際にも変わりはない。筋肉は信用ができない。指先であろうが、腕の力であろうが、筋肉を使用した際の絶妙な力加減は、コントロールが非常に難しい。使うべきは重力である。論理は簡単である。「ドレミ」と弾く際、親指・人差し指・中指と順番に弾いていくのだが、先に示したように、それぞれの指の先端と肘の向きをそろえることで、作用点である指の先端と腕の重心の位置ををそろえることができる。腕全体にかかる重心を意識し、親指・人差し指・中指と都度腕全体を回していくことで、それぞれの指に同じ腕の重さが伝わる。体全体の傾け方により、そこに強弱をつけることができる。言われればそうかもと、納得がいくし、この体の使い方を意識して練習すると、かなり安定度合いが変わるのだが、このように説明してくれる人は少ない。

 

武道も同じように言葉で説明することができる。柔道において、相手を投げるためには、崩しが必要になる。崩しとは、相手の重心の位置をずらすことを言い、前に崩せば相手を担ぎ、後ろに崩せば足を刈れば倒すことができる。抜きという技術があるが、ひざから急に立つことへの支えを外すイメージを持ち、自分自身のひざを抜いてその瞬間的な重力の変化を利用して、相手の体勢を自分側に引き込むと相手の体勢は大きく崩れる。酔っぱらって記憶のない成人男性を持ち上げることの、多大な労力は知っている人が多いだろうが、脱力による自分の体重の変化を相手に即座に与えることができれば、それは大きな崩しになる。また、支えつり込み足という技があり、相手を前に崩したときに、相手の足首に自分の足をあてがい支点を作ると、簡単に重心をずらすことができ、立ち方のわからない人を容易に投げることができる。やって覚えてうまくいった感覚を調整していくという方法も悪くはないし、体育会的な根性論のノリも嫌いではないが、大人からの論理的な視点で、無駄な道のりを少しショートカットをすることができる。

 

いい建築とは何かと定義するのはとても難しいのだが、一つの視点から見ると力を感じる建物ととられることができる。丹下健三による代々木の国立体育館は非常に有名であるが、2つの柱を結んだ2つのケーブルがあり、そのケーブルに鉄骨の屋根の母屋をぶら下げることで、釣り天井を作っている。構造を合理化していくと、それぞれの鉄骨の部材の大きさは小さくなり、それに伴いケーブルと屋根の鉄骨部材のそれぞれの曲線が決まる。重力という枠の中での最大限の合理性の追求により、洗練された、軽やかな建物が生み出される。

 

ある程度重力というテーマに絞って言語の共通項をまとめてみたが、色々な切り口で、色々な世界を理解することができる。何かを突き詰めてやっていくと、ほかのことに転用できることなどいくらでもある。個性が重要というのは、その人が持つ独自性をほかのものでも、必ず生かすことができるからである。そんなときにおすすめなのが、言語化による記憶と、その記憶のアウトプットによる、他への転用である。世襲が根強かった日本では、専門的な考え方と一所懸命という姿勢が尊ばれがちであるが、今のIT化が進んだ世の中において、活かしやすいのは自分の専門を他に転用する独創的なアイデアである。独創的とは言っているが、自分が普段当然のようにしているものは、ほかの人にとって見れば、特異なことで、それを活かす方法させ見つけ出せば、金になったり、エンターテイメントになったり、誰かの助けになったりすることは多い。

 

4月は君の嘘

海外で弱った自分の心を奮わせるなにかを探しているときに、4月は君の嘘というアニメを見た。昔からタイトルを聞くことはたまにあったのと、自分自身ピアノを弾くのでとても興味があって見てみたのだが、平日の夜10時から見始めて、気づいたら朝の5時であった。このアニメを見て、なぜ自分が恋愛できないのかがわかった。

 

この物語はヒロインの女の子が、絶望に打ちひしがれた天才ピアニストである主人公の青年を救う物語である。伏線へのいい意味での裏切りが多い昨今の物語とは対照的に、4月は君の嘘というタイトルの意味が、早々にして容易にわかってしまうのだが、それすらも頷けるような、純粋な感情を描いた気持ちのいいアニメであった。「ピアノを誰のために弾いているの」「人の心に居場所を作れたかな」「届け」。自分を変えてくれた何かに対して想いを込めて、ピアノを弾く。その愚直で純粋な想いは、人の心を揺り動かす。灰色な世界をカラフルに変えることのできる、とても鮮やかな物語であった。

 

ピアノで最も重要なことは、音を聴くことである。自分の音の響きや、リズム、音程、それらを聴く力があって初めて、いい演奏とは何かを理解できる。ピアノにおいて響かせるとは鍵盤を叩くときの硬さと重さと速さに等しい。肩甲骨・肘・手首を連動させながら柔らかく使い、指の先端を固くして自分の体重を乗せながら押し込むと、凛としたいい音が出るようになる。ピアノは弦楽器であるため、そこに弦が見えなかったとしても、鍵盤を弾く際に緊張した弦をはじくイメージは必要である。なんとなくピアノを弾くのが好きだと思って続けてきたけれど、その響きに真面目に向き合ったのは、人の前で弾く機会があったからだった。人に聴かせるということは、自分自身が出す音と丁寧に向き合わなければならない。なにより音に何を込めるのかで、聞こえてくる音は多様に変化する。技術と込める想いが混じり合って、初めていい演奏ができる。

 

大切なのは、何かに込める想いと、それを伝えるための技術である。どちらかだけでは、うまくいかない。こじらせて尖っていた自分は、純粋な気持ちというものばかりを重視していた。自分は何をしたいのだろうか、それは本当にしたいことなのだろうか。そればかりを気にするが故に、人との間に壁を作っていた。自分が愛されているかを確かめるためだけの言葉や、孤独を紛らわすだけの態度、そしてそれらを無意識に行うその恋愛という行動には、どうしても心が動かされないと、いつも自分に対してもっともらしい言い訳をしていた。出来ない理由を作り出すことだけが、うまくなっていた。

 

このアニメのラストシーンで、「好きです。」と3回語りかけるシーンがある。相手の目を見て、はっきりと意思を伝えている。奇のてらいのない、卑屈さも尊大さも全くない等身大の自分自身の真っ直ぐな感情を伝えていた。とてもうらやましいと思った。

 

人生にただ一度だけ、本気で人に好きですと伝えたことがある。相手の目を見て言うのが怖くて、ただ純粋に好きですとメールで伝えた。人との恋愛の方法など、誰も教えてはくれなかったし、今でもよくわからない。その時も付き合いたいと思って言ったわけではない。なんとなく相手が好意をもっているのも分かっていたけど、その人の隣にいる自分をうまく想像できなかった。相手もそうだったと思う。ただ自分から溢れ出そうな気持ちを、相手に伝えたかった。その一心であった。とても懐かしい思い出である。

 

人の隣に居続けるためにも、技術がいる。それを技術と呼ぶのが適切かどうかはさておき、選ぶ会話の内容も、それを話す音程も、適切な間の開け方も、相手との受け答えの割合の適切さも、再現性があるという意味では、自分にとって立派な技術であった。好きだと言った自分には、十分な気持ちはあったのだけれども、その気持ちを表現し、持続するだけの適切な方法を知らなかった。気持ちだけを伝えてわめていたのでは、駄々をこねる少年と変わりはない。先人たちの真似をしたり、体の動かし方や、道具の使い方など、常に意識していくことで、継承や進歩ができるのが技術である。やってみて間違えて、直しながら改善していけるのが技術のいいところである。

 

色々な経験を経ることでやっとそれなりの年齢になって、等身大の自分として人と話すことができるようになった。自尊心やプライドや虚無感や色々な感情にとらわれることなく、老若男女いろんな人と作り物ではない嘘のない自分の言葉で楽しくしゃべることができるようになった。それは時には月15回キャバクラに通い、時には週3,4回友達と朝まで飲んでから仕事をして、時にはアプリで出会った知らない女の子と飲みに行き、時には全く外に出ずひたすら小説や映画やラジオを見続けた、その行動の結果である。好きですとしか言えなくて、隣にいることができなかったふがいない自分を変えたいと思い続けた結果でもある。最近になって初めて、誰かの隣にい続けることができるという自信が、少しだけ芽生えた感覚がある。

 

恋に焦がれる年ごろの女の子のように、いつの日か「好きです」と等身大の言葉で相手の目を見て言える日を夢見ている。そんな夢をいつまでも見ているのだからダメなんだよとか、やってみないとわからないよとか、いろんなことを怒られそうだなとも思うのだが、自分の感覚に従って誰かの隣にいることのできる自分になれたのだから、自分の中に生まれる純粋な好きという感情に殉じてみたいと、改めて思っている。

 

主人公が弾くピアノの音色も、感情を表す色彩的な表現方法も、不器用な感情を伝えるストーリーの構成も、伝えたいまっすぐな想いとそれを表現する技術であふれていた。自分の人生などこじれてひねくれた、しょうもないものだけれども、自分の気持ちくらいには嘘をつかないで生きたい。そんなことを思い出させてくれるアニメであった。

 

 

 

無垢の予兆

 

一つぶの砂に 一つの世界を見

一輪の野の花に 一つの天国を見

手のひらに無限をのせ

一時のうちに永遠を感じる

 

ウィリアムブレイクというイギリスの作家による、唯一知っていて好きな詩である。博士の愛した数学の映画のエンドロールに流れてくるため、知名度があるかもしれないが、この詩と出会ったのは2ちゃんねるまとめサイトだった。陳腐と言ってしまうのは、失礼かもしれないが、スレを立てたうp主は病床にある末期の女子高生であった。病気の重さを感じさせず、淡々とどこにでもいる女の子のような軽快さで質問に答えていき、昔の2ちゃんねる特有の連帯感があるスレッドであった。そんな女の子が、明るくレスに返信を行い、皆に励ましの言葉とともに最後にこの詩をつづった。10年以上もたっており、今ではそのまとめを探すこともできなかったのだが、この詩だけはずっと印象に残っていた。

 

砂漠の砂というのは、決まった大きさの粒の集まりである。風で巻き込まれ、舞い上がる一定の粒の大きさの砂が広大な砂漠を形作るのだそうだ。大学で葉っぱの上にたまった、水の雫の曲線の方程式を学んだことがある。水の粘土、重量、大気圧による外圧。境界条件さえ決定することができれば、微分積分を使用して、計算することができる。偉大なことである。一粒の砂に世界を見る。それは、砂漠に巻き込む風と砂の粒が滞留する境界の条件を規定する。理系からの観点だけでも、一粒の砂の世界に自然界に存在する数学的な摂理を見ることができる。井の中の蛙大海を知らず。でも、大きな空を知る。世界を余すことなくくまなく見ることは出来ないけれど、全体を規定する自然界の法則を一つの事象から想像することができる。それは、無限であり永遠の世界である。

 

なにを選び、何をやろうとも、そこには無限の世界がある。自分が正しいことをしているのか、それになんの意味があるのか、わけもわからないままに、意図せずとも今の世界を生きている。人生に生きる意味があるなんて巷でよく言われているけど、生きることに意味なんてないと思う。絶対あると言い切ってしまうのでは、飢えや病気や地震で不意に、生きる意味を考える間もなくなっていった人たちが浮かばれない。ただ、無限で永遠の世界の中で、生きる意味を見つけることは出来る。数学が好きな少年であった。無邪気に友達と数学の問題を解きあった毎日は、確実な問題の解き方と答えを教えてくれた。社会人と学生とで違うのは、問題を自分で見つけるか否かである。その問題を適切に提起するために、詩があり本があり歴史があり科学があり芸術がある。物事は色々な観点からみられるだけの余地がある。

 

振り返ってみると、ひねくれて、よくわからない道を歩いてきたけれども、そんな自分自身だからこそ見つけ出す真理を、ただただ真摯に書き残したいと思う。

 

 

全振り

最近大学の友達とオンライン飲み会をしているときに、高校時代辛かったという話をしている友達がいた。出会ってから十数年経って初めて打ち明けられて、素直になったなととても感慨深かったのであるが、自分の心境に触れて何が辛かったのかを語っていた。それは、進学校に入って勉強というものに絶望したのだという。友達も少なく、自分の感情を共有できる場を持たず、勉強をするという選択肢しか持たず、それが上手くいかなかったから、とても辛かったのだという。結構こういう人は多いと思う。何かを行動するときに、一つの選択肢のみに執着し、それ以外の選択肢が見えなくなる。勉強にしろ、仕事にしろ、恋愛にしろ、何にしろ、上手くいかないと自分自身を否定された気がする。その選択肢が一つしかない状況では、自分の全てが否定されたと認識するのは、致し方ないだろう。今でも彼はなかなか上手くいかないと悩んでいた。

 

自分自身の高校時代を省みると、幸運なことに色々な選択肢を取ることができていた。前にも書いたが、色もなく花もない狂人たちの紳士の社交場であった進学校の男子校には、色々な人がいた。勉強も部活も遊びも、色々なことを選ぶことができた。死ぬほどやった部活をやりつつも、現役でそれなりの大学に入ることができたのは、勉強に対してあまり負担を感じなかったからだろう。勉強が駄目だったら死ぬ。そういう強さもあるのだろうが、自分の場合は逆だった。勉強ができたのは、知らないものを知りたいという純粋な欲求もあったのだが、ふざけているのに勉強もできる周りの人たちに肩を並べていたいと思ったからであった。進学校では勉強ができるのは当然として、他に何か違うものを持っていることが人気者になる秘訣である。それはなんでもいい。部活でも、プログラムでも、ゲームでも、変態性でも、人と違うものはとにかく賞賛された。「勉強してないやべぇ」というポーズをとりながら、平然とテストでいい点をとりつつ、そのポーズを証明するために勉強とは全く違う分野の話題の深さを競い合っていた。皆が皆、将来というものに深刻になることを避けていたような気がする。それが良かったのだと思う。こんだけ部活をやっているのだから、勉強できなくてもしょうがないけど、できたらなんとなくかっこいいという、思春期男子特有の俺強えをやりたいだけの痩せ我慢をしていたのだが、案外ばかにならなかった。

 

それは今も変わらない。海外で想像の5倍辛い状況であるのに、それでもやっていけているのは、小説家になりたいという別の夢があるからである。想像の5倍辛い状況というのは、なかなか体験できることではないので、とても面白い状況にある。ある程度の挫折も苦悩もわかっていたつもりではあったが、それとは全く違った状況があるとわかるのは、主観的には勘弁して欲しいのであるのだが、一方でしめしめと思っている。新しい感情と出会うことは、物語に深みとリアリティと説得力を与える。仕事辛えと思いながらも、心が完全に折れないとわかっているのは、死ぬわけではないとわかっているし、大きな失敗をすればそれも小説の題材になりうると思っているからである。ここで仕事に全振りしていたら、それができずに失敗してしまった瞬間に、全てを否定された気になるが、物語はよくそこから始まることが多いため、それを密かに楽しみにしている。むしろ失敗を望んですらいるかもしれない。

 

日本人の美徳に、一生懸命という言葉がある。脇目もふらず一つのことをやり抜くということである。それは、確かにいいことだと思う。何か一つを極めようとしたときに、当然としてぶつかる様々な壁がある。人との交渉能力であったり、同じ分野の人との連携であったり、機材や器具などの環境の整備であったり、極めることでの副次的な知識や能力の獲得により一つ以上の選択肢をもたらす。昔の日本では世襲制が当然とされていたため、選択肢がなく集中せざるを得ないのであるから、美徳としてあげられるのは当然であろう。今でもその感覚は道徳的に語り続かれている。ただ今の世の中はとても選択肢が多く、誘惑も多く、そして社会自体の変化が早い。何がやりたいと選べる分、選ぶのはとても難しいことだと思う。全然縁がない世界ではあるが、ベビーカーはものすごく種類があるらしい。今の自分であれば、面白そうという理由でマクラーレンのスピード特化型のベビーカーを買おうという選択肢を取れるのだが、選択肢が多すぎると何を基準に選べばいいのかが分からない。高校生ならましてやである。

 

大切なのは、深刻さを免れることと、言い訳できる余地を持たすことであろう。何かに全振りするということは、素晴らしいことのように思えるが、リスクヘッジという概念を見逃している。また過度に力が入ると、本来の能力を発揮することは難しい。「いき」な人には余裕がある。そして世界は広い。若者としてわかった気になっている自分のちいさな世界など、世界全体から見れば、海に絞ったレモン果汁くらいちっぽけなものである。真面目な人こそ、自分の選択肢を絞りがちである。一つのことに全振りできることは、まごう事なき美点である。でもそれは都度、修正されなければならない。ちっぽけな世界を広げる壮大な努力の中で人と関わり、これで正しいのか間違っているのか、具体的な反省と行動が必要不可欠である。

 

夏目漱石の「虞美人草」の中で、宗近くんという登場人物が出てくる。「虞美人草」は夏目漱石の初期の頃の作品で、少年ジャンプのような熱意を持って書かれているため、個人的にとても好きなのだが、宗近くんはいつも「ハハハ」と笑っている。誰に蔑まれても、「ハハハ事実だから仕方ない。」と受け流している。そんな宗近くんが、最後に真面目であることについて説いていた。真面目とは真剣勝負の意味である。相手をやっつけなくてはいられないということである。普段ちゃらちゃらとして、人に笑われている彼が外交官に受かり、人と向き合う姿勢を説いていた。面皮ではなく、本当の人間になるということの意味は、真剣になれるかどうかだと。

 

間違っているのであれば、正せばいい。あってから十数年経って、初めて素直になれたこの友達が変わないわけはないと思っている。大学のときにすでに「人生の8方塞がりのうち7方までは塞がった。」というかっこいい名言を残した彼ならば、自分自身の道を切り拓けることだろう。その一方の道を愚直に突き進む姿を見ていたいとも思うが、そんなに方向を決められるほど世界は小さくないよと、言いたい今日この頃である。

 

不安の先

不安であれ、喜びであれ、ある種動物として生をうけた以上、ある一定の感情には、その感情を持ちうるための理由がある。同じ人間同士を食べないのは、同種族同士に感染するウィルスの蔓延を防ぐという説もあり、忌避感という感情はそれに役立つ。辛さというのは、刺激物を感知し、嫌っているのであり、体の防御反応と捉えることができる。痛いという感情を無くしてしまったら、平然と刃物を自分に突き立てることができ、生物として生きる確率は減るだろう。生命の本能として、死という絶対的な存在から逃げる確率を上げるための手段として感情があり、逃げる確率が高い存在が生き残るのは確率的には順当であろう。当然生き延びた個体同士が、交配し子孫を残すのであるから、教育的にであれ、遺伝子的にであれ、より強く似たような感情をもちうる個体が生まれる。

 

人に迷惑をかけてはいけないと教わった。忙しい人がいる中で、その人に迷惑をかけてはないけないという意識を持つため、自分に抱え込む癖がある。そうすると必然的に、できない時にも、その場に一人立ちすくむことがある。真面目であるので、逃げ出すこともない。そんな中で言いようのない不安を持ち続けていくと、その状況に飽きてしまった。気にいってずっと聴いていた音楽が、途端に聞きたくなくなるような感覚である。体感として飽きるという言葉がぴったりであった。

 

不安でいることに飽きるという状態の良い点は、不安でなくなったと言う事である。自分の心を占める、言い知れない不安を考えても仕方ないと、心が区切りをつけたためか、そのことを考えるのをやめることができた。海外に来て5ヶ月間は不安でしようがなかった。現地のお客さんと打ち合わせをし、提案を行い、見積もりとスケジュールを組み、下請けの会社と調整しながら実行する。それを全て初めての英語で行うのである。なにをどこまでやるかもわからない中で、自分で動かなければ進まない。全てにおいて期限があるのだが、誰がどうどこまで動いてくれるのかが分からないため、とてもストレスを感じる。土日もずっと不毛な考えのループを繰り返し、悩み続けた。5ヶ月の間不安でい続けると、それはもう平常状態と心が認識したのであろう。不安ではなくなっていた。

 

不安でいることに飽きるという状態の悪い点は、失敗を回避しようとする感度の減少である。不安とは今後の失敗や、今までの過去の経験から割り出されるよくないことが起きることへのセンサーである。自分自身がどんな状況でどんな行動ができるかを、よく内省的に考えるタイプであるだけに、自分のできないことがよくわかっている。不安のもとである問題を一つ一つ丁寧にほぐしていかなければならないのであるが、初めてで海外であるとその一つ一つの過程を解決する自分を想像することができない。間違えてもいいという適当な方針でポンっと現場に放り出されて、人の力を借りこそすれ、結局その失敗をどうにかするのは自分なのだから、気持ちがさらに押しつぶされる。そんな状況の中で不安がなくなったとしても、別に問題が解決されたわけではない。ただ考えるのをやめただけである。それは期限があったとしても、それを守らなかったり、詰めなければならない提案を詰めなくなる。そんな状態であった。不安という危機に対する感情を持たなくなってしまうということは、何かしらの部分で自分の心を壊していることに等しい。とても哀しいことである。

 

サラリーマンとしては失格なのであろう。上司から与えられた課題と、お客さんへの対応のどちらも保留し、なんとなくぼーっと仕事を行う。心の病とまではいかないが、鬱々とした気持ちでぽつぽつとできることを行う。真面目な性格であるため期待には応えていたから、過去にこういう状況を体験し得なかったのであるが、よく分からない仕事をいっぱい持つと、こういう気持ちになることを初めて理解した。できないことに、申し訳ない気持ちもあるのだが、その感情すらも薄れてきているため、最近よく感じるが、色々な人からの小言を耐えればいいだけの話である。その小言には様々なボリュームがあったり、表現方法があったりして、人が離れてしまったりするのだが、あまり気にならなくなった。サラリーマンである前に、一つの生命である。生きていかなくてはならない。それすらも思い過ごしの可能性もあるのだが、不安を常に負わせ続けるような状況を与え続けておいて、怒られてもあまりピンとこない。別に会社のために命をかけているわけではない。やろうとしてみて頑張って、全然うまくいかなくて、不安を心に持つ続け、その不安という感情すらも飽きてきて、色々な感情が薄まって、投げやりな気持ちではあるが、人の気持ちを忖度しなくなったのは、悪いことだけではないと思う。自分が生きてきた中で持ち続けていた価値観が揺らぐほどの状況で、新しい考えを自分の心で理解出来るということは、未来につながることである。たとえそれが後ろ向きな気持ちであったとしても。

 

昔から前向きな人が好きではないと感じていたのは、楽しかったり成長しなくては生きている価値がないと、やんわりとその人から感じてしまうからである。辛いことがあったらそれをバネにしてとか、辛いに一本足すと幸せになるとか、常にここではないどこかに気持ちが向いているその考え方は、どうしても相入れなかった。ごみためのような家に住んでいる人も、出来ないという烙印を押されている人も、成長して笑って生きている人も、生きたくとも生きられなかった人も、同じ人間である。世の中なんてのは平等ではないのだし、万人に通ずる一般解などあり得ない。大変な状況にあるというのは事実に過ぎない。それを幸せと思うのか、不幸と思うのか、その人が選び取った主観に過ぎない。

 

ただただ今の感情の変化を記述したいと思っている。それは限定されて、特殊な一つの問題に対する解に過ぎないのではあるのだが、色々な問題と解を知っていれば、それだけ色々な問題が解ける。ここに書かれているのは、あまり他の人と同じことを思いたくない、とてもひねくれた考え方だが、それを意識していただけに、一般的な考えも知っているし、なんとなく人とのずれも知っている。ただただこれからの感情の変化も記述したいと思っている。

 

 

 

 

鬼滅の刃の竈門炭治郎が「俺は長男だから我慢できていたけど次男だったら我慢できなかった」といっていた。物語の中で唐突に出てくる言葉であるため、違和感がすごいのだが、好きな言葉として挙げられていることが多いため、とても実感として理解できるのであろう。立場が人を育てるというように、与えられた役割を皆が皆演じており、演じる中で何かを習得する。特に若いころに与えられる役割は、子供にとって世界のすべてであるのだから、意識的だろうが無意識的であろうが、人格の形成に大きな影響を与える。

 

次男を末っ子というのが適切かわからないが、僕自身が2人兄弟の末っ子であった。反抗するにしろ、それを乗り越えようとするにしろ、次男で末っ子は、常に先人である兄との比較を意識されることが多い。また、家庭の中で上の立場の者が下の立場のものを守るという構図が好まれる日本においては、末っ子は得てして甘やかされることが多い。守るものと守られるものという関係性の中で、末っ子としてわがままさを押し通しながら人の興味や関心を引く「術」を習得する。

 

人を変えるということは、その人自身から生まれてくる感情によってしか、本質的には変わらないと思っている。何百回小言を繰り出したところで、変わらない人たちを間近で見てきたし、何より頑迷な自分が変わらなかった。一族郎党を惨殺されてその復讐心から、誰かを初めて愛してその欲求から、大きな失敗をしたその罪悪感から。何かの大きな事件があって初めて、自分の中にあらわれる感情を自覚し、その自分自身から芽生えた感情により、その人自身を変えることができると思っている。自分に当てはめてみると、誰かの意識を変えようと思ったときに、人の罪悪感に訴えるという方法をよく使用する。

 

苦難の状況にある際に、自分の状況について何がどう無理なのかということを言っても、伝わらないことが多い。何がどう無理なのかをわかっていれば、自分自身で変えることができるのだから、うまく伝えることができないのは、当然だと思う。何に悩んでいるかがわからない。そんなことをよく言われる。そんなときは、その人の存在を自分自身から抹殺する。理解しようとする気持ちのない人に、何をいっても無駄なのだから、存在そのものをなかったことにすることが多い。抹殺するといっても、事務的な会話はよく行う。当然仕事である以上、その人とのやり取りをしなければならないが、その人の感情に訴えかけても無駄なため、設問を投げかける機械として認識する。笑顔でしゃべることも、怒ってしゃべることもやめる。ただ淡々とやり取りを行うことに終始する。そうしていると、ある程度の良心を持つ人だと、自分の言動や行動を気にするようになる。

 

僕自身が性格悪いなと思う理由に、死ぬまで意地を張りとおすことがある。死ぬまでとはあくまで比喩に過ぎないが、無理な状況で誰にも理解されずに、淡々と仕事をする際に、その時の自分の人生を捨てる。与えられた状況をこなす以外の目的はすべて捨て、その目的を遂行すること以外何も考えない。自分が与えられている環境は、あなたが与えたものであり、人という尊厳を超えてやれというのだから、その通りにやっているだけです。今の自分には、それ以上の解決方法がわかりません。そうやって自分の行動を貫いていると、同じテーブルに座ってくれることが経験的に多い。

 

同じテーブルに座って話すときにも絶対に感情的にはならない。今の状況に対しての、自分の心境・状況・上司の関わりを淡々と触れていく。自分の考えが間違っていようが、そんなものは関係ない。何もわからない中で、追い詰められてやっていて、間違っていて当然なのだから。冷静に淡々と自暴自棄になっている相手に、かける言葉はないと思ったときに、初めて自分自身のことを省みるようになる。教育するということは何だろうか。マネジメントとは何であろうか。とても大切なことだと思う。自分自身を省みずに、相手に理想を押し付けてばかりでは、なにも変えることはできない。それが罪悪感であろうが、何であろうが、自分の中に確かに存在する感情を自覚して行動することで、何かがよりよくなることを願っている。重要なのは場に対する敬意である。敬意をなくした自暴自棄など暴走でしかないし、そもそも人の良心に響かせることができない。

 

ひねくれたやり方なのだが、この手法しか取れないとわかった最後から4番目くらいの手段としてよく使う。末っ子として生き、与えられた役割の中でどうすれば人の興味や関心を引くことができるのか、そうずっと考えていたから使える方法である。極論を言えば、店の前で駄々をこねる少年と変わりはない。ただそこに、大人としての覚悟を載せているだけである。自棄という破滅を含んだ考えのため、誰にでもできるわけではないので、あまりおすすめはできないのだが、何も自分自身のためだけにやってるだけではないのだから、許してほしい。今後自分と同じような立場の人が、同じような苦しみを経験してほしくない。そういう気持ちから、相手に罪悪感を持たせ自分自身を省みるように仕向けている。そんなに悪いことばかりではない。口論になるわけでもないし、喧嘩にもならない。表面上は平和な解決方法である。

 

与えられた役割の中で、そうとしか生きられなかった状況において見出した、何かを解決するための手段を「術」という。善とか悪とか100か0では割り切れない、複雑な人間関係の中で、末っ子として見出した「術」は色々ある。何かに対してのリアクションとして興味深いテーマではあると思うので、もう少しゆっくりと考えていってみたいと思う。

 

海外で働く

大きな企業において海外で働くことの悪い点に、個人に会社の責務を負わせるということがある。規模が小さければ、小さいほど、組織力は小さくなり、個人の能力の割合が高くなる。ただし、責務は個人の能力を負わせてはいるが、会社の看板を背負っているため、遂行するものはそれなりのものを求められる。そんな中で、自分の身一つでその環境を生き抜いてきた人たちには、そこを潜り抜けてきたという自負がある。自分の人生をなげうってでも、組織に貢献して、今の成果を得ている。一人の人という視点で見たときそれは、とてもすごいことである。でもそれは時に、組織に対して負の側面をもたらす。

 

教育を行うということは、まず自分自身を顧みて、そこに存在した成長の体験を伝えることしかできないと思っている。自分の中にある経験以上のものは、知らないのだから伝えることができない。海外にぽつんと立たされた立場には、到底思いもよらない苦労があるのだと思う。その結果を経て今の自分があり、曲がりなりにも組織が運営できているのだから、後輩にも同じようなやり方を課すことになる。まずはやってみろと。それも一つの教育ではあるが、その状況で成長するのにとても時間がかかる。

 

失敗をするということは、ある種前提条件をすべて満たしたうえで、そこから漏れてしまう、1つや2つのミスによって発生する。それで初めて失敗ができる。大きなくくりで、何もできずに終わる結果も失敗といえるが、何も得ることのないその失敗にあまり大きな意味はない。あの時こうすればよかったという後悔が起きない行動では、次につながる余地がない。現状の問題を、自分ではなく誰かに責をを求めるようになる。今自分が生み出している失敗は、後者のような気がしてならない。

 

海外の上の立場の人は、新しく入ってくる若者に何を求めるているのだろうか。そう考えることがよくあるが、それは何より今ある空席を埋めて、組織の運営を延長させるという、延命処置に過ぎないと思っている。海外の支店に座るお偉方は、本社から具体的な金額や達成率によるノルマを課され、ある一定以上の成果を出さなければならない。それをずっと行ってきた人が、上に行くということであり、数値に対する対処的な方法にはたけているが、その人もまた自分の身一つでやってきたという意識が強いため、それを他者に強いるという点では、現状の問題に対する対処が優先され、教育の観点がおろそかになっている。丁寧な教育を施すことは、今までほったらかされて頑張ってきた自分をある意味で否定することになるため、積極的に行う人が少ない。何より、教育するという行為そのものを知らない人が多い気がする。また、海外にいて同じ立場や国にいるということは数年であり、その非常に短い期間の中では、種をまくということの功績は、会社の評価には関係ない。入ってきた若者に神経を配れるほどの余裕と気持ちは、上にはない。

 

わからないままに、わからないことをさせて、そこから何かを得るという、成長の方法は実務的にとても効率が悪い。目的が胆力やストレスの耐性をつけるというのならば、人生に一回でも経験するのは悪いことではない。何事も、辛さの下限を知っていれば、ある程度の状況を想定し、対処することができる。ただ、実務的な言語や法律や規則といったものを覚えるのには向かない。ある人がその人になるまでの、辛かった経験を、同じ形でもう一度別の人間が経験しなければならないのであるから、それは時間の浪費といってもいいだろう。全てをその立場にある個人が一から覚えなければいけないため、組織としての集合知といったものがが踏襲されない。また、そこから努力できるかどうかは、すべてが属人的で個人の資質によるものであり、今まで生きてきた気質や性格、知識や目的で大きく左右される。博打を打っていることと変わらない。組織としての方針が、100人の若者を未知の環境に放り込んで、そこから這い上がる幾人かを選び出すというのであれば、異を唱える気はないが、一人ひとりの個性を尊重するこの時代で、上昇志向の少ない今の若者にそのやり方を強いたところで、長くは続かないだろう。組織が人を抱えている以上、当然弱い人も怠惰な人もいる。それを補うだけのある一定のオーバーワークをする善意の人で組織は成り立っている。

 

学習をする際に、一番てっとりばやい方法は、人を真似ることである。顧客の対応であったり、部下への指示の仕方であったり、その人がもつ息遣いや、仕事をする背中をみて、ああこのやり方であれば問題ないんだと、腑に落ちることが肝要である。すべてのものを目的が最優先として、目的の達成のために自分から必要な行動を見つけに行くことができる人が多くいれば、それに越したことはないが、そもそもそういう人は会社員になどならない。もっと楽しそうな環境に身を置いているはずである。寿司屋の職人で、若いころに皿洗いや掃除から始めさせるのは、自分自身では知り得ない、清潔さやお客さんや寿司に向きあうための気遣いを教えるためである。今までの自分では実行することのない何かを毎日行う中で、自分の中にある確かに変わったものを発見する。それが学習するということである。

 

自分自身の経験として、わからない状況にある中では、思考が停止する。同じことを考え続けるとか、そのことに悩むとかは、どうあっても無駄な時間なのではあるのだが、心を持つ人間である以上、それは致し方ないと思う。その悩む時間は、人によっても変わるのだが、わからないことをやり続ける状況においては、その精神的な負荷は大きい。言語を習得しようとか、法律を学ぼうという、他に向ける積極的な意識が出にくい状況になってしまう。

 

海外で、上の立場の人と直接のやり取りすることなく、ぽつんと仕事をしている。真似る人もおらず、何から始めればいいかもわからない。その悩みを相談した時に、海外は皆そうやってきたとその一言で済ませられる。とても便利な言葉である。取り付く島もなく、相手の発言意図をへし折るのに、これほど適切な言葉はない。思考停止とはこのことである。適切な教育も、本来あるべき組織による集合知も属人的な資質にゆだねられている。期待をしていたという一言で適当に配置して、責をその人にかぶせるのであれば、マネジメントという言葉を使ってほしくはない。Pドラッカーの「マネジメント」を、真面目に読むことをお勧めしたいのだが、狭い世界では軋轢は災いを及ぼす。そう思わせる小さい組織なのだから、問題のであろう。愚痴を言ったところで始まらないから、知らないなりに今の状況で何となくでも仕事を回すことになる。分からなくても、聞き回ってやるしかない。とても疲れることである。

 

この立場に対する今の自分への評価を、上の立場の人が良いというのか悪いというのか、個人的には正直どうでもいい。自分も通ったであろう孤独で不安な状況を省みずに、さもできて当然のように仕事を振ることしかできないその振る舞いに、評価などされても心に響くものはない。自分の現時点での無能さも努力も成長も自分が一番知っている。似たような、ある一定の若者を海外に原則2年従事させてから、日本に帰すというのが今の会社のきまりである。ただ、この状況に対する自分の行動を少しでも評価して、自分の裁量を認めてくれるのであれば、二度と海外には呼ばないでくれというのが率直な今の想いである。使えないと評価するのであれば尚更である。そう思わせるこの仕組みに、何の意味があるのだろうか。海外で即戦力として仕事できる人を早期に判別することが目的なのだろうか。それであれば成功している。二度と仕事はしたくないという強い決心を持つことができた。そんな疑問を持ちながら、今日も海外で働いている。