川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

本の紹介

どんなに引っ越しをしようとも、毎回ついてくる本がいる。買っては捨ててを繰り返しているけれど、歳を経るほどに読み方が異なる本は、いつも見えるところにおいてある。もういやだ。そう思うことは色々あるけれど、そんなときに現実逃避をするために難解な本を読む。そうすると、少しだけ現実から離れられる気がする。

 

分かりやすいことが好まれる時代である。キャッチーな言葉で、一目で人を惹くことを今の人は主題にする。でもそれは、株式会社的な個人主義的な近代の考えである。たまに、中学で見た一番好きな映画のラストサムライを見返すのだが、どんなに近代化がなされて科学が進化し、技術が進もうが、今の自分たちを作っているのは、過去から受け継いだものだけである。「自分たちがどういう人間であったか忘れてはいけない。」良いことも悪いことも含めて、今の自分たちがある。どうしても流行になじめないのも、好きなことで生きていくという生き方に従えないのは、よく言えば過去生きてきた人々に敬意を払っているからである。

 

分かりやすいものが好まれる世の中で、あえてわかりにくいものの紹介。ワークライフバランスといって、自分の楽しさというものを追求することは、とても素晴らしい考えだけれども、不自由な状況の中で、時には自由を求めて、時には何かを守って、命を懸けて生きることは、案外幸せだったのではないかな思える本。受け継がれ伝えられるものはそれだけの理由がある。そうやってブラック企業が醸成されていくのだから、それも考え物だけれども、一つの考え方の補助線として。辛い状況を乗り越える一つの方法として。

 

浅田次郎 「壬生義士伝

一般的にはモブである新選組の1浪人を描いた作品。二駄二人扶持の貧乏侍が、脱藩し己の才覚を、家族のために生きるために使ったお話。「人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ - しかしそのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。」

 

夏目漱石 「虞美人草

初めて出版するために書いた処女作。人や物の描写等まどろっこしい言い回しは、面白いけど読みにくいが、少年ジャンプのような熱量で書いた作品。「真面目とはね。君、真剣勝負の意味だよ。相手をやっつけなくてはいられないって意味だよ。」

 

谷崎潤一郎 「春琴抄

盲目の三味線弾きの少女のわかりにくい恋心を描いた作品。著者が男で、自分が男だから共感できるのかもしれないけど、本音を周囲に言わない、いけずな気持ちはよくわかる。

 

ジョージオーウェル 「1984

世界が3つの大国に併合されて人員の思想がコントロールされたディストピアの世界を描いた作品。真理省と愛情省と平和省と豊富省により統治された世界。過去を書き換えることが当然の世界であれば、人の考え方などいかようにもなるという並行世界を描いている。

「対立が生み出す矛盾のことを完全に忘れなければならない。次には、矛盾を忘れたことも忘れなければならない。さらに矛盾を忘れたことを忘れたことも忘れ、以下意図的な忘却のプレオスが無限に続く。」

 

ル・コルビジェ 「建築を目指して」

建築を設計するにあたり、心構えを書いたような本。もの見ざる目。いかに人が物を見ていないかを嘆いていて、建築とは住むための機械であるというとおり、部分的な意味を大切にしている考え方を説いている。

 

九鬼周造 「いきの構造」

大正時代に描かれたいきについて構造を解説した作品。語源的な考察、時代の確認、宗教観。複数の立場からいきの構造についての説明を論理的・端的に行っている。

いきとは、垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)なのだという。いきの根底は色恋にあり、それをはねつけるだけの心の強さがあり、真剣さを免れるためのあきらめが必要なのである。

 

内田樹 「日本辺境論」

日本人の考え方・行動原理を辺境という切り口で、描いた新書。日本という国名そのものが、中国を起点としている通り、常に絶対的な何かに対しての相対的な位置を確立している。何かを主体的に引っ張て行くというよりは、後の先を取るような意識により今の日本があるという考え。論理的というよりはビックピクチャーを描いており、わかりやすく肩肘はらない本。

 

坂口安吾 「堕落論

人は生まれ堕ちたときから堕ち続けているという堕落を勧める本。本当は、一切の堕落をし先の、根本的で根源的な人間的な感動や感情こそが真に必要と説いている。

「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけである。しかしながら、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。 - だが他者からの借り物でなく、自分自身の純潔なるものをとどめ、自分自身の武士道ないしは天皇を編み出すためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのである。」

 

 

 

石橋をたたいて渡る

前もって周到な準備を行い、確認を怠らないことをことわざで「石橋をたたいて渡る」と表現する。最近そんな世の中だなと思う。不祥事をしたり、不倫をしたり、犯罪をしたり、会社や人が失敗をしたりする情報が出回り、過剰に非難される。情報リテラシーと称して、個人個人が適切に情報を選別するべきだとの風潮がある。

 

自分もそうだからわかるけれども、「石橋をたたいて渡る」のは無駄なことが多い。あくまで比喩だけれども、自分の性格上たたいて渡るべき橋があると感じると、その石橋の基礎の種別・配筋の有無・熱伸びに対しての伸縮・表面の素材の滑りやすさ・施工業者の実績・図面の確認・各種試験成績書・施工写真の確認・まじかで見たときのひび割れの有無・地域の地震津波、台風の確認・当日の天候など無数の条件を調べる。よく言えば用心深いのだけれども、悪く言えば人を信用していない。自分の目で見ないと信用ができないその疑り深さは、良い点でもあるが、悪い点でもある。往々にして無駄なことが多い。

 

ここにこうやって言葉として書いていることは、普通の生活の中ではオーバースペックである。自分は自分の考えていることを、趣味と酔狂の中間と位置付けているから、特に気にしてはいないのだけれども、日常を普通に生きるうえで、多種多様な考え方を持つことは、あまり必要がない。わからなければ、わかる人に聞けばいいのだし、わかる人を見抜く目を養い、わかる人との意思疎通しやすい状況を作ればいいのである。内に内にと向かう姿勢が、無意味な考えを作り出し、合理的な思考がその無意味さに意味を与える。別に趣味と酔狂でやっているのだから、特にかまわないのだけれども、日常にまで干渉するその用心深い性格は、結果として負の側面を巻き起こしているような気がする。

 

恋愛して結婚をするという文化はここ最近のものである。自分で自分の好きな人を選ぶという考えは、上位の人間には有用であるが、一般的にはそうではないと感じる。ドラマや映画やバラエティや身近な人が恋愛の重要性を語るのだけれども、当然できる人もいれば、できない人もいる。恋愛をして結婚をして幸せに生きる人は、当然ほかの人もそうなるように、時には強く、時にはやんわりと勧誘をするが、みんなができれば人口減少なんて起こりはしない。大切なのは、集団の中で失敗する人もいれば成功する人もいるその混沌とした状況なのである。

 

今の社会的な現状を考えると、失敗を恐れてる文化である。日本という国が相対的に貧乏になり、互いの監視が強くなっているのだから当然であると思う。どこかしらのタイミングで、恥ずかしい自分をさらけ出さなくては、恋愛など何も前に進まない。恋愛を経るには、自分の恥ずかしさを乗り越えるだけの確固たる個を持たなくては始まらない。やらなければ見る目が養われないのだけれども、何かしらの成功の物語ばかりに触れている人は、成功を追いかけるようになり、成功をしないものには手を出さなくなる。当然の帰着であると思う。

 

昔は、許嫁であったり、仲人であったり、お見合いであったりと、色々な半私半公的な制度がたくさんあった。独身が奇異な目で見られることも、結婚する圧力としては十分であろう。当然結婚したとして、成功する人もいれば失敗する人もいる。それが重要である。すべてがハッピーエンドで迎えられるほど、そんなに人生など確定的なものではない。頑張れば確率をあげられる行動もあるのだと思うけど、結果的に失敗と思っても生きていけるのであれば、次につながっていく。各家庭の屋根の下にどれほどのドラマティックな物語があり、不幸のどん底にいる人がいたとしても、集団全体を見れば結果的に成功である。

 

今は個人が尊重される。個人の人格も尊厳も尊重しなければならないというバイアスが強い。相手を尊重するためには、自分のことも尊重しなければならず、一人の人格として成り立つためには相応の教育と修練が必要になる。ニーチェが言う超人に皆がなれればかまわないが、そんな成功例だけを見て、こうしろと押し付けるのでは何も生まれない。

 

日本人は真面目なのだと思う。ほかの国よりまわりの雰囲気を察して、同じ行動をするきらいがある。失敗してはいけないと、雰囲気を察知し、同じ行動をとる。とてもけなげである。

 

今石橋をたたいて渡ろうとすると、情報を集めやすいから自分に適切な情報を見つけ出すことが必要となる。自分が決定し自分の意志で選択をしたのであるから、それの結果がどうであれ、後悔をせずに自分で責任をとれるのは、いいことであるとは思う。ただ、その必要な情報を選別する目を養うのはとても骨が折れる。その労力が徒労であると感じてしまう。その徒労を意義があると信じてつき進められればいいけれども、ショートカットをするためには信じられる人を見つけることが大切だと思う。その人から「この石橋は安心だよ」と言われれば、たとえそれが嘘だったとしても安心してわたることができる。恋愛など同世代の中で終止してしまうため、結局淘汰された経験というものが適用されない。日本で恋愛がもてはやされたのは、文明開花により西洋化がされたことで、個人主義が台頭し、個人個人を尊重したことから始まる。夏目漱石が小説で、個人の考えの果てによる失敗を緻密に描いていたけれど、日本人にはあまり向いていないのだと思う。古から存続する制度というものは、良くも悪くもそこにいきる人を見ており、よくできている。

 

イスラム教では結婚するまで一回もあったことのない夫婦がよくあり、それでも離婚率が低いという話を聞くけれども、恋愛結婚という構造にもともと無理があるのかもしれない。今後この世の中を存続するために、「まだ恋愛などしているの」というムーブメントができるかもしれない。恋愛が個人消費の促進のために、メディアによって拡散された手法により広まった側面もあるのであるから、何かしらのメディアなり権力が日本を存続させるために、違う概念を持ち込むようになる気がするからだ。

 

とても便利な世の中である。スマホにより、どんな時間でも格安で興味の尽きないコンテンツにアクセスすることができる。身近な人からの口うるさい説教より、今を忘れて夢を見させてくれる物語に熱狂するのも頷ける。人は苦難には抵抗するが、快楽には抵抗できない。時代によって、覚醒剤や酒や煙草が無条件に享受できていた時もあるが、法によっての制限が加えられた。いつしかこの情報という快楽を何かしらの形で、規制されていくのかもしれない。

 

武士道とは、奇怪な制度である。仁義礼智。言わんとすることは、とても格好いいのだけれども、遣える君主とともに朽ち果てたり、恥辱よりも死を選んだりする。日本人的な価値観を有しているから、その気持ちもわからなくはないけれど、個を優先する西洋的な価値観からすれば到底理解のできない発想である。あえて枷をしょいこむことで、自分の限界以上の力を発揮する。決まりきった枠の中で生きることは、自由ではないが、安心が得られる。どちらがいいと言いたいのではなく、とてもおもしろい現象である。今の世の中も、エコノミックアニマルと蔑まれた不自由な生き方の礎のもと、先進国としての自由な世の中がある。でも、その自由を日本人は持て余している。

 

今後はどうなるのだろうか。従来から師弟制度により支えられた文化や技術の継承をしてきた日本では、師によって弟子の結婚相手を半強制的に選ぶというのは考えにくい話ではない。古来の頑とした、決まりきった制度ではなく、もっと緩やかな師弟関係になるであろうが、そんな世界線があってもおかしくはない。もしかしたら、AIが師となり、結婚相手を見つける世界が訪れるかもしれない。

 

「石橋をたたいて渡る」前に、その石橋を保証する人がいればそんな必要はない。日本になじみのない個人主義を是とする前に、変わりゆく世の中で、もっと何かしらの世代的なつながりが必要なのではないかと思う。

 

合理化

何か辛いことや嫌なことがあると、すぐに合理化をする癖がある。ある意味では、逃避の一種なのだが、無駄に見て読んだ小説や漫画やアニメの知識をフル回転させて、自分の中でもっともらしい理由を見つけて合理化を図る。

 

合理化を図ることの良い点は、現状を肯定できることである。辛い状況に耐えて、それに打ち勝つイメージを肯定的に捉えて、苦難を乗り越えることができる。ただ悪いのは、そこに何かしらの合理的な物語を自分で作ってしまうため、苦難を経ることがいいことなのだと、自分に言い聞かせてしまう。辛いときに2重人格を作り出す話をたまに聞いたりするが、自分の場合は現状の苦難をごまかせるほどの緻密な構成を作り、乗り越えた先の自分をイメージし、逆境を楽しもうとする。

 

今も昔も同じである。知的好奇心がある人間だと思う。確かにそれは嘘ではないのだけれども、現状の適応障害とまで追い込まれた状況、そしてその症状の観察をずっと行い知的好奇心を満たすために、自らその場に飛び込んだと合理化をする。確かにその側面もある。その症状により、何ができなくなり、何ができるのか。どうすれば鬱に発展し、逆に発展しないのか。自分の感情にどういう変化が起こるのか。どういう感情が沸き上がり、どういう感情は消えていくのか。すべて、知的好奇心によってどうなるかを知りたかったのも嘘ではないのだが、そんなものはただ自分の苦難から現実逃避するために、自分の中で合理化をしているに過ぎない。

 

合理化とは自分の頭の中だけに起こる現象ではあり、現状を乗り越える方向に働くので、決して悪いことではない。でも、自分の現状をごまかせるほどの緻密な合理化は自分の気持ちをだましているに等しいとも危惧している。本当はなにがしたかったのだろうか。苦難を超えることにより、子供のころに思っていた大人のイメージよりは、タフになったのだと思う。人の気持ちも少しはわかり、行動の幅も広がった。でも、毎日がつらい。それはいつまで続くのだろうか。

 

「若さが幸福などというのを望むのは、衰退である」三島由紀夫の言である。毎度自分自身に向けてそれっぽい言葉を引用する。そうかなとも思うのだけれども、自分に言い聞かせているとも感じられる。こうやって言葉の意味そのものを一意的に考えず、次数をあげて俯瞰的に捉えることも合理化の一種である。ここまで考えているのだから、そう考えてもいいのだと、自分に対して言い聞かせている節がある。純粋な好きという気持ちでやっている人にはかなわない。

 

子供のころは割となんでもできたせいか、これがしたいと言えるものが特になかった。物語に登場する、一途な行動をし続ける熱い気持ちを持ったヒーローに、あこがれはしたのだけれども、その熱さを持ちえるだけの自分が見当たらなかった。人間なんて弱い生き物である。自分に都合がいいように解釈し、弱い方へと逃げていく。だからこそ自分に逃げ場をなくすために、合理的な考えをこしらえて、自分自身の中でお膳立てして、厳しい環境に自らを追い込んでいく。そうやって何かを得られると、合理的な考えのおかげだと考えて、ほかのものにも転用する。いつも何かをしない理由を作り出す。恋愛も結婚もしないのも、それが原因なのであろうと感じている。

 

自分の直感と好きだという感情と合理的な考え。どれも互いにがんじがらめに絡まっており、どれがどれなのか言葉として説明はできるのだけれども、どの言葉にも無駄に説得力があるため、どの感情に従っているのかがわからない。直観によって今があるのか、今の自分が好きだから今があるのか、合理的な考えを構成していった結果今があるのか。どういった前後関係で発生しているのか少し興味深いテーマである。

 

「なんとなく、自分を好きだと言える人になりたくて、合理的に自分の考えと行動を導いてきた。」それが今の自分なのだろう。言葉にすると、どうしてもとらわれてしまうため、合理的になる自分も少し戒めてみようと、なんとなく思った。

 

 

 

 

集合知

子供から始まって、今ある程度の年齢になるまで、たぶんほかの人より少しだけ、いろんな行動をしてきたと思う。安定志向の強い自分としては、いい面を伸ばすというよりは苦手な面を補強する行動が多かった。どんな時も笑っていられる平凡な人生を子供のころに志し、どんな状況でも対応できるようにかなりバランスに気を遣っていたのだと思う。平凡を目指すがあまりに、普通の人間が持つ欠点をなくしていくように、なんでも積極的に行う。そうなってくるとあまり、平凡ではない。積極的に苦手なものを克服しようと、悪戦苦闘しているうちに、なんだかよくわからない人間になった。今は何を目指しているのかもよくわからない。ただ、苦手を克服していくうちに少しだけ人の気持ちがわかるようになった。

 

好きな作家に浅田次郎がいる。大人になるとは。家族とは。男とは。どこにでもあるありふれたテーマを書いているのだが、社会からつまはじかれながらも、自分の人生を強く生きようとやせ我慢する男たちが書かれている。好きなセリフで、「人の上に立つ資格なんてのは特にありゃしません。苦労の数だけ人の上に立てるようになるもんです。」と言っていたものがある。原本が手元にないため、とてもうろ覚えなのだが、そうだなと思って、それを地で行こうと考えた。

 

小説が好きであったからか、元々感受性の強い性質であったからか、人の気持ちの機微にはとても敏感であった。一つ一つ発した言葉が適切だったかどうか。話した数時間後に、毎回省みる。その言葉が人に届いたのか。届いたとしても、それは適切だったのか。もう少し違う言い方ははあったのではないか。よくわからない反省を毎回行っている。飲み会も仕事も遊びも恋愛もすべて、人と接する機会には恵まれていたため、いつも自分の中で自分の言った言葉を反芻している。ある程度の苦労をしたと、少しだけ胸を張れるようになったこの頃、相対する人の状況・立場・感情を理解しない人たちの言動に疑問を抱くようになった。

 

誰かが失敗をしたときに、怒る人がいる。命の危険にかかわるのであれば、当然なのだけれども、とりとめのない失敗を小言のようにはやし立てる人がいる。ぼくから言わせてもらえば、とても不思議なのである。誰かを怒ったとして、怒られた本人が心を入れ替えて「はい!頑張ります。」と思うと思っているのだろうか。当然八つ当たり的な側面や、いらいらを抑えきれずに言う場合もあるのだが、やってしまったことはもう戻せないのだし、誰かを怒ったとして何かが良くなるようには到底思えない。

 

「怒る」と「叱る」では違うのだから、誰かが失敗した時には「叱る」べきだという人もいる。ニュアンスとして、自分の感情に立脚するものを「怒る」、相手の立場と状況に立脚するものを「叱る」そんなイメージがある。「叱る」にしても、論理的に言えばいいのか、感情的に伝えればいいのか。いろいろなアプローチがある。ここでは言葉のニュアンスについて論じたいわけではなくて、こういう感覚というものを手に入れるまでの教育が、あまりに属人的で運によるものだということを言いたいのである。

 

生まれたときから愛情を受け取ったという人たちは、誰かに何かを与えられることができるようになる。無条件で何かを与えられる人は、自分の想定していない何かをほかのだれかからもらうことができるようになる。とても良い循環を作り出す。自分の感情に自覚的な人は、やりたいことをやるようになる。やりたいことをやっていくうちに、やりたくはないけれども、やらなければならないことにぶつかって、自分の中に折り合いをつけながらやっていく。そうすると、できることがどんどん増えていく。

 

逆に言うと、愛情を受け取っていないという人は、誰かに何かを与えることができない。利害関係を強調し、よほどの親切や仲間意識というものを持たない限り、関係性をうまく作ることは出来ない。また自分の感情に自覚的でないと、自分のやりたいことと同時に、やりたくないこともぼんやりとしているために、毎日を耐えるように過ごすことになる。それはそれでかまわないと思うのだが、自分の世界が広がっていかない。

 

別に、「こうあるべき」というものを語りたいのではない。人が一人の人間として生きるのであれば、家で引きこもって暮らすのも、外に出て人と触れ合って暮らすのも、どちらでも構わない。この世の中を見ていて思うのだが、その状況を形作るのがあまりにもその人の生まれという運による要素で成り立っているというのが、いただけないと思うのである。

 

個人個人が尊重されるようになり、世界にはいろんな情報があふれるようになった。主観的な感覚だが「良い」情報も「悪い」情報もある。ただ、その情報をうまく活用できるのはその人自体のレベルに左右される。ジャンクフードのような食べ物を摂取するように、ジャンクフードのような情報を拾い続ける人。会員制の高級クラブのような人握りの人たちしか得られない場所に行くように、限定された経済的な価値の高い情報のみを得る人。どちらの人もいるからこそ、その社会に厚みが出てくるとも思うのだけれども。あまりにも、持って生まれた状況に左右されてしまう。無数の核家族の集団によって、無数の個性というものが生まれていくという考えもできなくはないが、学校というかなり一意的な教育を行う中で、学びとは・幸せとは・愛情とはといった根源的な問いに対する問いかけがあまりなされない状況では、多様な状況はあまり生まれない。本来宗教が一般的にその役割をするのだが、日本という独特な宗教観が占める世界においては、雰囲気としては共有されるが、個別の具体的な掘り下げや問題の解決がなされない。

 

個人的な生い立ちを書いていくと、愛されて育ってきたと思う。だから世の中に感謝しているし、それを還元しなくてはならないと感じている。ひねくれてはいるけれども、その気持ちが強いため、今でもいろいろなつながりがある。自分の中に大人にならなければならないという気持ちが強かったため、がむしゃらにいろんなことをした。部活も勉強も趣味も本も恋愛も飲み会も人間関係も、知的好奇心という側面が多かったからか、いろんなことをした。当然その生活の中で、自分の殻を破るようなそんな実感が得られた瞬間が度々ある。別に違う人生を生きたとしても、自分の性格であれば、同じような経験をしたことだと思う。

 

海外で仕事をしていて、集合知が全く生かされないことを憂いている。初めての海外の若者が行う仕事を、当然のように日本と同じように設定し、衝突する文化の壁や言語の壁を上の方がたは考慮をしない。役所に提出するべき申請のフローも、その場に立ってわからない状況ながらも初めて理解を行い、何となく学び取っていくのだが、その不都合に立って削られたメンタルを先読みして、教えるという行為を誰も行うとしない。みんなそうやってきたんだよという、思考停止の壁の前には発展の余地がないと思う。もう少し、システマチックでも、おせっかいでも能動的にかかわって、教えることで、恩義や義理を感じて頑張ろうという、一人の意思を生み出すことによる会社全体に対する利益をなぜわからないのだろうか。その簡単にでもわかる想像力と実行力の欠如こそが問題であるのだと思う。自分が上の立場であったのならば、懇切丁寧に教えて少しでも初めての地で頑張りたいと思ってもらおうという、気持ちは持っている。

 

「人は変わるのか」これは自分の中で大きなテーマである。自分は常に「変わりたい」と意識し続けていたため、変わることは当然のことであるし、そもそもその根本の意識は変わっていない。子供のころに芽生えた意識は、そのままであるのか。変わらない人は変わらないのか。そのテーマに大きな興味がある。

 

言いたいことは、この社会に生きていく人には、あまりにも集合知が活用されていないということである。あまりにも運に左右された社会の中で、自分の人生なんだから自分の責任で生きろという意見には同意をしかねる。困った状況にいたとして、適切な情報を適切な時期に知らなくては、なかなかその状況の改善の見込みは難しい。そして得てして適切な情報は、それを欲しいと思っている人にしかおり立たないものである。今の現状の辛さの理由も、それをどうにかする方法も、この世の中のどこかの本に必ず書かれているし、熟知している人が必ずいる。だが、その方法を欲することも、それが必要と思えることも、自分自身に対して希望や努力の意味を見出している人に限られてしまう。想像できることは実現できる。ある種それは真理だと思うのだけれども、そもそもの想像ができない状況においては、実現などできるわけがない。それは適切な状況なのだろうか。普通の生活を核家族の中で育って生きてきた人には、その核家族と出会った環境以上の知識が活かされない。もう少し、能動的にかかわるおせっかいな存在が必要なのではないかと思っている。

 

「悪」という存在がいたとして、悪が生まれるのには理由がある。身に背負う業も、社会に対する恨みも、脳に抱える機能も、何かしらの理由があって「悪」という存在になる。その人が悪になりたいと思ったというよりは、ならざるを得ない事情があるのだと思っている。別に悪意を否定する気はないし、社会の成長のためには必要な要素であると思うが、誰かを呪いながら生きるその状況の辛さよりは、笑って生きていった方が、いいことなので、よほどの事情がない限りは、教育や共感といった形で解消されていった方が社会の役に立つと思う。

 

最近私塾という動きが増え始めているのを感じる。地域に根差した、緩いつながりを持つ共同体を作ろうとする動きである。幕末の時代の吉田松陰塾のような、平凡な身分から日本を変えられるような、そんな意識を勉強する集合体である。それはいい試みであると思う。違う世界を生きる複雑な人々が交わることができるのならば、少なくとも複数の世界を把握することができる。あまりにも同じつながりの人種とつながっていただけでは、世界は変わらない。

 

地元にアーケード商店街がある。割とさびれてはいるのだが、ぽつぽつと感じのいいおしゃれな店が出店している。建築のコンぺでコモンというのは、よくあるテーマであるが、人々のたまりが自然とできるのが個人的には良い町であると思う。僕自身能動的に、うろうろしていたからそれなりのコミュニティに属することは出来たけれども、もっと敷居の低い、図書館のような、公民館のような、古民家の囲炉裏のような、そんな公共とプライベートが共存するような場所が必要であると思う。地元のアーケード商店街にも、そんな場所が出来たらとてもいいことだと思っている。

 

愛情とは無条件に与えるものであり、当然人にはもともとが持つ愛情自体には多寡があり、それを独占的に一族に与えるだけという発想だけではあまり面白いものが生み出されないと思う。根本的に愛情は、おせっかいな、相手への無条件の贈与であって、その贈与を受け取ったと感じられた人が、ほかの人へ贈与をできるようになる。それが人間同士の関係性構築の根本的な考え方であると、現時点では思っている。その正の循環ともう言うべきループを知らなければ、持続的な関係の構築はなかなかに難しい。その贈与を感じられる空間が必要なのだと思っている。

 

私塾であれ、地域の活性化であれ、勉強会であれ、学校と家庭以外の半公共的で半私的な地域に根差した身体的なスケールの空間の構築が社会には必要であると思う。幸運にも自分の中に蓄積された、知識や経験をどのようにして社会に還元していくのか。出来ることが増えてきたので、少しずつ考えながら自分にしっくりくるスタイルというものを探していきたいと思う。

 

 

 

死んだ魚の目をした友人

20代はインプットをする時期で、30代はアウトプットをする時期とよく言われる。この文章を書いているのも、そろそろ自分の中にためた知識や経験を、社会にアウトプットする時期になったのではないかなと思って、書いている。誰に見せるために書いているわけではないのだが、自分の中の思考の方向性を見極める意味では、いいことであると思う。

 

初めてここに書かれている文章を人の目に晒した。「事実」と「黒子のバスケ脅迫事件最終意見陳述」モチーフは死んだ魚の目をした友人である。彼と長年の付き合いをしている理由は「意味が分からない」それに尽きる。わからないことをおもしろがっているのである。世間一般を見ても、これはかなり特殊な関係性の結び方であると思う。言葉として書いては見たものの、彼が有数の大学を合格できた理由も、今を辛そうに生きる理由も、自分にとっては意味が分からないのである。無理やり論理だててストーリーとして書いては見たものの、そんなものはパーツパーツを組み合わせて、何となく形づくっただけの不格好のレゴのようなものである。彼にこの文章を見せて、オンラインによる飲み会をしたのだが、彼の発言は意外にも知性的であった。いつもの卑下する彼とは違った、とても大きな変化であったと感じた。

 

自分の中で一番しっくりくる解釈として、「知性」とはこの世の中のどの部分に自分がいるかを把握することである。切り口にも色々ある。世界の中の一人。組織の中の個人。男女としての男。家族・友人の中の一人。経済の中の一消費者。職種としての一仕事。イデオロギーの中の一思想。歴史の中の今。生物としての一個体。粒子の集合体としての人間という物質。神がいる世界においての一存在。複数の要素による階層の中で、自分の立ち位置の実態が適切に評価されているか。それが「知性」があるかだと思っている。過信も卑下も尊大も「知性」ではない。また、優秀であるかも「知性」とは因果関係がない。引きこもりだったとしても、親と金と社会と自分を適切に評価して、自分の意志によって選択をしているのであれば、「知性」があると思う。別に知性があることや、論理的であることは、かけっこがはやいとか、力があるとか、ルックスがいいとかその程度の個性や能力の一つでしかないと、思いたいとは思っているが、今回彼と話をしているときに知性を感じた。別に書いてある文章に触発されて、そうなったわけではないと思うけれども、おまえはこういう人間でここに位置しているんだと指摘されると、そうかもと思える部分と、そうでないと思える部分が必ず出てくる。あくまで自分が客観的であろうと思う主観的観点から、メタ的に俯瞰的に見る視点を一方的に認識させたことで、それなりの納得とそうではないという反発心を生んだのかもしれない。自分なりに立ち位置に対しての微調整をするような知性を、飲み会で感じた。

 

あえて「浮遊霊」という強いワードを書いてみたのだけれども、彼がそこまでひどいものではないと思っていた。そうでなければ、ダメ人間として大学でヒーローのように愛されていた彼の存在理由を説明できないからだ。ただ、感情が薄れているその状況を描写するのに手っ取り早い事例を、最終意見陳述を見て思ったのだから採用をした。三つ子の魂百までという言葉があるように、人格の成立には家庭環境が大きな要因を占めることから、家庭環境に彼自身が今辛いと考える原因を探すことは出来るのだろうが、まあそこまでよくその家庭環境を精査していないからなんとも言えない。

 

この文章を見せる前に、今の彼自身が無理をしていることを伝えた。職場内のいろいろな人が彼に対して「圧がある」と感じていることを察知しており、飲み会でも別の友人から直接言われてへこんでいた。大学の時の彼自身は誰よりも頑張っていなかったから、愛されていたのではと思うが、今の彼は本来ダメ人間である自分を偽って無理して社会人をやっており、周りの人ができないことをそのままにする理由がわからない彼は、周りの人ができるように指導している。そしてその無理による余裕のなさが、相手に賞賛や本人の努力という一方的な対価を強いる。入試や直接的なシステムの仕事といった他の人を介さない職務は彼に最適なのであろう。なんせ彼は幾千いる会社内で生産性2位で表彰を受けており、ボーナスで一番上のランクを取った男なのであるから。あくまで自分が辛そうにだらだらと生きるのは、不機嫌そうな態度をありありと見せることで、自分が労働を行っているのだと声高に主張しているのである。その原理は、つまらなそうに家事をする主婦も、あえてだらだらと授業を受ける学生も変わりはない。声にならない不満の対価を態度を露わにすることで求めているのである。また今までの彼は、エンターテイナーとしてのサービス精神なのか、自分をよく見せることを格好悪いと思っているのか、道化のようにふるまう一面がよく散見される。自分を卑下することで、誰かを笑わせるのは彼にとっての上等手段であるのだが、そこに知性を感じさせないほど、役割に殉じていた。それを自分自身と無意識に思い込んでいるのかもしれない。

 

最近の飲み会で知性的だと感じたのは、案外自分の感情を雄弁に説明していたからである。自分は怠惰でありつつ真面目であるという前提のもと、上司や組織や会社が求める自分の存在を考え、今のぬるま湯のような環境の中で、ほかの大変な部署を見ていると、そんな甘いものではいけないと言っていた。部下がやると1週間かかる仕事も、2時間で終わらせられるらしい。大学時代を知るぼくからしても、とても彼に似つかわしくない言動であると感じる。要は今までの状況においては、ある上層の階層の中で下流でいることを甘んじて受け入れてきたのだが、中層の階層の中で上流でいることを強いられていると本人が認識している今の状況については、対応方法を知らないのである。それは、常に下流でい続けようと思った彼自身の策略の誤算である。

 

彼の厄介さは、IQが高いがEQが低いことにある。自分のEQの低さを理解して、周りのIQの低さを理解して、そのギャップに絶望して辛いといって生きることは、ある意味IQの高さにより、環境と自分の立ち位置を適切に把握していると言える。人の感情がわからないのであれば、それに寄り添うよりもATフィールドを展開したほうが、自然な対応と言える。厄介なことは、自分が相手より上として見ていいのか、下として見ていいのか、よくわからないことなのだと思う。仕事での能率を考えると上にいる。人生の幸福度を考えると下にいる。そのねじれの意識によって、人に対しての自分のスタンスを定めることができない。無理して上の立場から発言するから、圧がかかるのである。

 

IQが高いのも、EQが低いのもぼくから言わせてもらえば、ただの個性にしかすぎない。変に意固地になるから、軋轢が生まれるのである。この前2chまとめサイトで、ボーリング好きな男のスレを見た。初めてのデートでボーリングに行って、彼女専用のシューズをプレゼントして、2フレーム使用するアメリカンスタイルを採用し、ボーリングの技術を自慢していた。側から見ていると、とても痛々しく滑稽なのだが、女性からすればたまったものではないのだろう。友人が行っているのも、大枠で見ればあまり変わりない。相手のリアクションを想像せずに、自分だけの振る舞いを行う。一般的な感覚とはかけ離れたふるまいだからおもしろいのだが。彼を見ていて発展性がないといつも思うのが、全て1つのやり方しか採用しないからである。

 

相対する人に対して、彼は1つのアプローチしかしない。ただ案外彼は無意識に対応を相手によって使い分けている。初対面の人にはぎこちない笑顔で取り繕った人格で接し、この飲み会の場では不器用なエンターテイナーの役割を演じる。部下には圧のある先輩として君臨し、仲の良かった同期には、少しでもいけている自分を演出する。こう考えると、色々な人に対して適材適所かはわからないが役を使い分けている。それは無意識であり、反射にも近い対応なのだろうが、その複数の人格どれもが本人を形作る要素なのである。彼が変わらないと思う要因は、同じスタイルを同じ人に使い続けることである。IQが高いのであるのだから、ちょっとずつ混ぜていくなり、使い分けるなり、実践して改善していけばいいのに、それをやらないのがとても不思議なことである。人に対応する方法には、北風と太陽もあり、善人と悪人もあり、高圧的も下手に出るのも、肉欲的も禁欲的に接するのも、論理的も感情的に話すのも、色々な方法がある。その選択も濃淡があり、割合を変えることで相手からの印象を驚くほど変えることができる。別に人など100か0かで割り切れないのだから、自分を偽っているわけではない。TPOを使い分けているだけである。自分を他者から好意的にみられることを望んだとして,素の自分と意識的に見せる自分には齟齬がある。その齟齬を違和感なく自分に馴染ませるためには、長い年月を要する。その年月を揶揄する表現で、30年後には結婚できると馬鹿にして指摘しているのである。いつまでも、同じスタイルを使い続けているから、現状の変化がないのだと思う。現状を受け入れいているという選択をし続けている。それはいいも悪いもなく、本人が選び取った決定である。

 

彼が知性的に見えたのは大きな変化である。文章を読んでそれに同調・反発したのでもいい。人に対して、無理をしなくなったのでもいい。自分自身をこうだと決めつけられるほど、人間という生物は単純でないと思う。知性を有しているのであれば、相手への対応方法を選ぶのはそんなに難しいことではないと思う。偏見であれ、一般的な感覚であれ、自分が相手に対して行動をした際に嫌そうな顔をしている理由、もしくはするだろう理由を考え、そうならないように違うスタンスをとればいいだけなのだから。少なくとも、相手に対して圧がある自分を認識し、圧があると言われた自分にへこんでいるのであれば、その圧の原因も何となくわかるであろう。生産性2位を取ったその論理性があるのであれば、なぜそれを対人関係に活かさないのか。今でも彼は自分にとって「意味が分からない」存在であり続けている。

 

アウトプットを人に見せることで、自分の間違えも確認できたし、相手のリアクションも何となく確認できた。ただ、文章を見せて感想を聞いたときに、ある程度の納得もしながら違和感を持っているのは感じ取れたが、意外に気を遣いながら言葉を選んで行動の原理を言語化し、その考え方は間違っていると直接指摘しない、その配慮する姿勢にはとても好感が持てた。なぜそれをほかの人にできないのか。とても不思議なことであった。

 

 

 

 

 

 

辛い時

人は辛い時にその人の本質が出るとよく耳にする。でも、聞いていてあまり自分に馴染まないと思っていた。その状況で頑張ることが、いいことだと、人々を誤魔化す都合の良い言葉だと感じられたからだ。海外で働くことになって1年間経って、上の人たちに日本に帰国する旨を伝えた。いかに自分の状況が辛いものかは初めからずっとプレゼンしていたため、割とすんなり受け入れてくれた。この1年間で得た気づきで最も大きなものは、気力とは消費するものだということだった。

 

端的に言えば逃げることを選んだ。今までの自分は、なんだかんだ言いながら、言われたことを最後まで諦めなかった。頑張ればどうにかなる。そう自分に言い続けて、それを海外でも同じように実行した。落ち着いて、何事も淡々とこなすから、辛そうなことがわかりずらい人間である。初めての状況に立って、言われたままに初めてのことをしていたため、どうするのが普通なのかがわからない。求められることをできない自分が劣っているのか、できないままにどうにかするその精神を持ち合わせていない自分がだめなのか。そもそものその求められること自体が初めての人にとって、異常なのか。よくわからない。ただ何をしても自分を責めざるを得ない毎日の中で、気力が削られていった。そんな時に必要なのは、ささやかな会話であったのだとしみじみと思った。

 

キングカズは児童養護施設を訪れてサッカーをしているときに、子供たちに「ありがとう」といった。意地悪な記者が「人気取りですか?」と質問すると、少し考えてから言った。「僕がかれらに何かをしてあげてるように見えた?逆に僕が何かをもらっているように見えなかったかい?」と答えた。そうなのである。いつも自分は人に何かをした気になって、優越感に浸っていたけれども、いつも元気をもらっていたのは僕自身であった。今もオンライン越しの友達たちは、いつもと変わらない様子で笑わせてくれる。それはたとえ自分の今の辛い状況をおもしろおかしくいったことによるものだったとしても、少なくとも笑ってくれる人たちは、自分が自分でいていいと思わせてくれる場所を提供してくれた。そんな些細な会話が、気力を与えてくれたことに気づいた。

 

海外にあってコロナであって新しい役割を行うこと。新しい役割の中で自分の居場所を見つけることはできたのだけれども、ローカルスタッフや日本人の同僚お客さんからもらう期待を背負い続けることが、とても苦しくなった。ロックダウンにより人と会話をすることすらも難しい状況でも、仕事は待ってくれない。何となく最初からわかっていたことではあったのだけれども、気力を使い尽くしてしまった。気力とは何かの行動を行う際のジャンプ力みたいなものである。今まで日本で平然と行ってきた、惰性でできることは何も力が要らないのであるから、できるのだけれども、新しい状況での何かの仕事は常にハードルやそそり立つ壁のように、ジャンプ力を必要とする。本来であればちょっと足を上げればできることも、気力がなければできなかった。人に悩みをいうことで、少しは気力が補充される。話していて、自分はできるのじゃないかという気になる。そしてやってみて失敗する。1年間を経て傷ついた、気力はなかなか元に戻らない。

 

オンラインで友達と話していた時のことである。友達はいう。「在宅勤務は全くやる気が出ない。でも、期日がギリギリになってくるとちょっとまずいことを認識して、やっぱやるんだよね。」僕はいう。「今まではいつもそう思ってやっていたけど、今回は期日ギリギリになってもやる気出なくて、実際にやらないときはどうすれば良い?」友達は珍しく真面目に答える。「それは平常な状態ではないから、休んだ方がいいと思う。そんな状態であれば休むことに対して、誰も何も言わないよ。」この言葉を聞いてそうだなと思った。こういう風に自分の心境を冷静に書くことはいつもやっていたからできるけれども、今までできていたことすらもできない自分の状況は、異常だと思った。頑張りたいと思って迷惑をかけないように努めていたけれども、できないことはどうしようもない。日本に帰国することを、上の人たちに宣言した。

 

何かを諦めることは寂しいことである。今まで頑張ってきた自分を否定するような、これからの人生を諦めるよな、そんな何とも言えない感覚である。いろんな分野でいろんな夢を追いかけていった人が、何かを諦めて、生活をしている。夢を引きずる人も、今の生活を納得して楽しそうに暮らす人も、その諦めを糧に頑張る人も、いろんな人がいるのだろう。成功した人の都合のいい言葉を見つけるのは容易いが、何かを諦めた人たちの言葉を探すのは難しい。耳障りの良くない現実は、大衆に受け入れ難いものだからだ。皆が皆それぞれの寂しさを抱えて、諦めていったのであると思うが、そんな一端を感じた1年間であった。

 

ワンピースのジンベェが、絶望の淵にいるルフィに対して言った。「失ったものばかり数えるな!!無いものは無い!!確認せい!!お前にまだ残っておるものは何じゃ!!」それに対して、ルフィは「仲間がいるよ!」と言っていた。

 

別に今回の件で何かを失ったわけではない。自信とか海外での信頼とか目に見えないものは無くなったけれども、それは遠い異国の地での話しである。特異な状況における、そんなものをなくしたところであまり自分自身には関係の無い話である。辛いときに必要であったのは、変わらない物であった。自分がどんなに傷つこうが落ち込もうが、変わらない日常をどうしようもなく生きている人たちとしゃべっていると、自分もそうだったなぁと思い出す。辛いときには過度の共感による心配よりも、ただ昔と同じように、何となく隣にいてくれれば良いのだなと思った。

 

 

 

 

 

攻略本

昔ゲームとかをしていた時、攻略本をよく買った。今は、ネットを探せばいくらでも攻略情報など出てくるのだが、その当時は友達同士の会話か、テレビでやっている小ネタの紹介か、攻略本でしか、裏技や強いアイテムを手に入れる方法を探す手段がなかった。無限の時間と真面目な性格が、攻略本に頼るという軟弱な精神を許さなかったのではあるが、エスカレーターがあるのに階段を使うという、文明の利器を活用しない発展性のない性格は本末転倒だなと思ったので、ファイナルファンタジーシリーズのアルティマニアを買った。ゲームよりおもしろいんじゃないかと思った。

 

何かの水墨画を書いている人で、技術とは透明さであると言っている人がいた。図と地による構図で、地を表現する技術がないと、本来意図している図が自分の中に入ってこないという。目ざわりとか違和感がおきるというのは、技術の不足によるものだと語っていた。それは音楽でも変わりはない。普段聞くなめらかな音楽が、つっかえたり、コードを間違っていたりすると、リラックスして聞くことができない。子供のピアノの発表会は純粋な技術の成長を確かめるだけだからいいけれども、普段の生活に溶け込めるためには、透明になる技術がいる。

 

ゲームも同じである。自分がプレイヤーとして世界観に没入するために、そこには本当に世界が広がっているような錯覚を持たせることを主題とする。当然その世界に歴史があって、考える人々がいて、現実の世界と同じように、独自の世界を作り出している。そういう作者の思惑を見せないのが技術であり、それが違和感なくプレーヤーを引き込むのがいいゲームである。攻略本のおもしろいところは、そんな世界を作った人たちが、「どうだ。すごいだろ。」と言っていることだと思う。街やダンジョンが俯瞰によって、図解されていて、モンスターの属性や能力が細かく書き記していて、ストーリーでは気づかない細々とした設定が記載されている。どう考えてもそこまでやる必要はないだろという、作者の狂気が攻略本には記されている。語り継がれる作品は、それだけの厚みがある。アルティマニアを見ているとき、世界を解き明かすようなワクワク感がある。そういうものは好きだった。

 

西野かなという歌手に、トリセツという歌がある。自分の取り扱い方法を、メロディーにのせて記している。女心を意に介さない自分としては、真面目に聞いているとげんなりするのだが、聞き心地のいい抑揚の少ない旋律は聞いていて居心地がいい。発想としてはとてもおもしろい試みであると思うので、自分の攻略本について書いてみたい。

 

自分を攻略するための大きな要素は、「やさしさ」と「欠如感」である。日本という国が、日の本という中国を起点にして国名がある通り、常に何かに対して相対的な存在の仕方をとる。古風なものを良いものとする自分の発想は、それとあまり変わりがない。この世の中に対して、自分なんかという欠如感というか、脇役感というものをいつも抱えている。ただ、世界がそんな欠如感を持つ脇役をみとめて、育ててくれた恩義があるため、人に対するやさしさがある。その2つが自分にとって大きなポイントである。

 

攻略するためには、大きく2通り考えらえる。絶対的な存在となって、確固たる自分を見せ続けるか、同じような存在となって心情を同じにするかである。大きく言えば「憧れ」か「共感」である。それは、行動の原理が主体的か客体的かということであり、憧れられるかは、主体的でかつ客体にも利益を及ぼして要るかであり、共感できるかは、客体的でかつ主体的にも利益を及ぼしているかである。わかりやすいセリフで例えると、「自分は好き勝手に生きているけれど、人に対して優しくしている自分も好き。」か「自分は人のために生きたいと思っているけれど、自分の納得のためにやっているだけ。」この2つの理念のどちらかを押し付けることができれば、攻略する糸口が見つかる。

 

このどちらかの理念を持っているのであれば、関係を始めるのは簡単である。重要なのは関係性を続けることである。「欠如感」と「やさしさ」を持った人間はある一定の距離を持った人への互いの干渉を嫌う。「内は内。外は外。」という考えが根本にあり、内に入るか外に入るかが大きな問題となる。欠如感を抱えた人間であるため、他のものを理解できないという状況は苦ではない。欠如感とは偉大なものに対する憧れであり、その憧れに対しての相対的な存在である自分は、理解できない部分に魅入られているからである。結果としてそれを理解しようとは思うが、理解できるはずはないという結論に行き着く。だから、ここでも2パターンの攻略方法があり、「内に入る」か「外にいる」かである。主体的に行動を起こす人であれば、外にいるケースが推奨され、ある一定の距離を保ってずっと関係性を続けることが円滑な関係を保つ秘訣である。結果的には本当のところで理解していないのであるけれども、そもそも人を完全に理解することなどきないのだから、それを大枠として持っているだけだという結論に至る。互いの干渉を行わなければ、関係性は長く続く。客体的な人からすれば、内に入って同じルールを持ち続けることを推奨する。欠如感があるだけに、自分の内側には外に対しての畏怖があるため、自分の中に規律とある種の禁欲を求める。欲望を求めず、自分の得られる範囲内で調整して少しずつキャパシティを大きくしながら、ありあわせの事象に満足することができるのであれば、自ずと関係性を構築ことができる。細かい微調整は他人を理解しようとする「やさしさ」があれば、何とかなると思う。

 

まとめると以上のようになる。

「自分勝手に生きているけれど、人に優しくしている自分が好き。そんな自分がやっていることを笑ってくれるのだから、互いに何かを変えるよりも、好きなことをして今の関係性を続けていきたい。」か「人のために生きているけれど、それは自分の納得のためにやっているだけ。一緒にそう思えるのだから、ちょっとずつお互いの世界を広げていってわかりあいながら、ちょっとだけでも世の中を一緒によくしたい。」この2つの考えをどちらか持っているのであれば、自分を攻略できるのではないかと思った。というかこんな話を、聞いてくれれば攻略できるのだから、難しいのか簡単なのか微妙なところである。