川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

清潔感

 どうしても好きになれない概念の一つに清潔感というものがある。内面は外面に現れるとか、外面をこだわっていない人は内面も期待できないとか、清潔感を持たせることに対して定型的な煽り文句が使用されるのを目にする。案外この文言は強い。そうかなとちょっとでも思わせてしまうその言葉の強さは、他の思考を遮る作用がある。清潔感とは、昔でいうところの学歴と同義であると思う。努力をすれば報われる社会において、学歴を持つということは努力ができるという前提条件であり、安定した生活基盤を手に入れることできるとみなされる。今の時代では、美醜が評価される要素が強い。youtubeやtiktokでは、美しさによる評価が如実に数値としてフォロワー数という値で表現できる仕組みであり、美しさとそれを維持する努力を続けることで、他者からの評価を得ることができる社会となっており、清潔感をもつことが他者との営みを適切に維持できるとの評価を受ける。

 

 生物において、美しさというものは、遺伝子の強さを表す。美しさが表わすものは、子孫繁栄のための若さであり、群れの中でのポジションを維持するための測りであり、強者からの寵愛を受けるための武器である。あまりにも技術が進みすぎて、何を軸とすればよいのかが不確かな社会において、本能的な美醜を他者への評価基準とするのは、さもありなんといえる。飢えることなどないのだし、個人主義的な一人一人が尊重される時代において、他者を顧みる必要性ということ自体がなくなっている。重要なのは、自分自身が害と認識する要因を他者から受け取る機会を減らしたり、少なくしたりすることであり、その中で本能的な美醜を追い求めることはとても腑に落ちることである。

 

 人からの害のなさを端的に表す言葉が、「清潔感」である。相手を考えて、「におい」を抑制し、物理的な害である「菌」を感じさせず、肌や髪の質感から、「健康さ」を匂わせ、それら総合的な他者の目線への対応によって「優しさ」を読み取らせる。確かに清潔感とは、他者というものを極端に意識した配慮の総合能力であると言える。それがあるかないかで、舞台に上がれるか否かが決まるため、それを習得しないことによる不利益は想像には難くない。でもその感覚が相容れないのは、相手のことを早々に見切りをつけるという、他者の切り捨てを感じるからである。清潔感という用語を使用するのは、あくまで自分の利益を得るための戦略的な手段としての考えであり、他者への本質的な能動的な優しさを感じられないのである。

 

 言葉として、相手に「清潔感」というものを求めるということは、自分のきれいな人生をそつなく生きるための、そのお膳立てをしてくれという傲慢さを感じてしまう。「清潔感」という文言で相手を縛るのは、自分に害をなすなと暗に明示しているに等しいからだ。そして安易な「清潔感」という言葉にその傲慢さをうまく隠すための狡猾さすらも感じ取れてしまう。なぜ好きではないのか。一言でいえば、そこに「魂」がないからだ。何がしたい。これがしたい。誰かがこうであってほしい。こんなことがあるといい。純粋な感情は、人の心を動かす。隣にいる人に笑ってほしい。山を登り続けた際に見える景色を見てみたい。人を笑わせている自分自身が好きだ。その純粋さはなんでもいいのだけれども、他者への優しさを至上の徳とする自分の考えとしては、誰かに何かの思いを届けてほしいと思う。その考え方が感じられない。

 

 マッチングアプリでは、2か月に40人と会うこともよくある話なのだそうだ。それは就活というものと同じである。何社も受けて、自分が釣り合うと認識する会社とマッチングすることで、入社を決める。売り手市場の美しさを持つ女の子は、清潔感というものでフィルタリングを行い、人数をこしとり、安定さ害のなさで最終の一人を搾り取り、恋愛して結婚する。

 

 そう考えると、間違っているのはぼく自身のスタンスなのであろう。上記はシステマチックであり、誰もが採用できるスタンスである。「清潔感」とは、他者への配慮の可視化という、技術であり、技術である以上誰でも習得・改善できるものである。人類が存続していくためには、誰でもができるということがポイントであり、「魂」などどいうあやふやなものを根拠にすることの方がどうかしている。子供から大人になる過程において、もっとも大人なふるまいとは、自己評価をさげることであり、荒唐無稽な夢から醒めて、現実的なラインに落とし込むことが現実を生きるということであり、そういった人々で脈々と歴史が形作られている。確かにその中でもたまたまの大成功を引いた人もいるのであろうが、そんなものは確率的に1%にも満たないであろう。案外賢いふりをしているけれども、好きなことで生きていくという、あほっぽい姿勢に同調しているのは、誰よりもぼく自身なのかもしれない。

 

 こうやって考えてくと、好きではなかった「清潔感」というものではあったのだが、一段深い切り口で考えてみると、それは案外女性側からの優しさを表わしているのだと思った。男の合格ラインのわかりやすい間口として、努力可能な習得できるものとして、このラインまでであれば受け入れることができると、ラインを決めてくれている。女性は女性自身の体験をもって美醜にはとても敏感である。美醜という観点で常に厳しい生存競争にさらされ続けた女性陣から、ここまで来いと高みから見下ろすその姿勢は、一人の人間としても、理解ができるものであると感じる。怠惰な男性陣への最低限の基準を満たすガイドラインが制定されているのであれば、それぐらいは努力してあげるのが、男の本懐であろう。

 

 種全体の生存という一点において、システムはできるだけ持続可能で清濁併せ持つものでなくてなならない。「魂」などということを求める、自分のある種の潔癖さに気づかされたのではあるが、清潔感という達成可能な目標を提示していもらっているのであるから、そこに向けた努力は必須だなとしみじみ思った。

 

不平等の必要性

 この前ある経済学者が、おもしろいことを言っていたが、結婚して幸せになるためには配偶者よりも少しだけ不幸になることが重要だと語っていた。ふと聞くとおやっ?とは思うのだが、一考するとたしかにそう思える言葉は、ある種正しい言えるのかもしれない。人間関係のぎすぎす感や雰囲気の悪くなる要因の多くは、相手が自分が実施した負債分よりも行動していないと、相手を認識してしまうことに対するうらみつらみだと感じる。行動の目的がお互いの目標として共通認識が適切に設定されていないことも多々あるであろうが、今回はすれ違いの原因である相手への不満についてより考えてみたい。

 

 人は常に自分のことを過大評価するものだと思っている。古代から何度も言われ続けている、「汝自身を知れ」であったり、「無知の知」であったりと、尊大さを戒める言葉には強い普遍性を感じるが、往々にして自分の感情に焦点を当てすぎることで、相対する人の状況や感情を読み取る想像力が足りていないと思う。「自分はこんなにやっているのに」、「なんで自分だけ」。仕事ができない人ほど、自己評価が高いとはよく言われているが、そもそも人は現状に対する愚痴と不満が多い。不満を表わすというのは、自分が正当に評価されていないということへの表現であり、相手から情状酌量や負荷の軽減を引き出すためのテクニックの一つであると言える。

 

 なぜ不満を表わすのだろうか。それは満たされていないからである。親からの愛情も、友達からの友情も、社会からの恩恵も、受け取ったという感覚以上に、自分が置かれている状況は、自分が本来享受するべき利益を他人に奪われていると認識することを前提として自分の存在をとらえているのだろう。気になるのは、そういった人が優しさを受け続けたとして、その優しさを享受してしかるべきと認識するのだろうか。それとも、その優しさに気づかないのであろうか。はたまた、与えられているべき状況に気まずくなり、代わりに人に与えられる人間になるのだろうか。これは興味深い課題である。三つ子の魂百までという言葉が浸透しているものの、幼少期に会得しなかった感覚を後天的に手にすることができるものなのか。この点については、サンプリングが少ないため生きていく上でのテーマとすることとする。

 

 被害者意識にしろ、加害者意識にしろ、行動を選択する理由は何かしらの得をするからだという論法がある。それが間違っているか、正解かどうかは問わない。短期的な損であろうとも、長期的な損であろうとも、結果として得られる利益または与えらえる害を忌避することができるから、一見非合理に見える行動を採用するという考えである。善意が善意として受け入れる世の中においては、弱者をいたわるものが現れる。被害者意識を過剰に強調することでそこにただ乗りするように、悪意をもって乗っかることで、うまく利益を享受することができる。悪意ほど大げさではなくとも、スリルであったり出来心であったりはたまた、正義の強い意志をもって英断していると自分を演出することで積極的に被害者感の創出を採用する場合もある。

 

 この世の中は、とらえ方によっては悪意の歴史である。この数千年のうちに、戦争をしない時代、つまり人が人を殺さない時代がどれほどあったことであろうか。軍事利用に関する技術の開発のすさまじさは枚挙にいとまがない。時には人種による選別を絶対的な正義としたり、人が人を正しく導ているんだとしたり、わりと時代によるあやふやな定義の上で人が人を殺し続けている。こう考えると、悪意というのは多様性を担保するための、人間に付属された一つの機能といえる。実行するかしないかは別として自分に悪意がなくては、他の悪意を読み取れない。善人のみがいる村に、一人悪人がいれば得をすることは容易である。托卵といえば人間からすれば悪意そのものと感じるが、托卵する昆虫も動物も托卵という発想がなくては防ぐことは難しい。

 

 多様性というものがもてはやされているのが昨今の世の中である。いろんな人権を尊重しようという考え方だ。行き過ぎたポリコレはネタにもなっているが、これからの未来において、多様性に悪意は含まれるのだろうか。人間全体のうねりを考えるのであれば、一つの種別として考えたほうが良いことがある。観念としての善意は観察に余計な感傷を与える。あくまで、ニュートラルに観察されなければならない。事象は事象として読まなければならない。それはサイコパスになれということなのだろう。物事を抽象化する際に、感情を入れない事。生じる結果にのみ注視すること。なかなか特殊な能力ではある。ちょうど関心領域という映画を見た。アウシュビッツの収容所の隣に存在する幸せな家庭を淡々と映し出していたが、人は与えられた環境の中で各々の利益のみを得ようと画策をする。こうやって何かを書いている今、ロシアウクライナで戦争が起こっているが、どんなに心を痛めたとしても対岸の火事である。各々の正義は各々の中にあり、その正義を正当化するためにそれぞれが戦略を駆使し、立ち振る舞う。

 

 人は見たいものを見たいように見る。まさに多様性である。よそはよそ。うちはうち。大風呂敷を広げてみると、すれ違うことは致し方無いように思える。種族ごとに住む階層が違うのだが、当然その種の中でも階層があり、それぞれの適した階層を見つける。それがたとえつらく苦しいと思ったところで、生きるという選択をつづける限り、その階層は存続を続ける。昔は目に見える形で、階層を作った。それは原始的なすみわけであり、明確な序列を作ることで人々の溜飲を下げた。その階層はどんなに不適切なものであったとしても、必要であったのだろう。今は情報というものが、瞬時に共有されることだからこそ、善意が階層の作成に邪魔をしている。かわいそう・同情・友愛という言葉に正当性をもって勝てる論拠というものはなかなかに構築しずらいものである。だからこそ非常に難しい。日本とは本来与えらえたものを是とする生き方を採用し続けた民族である。一所懸命であり、封建制度であり、士農工商であり、身分の逸脱を大きく嫌っていた。それはある種の隷属ではあるが、不自由の中の安心があった。盲目的な安寧があった。

 

 今の世の中が生きにくいのは、自分がどの立場にいるかが認識しにくいからだと思う。誰を見下し、誰を敬えばいいのか。売上至上主義・強者主義が昭和平成の世の中を通り過ぎ、衰退することで、フォロワー数などという、数年たてばひっくり変える不確かなものにすがり、人からの賞賛を受けたものをよしとすることしかできなくなっている。太宰治が論じていた堕落論であったように、堕落することで真に残るものを探すか隷属できる他の概念を取り込むことしか安定できないと思う。

 

 日本人はビジョンを語るのも苦手だけれども、現実的な不平等を語ることも苦手である。何となくできてきたものを享受することしかできない。これから先ビジョンを作るのが難しいのであれば、落としどころして不平等な依存先という概念を考えることもこれからの世の中を考えるうえで必要なことではないかと思った。

 

 

 

 

愚痴2

最近の若者はと思うのは、自分自身の身も心も老いてきた証拠なのであろう。目の前にある事象をなんとか自分の中で無理矢理にでも飲み込ませるために、世代の差というなんとも変え難い大きな壁としてとらえるのは、仏教感でいう諦めが支配的な日本ならではの合理的な態度であろうか。しょうがないの一言で、自分を諦めさせるテクニックとしては、有効かもしれないが、原因と結果を追求する理系の立場とは相反するので少し考えてみたい。

 

最近思うのは、周りの人のことを顧みる人が少ないということである。それは言い換えれば、どれだけの物量の仕事があり、どれだけのことをしなければならないのか。そういった長期的なスパンで考えることはなく、自分の報酬に対して、それと対応する成果さえ出していれば問題ないと断じている人が多いということである。問題なのは、その成果を徹頭徹尾自分で決めていることである。

 

自分の成果を自分で決めるのは、良いことだとは思う。他の意見に振り回されることなく、自分が決めた方針で自分の生き方を決める。そう言われると、人間としてかくあるべしという気がする。ただ、それはひとりよがりに過ぎないのではないかと思っている。今までその場を形成してくれた人への敬意も、今持っている自分の環境への感謝も、なにも考えないその無知さと想像力の無さが好きではない。自分の一挙手一投足で、振り回される誰かがいることに気づかない鈍感さは非常にうらやましくあるのだが、結果として喪失するものの大きさも測り知ることは出来ないと感じる。

 

そういう意味では、素直な人が増えたなと思う。衝動に支配される世界という本の中でもあったように、自分の快不快を満たすことも、避けることも簡単な世の中で、他者の意見というものが不要になってきたのだろう。同質的な繋がりさえあれば、それ以外の感覚を弾いたところで、自分を満たす何かは手に入る。あとは小言に耳を貸さずに、心さえ動かさなければ、相手側が勝手に諦める。そういう時代なんだよという虚しい言葉に抗うことのできる人など、本当にごくわずかである。とても賢い。自分がなれなかったやり方をとても卓越した方法で実践しているから見事である。

 

いろいろ考えてはみたが、やはりその感覚の違いを埋めることは無理だと思う。どう考えても自分自身を犠牲にする、今の自分の働き方はおかしいと思う。その状況で得られる達成感や信頼感など、若者からすれば高級な寿司と変わりはない。別に食べれば、美味しいと思うけど、その対価を払ってまで食べる必要性がない。そうであるのならば、わざわざ苦行に付き合う必要などない。人は変わることができるのかというのが最近の自分の中での大きなテーマであるのだが、これは好き嫌いの話であり、気質の話であり、言っても詮ない話である。

 

必要なのはただ生き様を見せることなのだと思う。上の人たちを見て、そう生きようとしないのは、そこに楽しさがないと根底でわかっているからだ。何かを諦めて生きる人をみれば、そこに憧れる理由はない。日本的な美徳である、犠牲心にのみ訴えかけるのではなく、こうなりたいと思えば勝手に真似をする。今の現状を憂う前に、論理で何かを固める前に、まず自分が楽しく生きなくてはならない。まずはそこからしか始めることは出来ないかなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

痩せ我慢の説

福沢諭吉が勝海舟に出したとして、知られる痩せ我慢の説という言説がある。勝海舟が、江戸城の開城に際して、反抗を見せることなく明け渡すことにした、顛末に対しての福沢諭吉の批判である。その中で、「立国は私しなり、公に非ざるなり。」と述べている。国という概念を持たすことができるのは、私的な想いであり、公的に認められているから、やっていけているのではない。上に立つ者の、この国という概念を守るという決意によって、成立しているという考え方である。だからこそ今までの、国というものを支えてきた人間であるのならば、瘦せ我慢をしてでも徹底抵抗しなければならない、と批評している。

 

とてもおもしろい説である。普通政治家というものを公的な存在としてとらえて、その身の潔白を民衆が求めるのが昨今の世の中である。確かに、巷で言わんとしていることはわかるが、それとは逆にこの説の中では、上に立つものの責務があり、ルールを守るという決意があって、それで初めて民衆がそのルールに殉じるという流れになっている。あくまで帝王学的に、上の立場の人が上の立場の人に行った説ではあるものの、何かの集団を維持していくためには、そのルールを守るという事を心に誓った生身の人の存在が必要となる。

 

自分自身が不自由な生き方をしていると思った。あまり欲はないのであるが、欲望に忠実ではなく、常によくわからない自分のルールを守っており、そこから逸脱した行動ができないことが多々ある。なんでだろうと不思議に思っていたのだけれども、この痩せ我慢の説をみて、自分自身がずっと瘦せ我慢をしていたのだと気づいた。年の割に老け顔で貫録があるから、仕事の面でいろいろいうことを聞いてくれるのかと思っていたけれども、だれよりも自分が作ったルールを勝手に自分で守るという決意が人よりも強いからこそ、そのルールにほかの人も暗黙のうちに乗ってくれていたのである。

 

内田樹のブログにおいて、ゴッドファーザーとは、家族の瓦解を描いた作品であると言っていた。2人の主人公のそれぞれの観点では、シチリアの掟のみを行動の原則にするヴィトーというドンと、家族に対しての感情や共感という原則をもったマイケルの2人を見ると、結果的に「家族のために死ぬことのできる」ヴィトーと「家族を殺すことのできる」マイケルという構図が生まれているのだそうだ。その構図はよくわかる。自分自身があまり感情的でないのは、結果として生まれる主観的な判断のブレを嫌うからである。感情をもとに行動を決めると、行動自体に再現性が生まれにくい。その時その状況で感情の高ぶりや落ち込みがあり、恋人を捨てるか家族を捨てるかといった究極的な判断では適切に行動ができない。そして、何より周りの人が行動を推測できない。多分自分自身、そういう時は近いか遠いかで判断する。約束も先に決めたことを優先し、後からのものは後回しにする。物事の大小よりも、自分が守ると思ったことを優先する。よく考えていることがわからないといわれるのだけれども、その行動や反応だけはわかりやすいため、結果として行動規範が共有される。悪くない状況である。

 

最近の人は、感情に振り回されすぎな気がする。守ることは守る。その覚悟が感じられない。衝動に支配される社会でもあったが、今の世の中は個人個人の感覚があまりにもフォーカスされるきらいがある。あくまで一つの考えではあるが、重要なのは守りたいと思える規範であり、それを守ろうとする意志である。マネジメントの基本である社会に対しての効用こそが、会社の存続意義である。当然時代時代に沿った規範が作られるべきではあるのだが、2000年の間人間などほとんど変わってはいない。変わったことは、周りにあふれる機械であり、社会のスピード感であり、世界の近さである。

 

自分の直観的に何故だかやっていることは、よくある。えてして自分の合理的な性格が、総合的に利益を見込んでそう無意識に判断してやっているのだと思う。瘦せ我慢の説。自分の無意識的な行動を考えるにあたり、一つのガイドラインになりうる考えである。周りから見れば、むすっと何を考えているかをわからない自分を肯定してくれる、面白い概念である。

 

 

 

衝動に支配される世界

最近若者を手厚く気遣う熟練の人々という構図をよく見る。すぐ何かあればパワハラと認識され、過剰なほどに優しさを意識して接する。わりと上の世代と関わることが多いのだが、その丁重さにはむずむずとしたなんとも言えない感情がつきまとう。そのなんとも言えない感情について、少し考えみたい。

 

前に同じ会社内の違う職場を見学した時のことである。そこの三番手の人が職場の説明をしてくれて、一見してうまく行ってるように見えた。たまたま同期がそこにいたので、飲みに行こうと誘われて、一緒に飲みに行くことにした。そこで話をされたのは、若手を中心としたグループから二番手の人をモラハラという状況で、人事に訴えているということだった。その同期は最近転任してきて、あくまで第三者的におもしろがるという立場で、酒の肴という気楽さで話をしていた。

 

そういう状況に立つと、ひねくれている自分としては、あえて巷で言われることの逆のことを言いたくなる。モラハラをしているその二番手の今まで仕事をしてきた大変さを擁護し、数年働いただけの若者の身勝手な振る舞いを指摘し、たかたが言葉の使い方が下手というだけの上司の考えもわからないで、一方的に反抗することに対して、組織として結果的に損をするという話をした。あまりそこまで納得はできないようではあったが、理不尽さに耐えることになれる同期としても、なんとなく理解はしてくれた。

 

わりと万事が万事こんな感じである。今の時勢すらも読めないで、気遣うことをしないその上司も情けなくはあるのだが、自分の感情こそが世界の全てで、自分の外にある世界を想像せず、自分の認識できる範疇で快不快を決める、衝動的な若者にも辟易する。どちらの世代もなんとなくわかるから、そういう立場にあった時誤魔化すのは上手いが、ある程度世代が離れた集団が衝突すると、こういうことになるのかとしみじみ思った。

 

そういうことを考えていたときに、表題の本を読んだ。書かれたのは2014年付近であり、ちょっと古いのだけども、アメリカの1950年代から2010年くらいまでの、社会の移り変わりを金融業界や経済・政府の政策をメインに、個人が全体主義から自己至上主義に移り変わるその変遷を丁寧に描いており、今の日本とも相通ずる非常におもしろい本であった。

 

そこで描かれていたのは、会社の役員への報酬が株に変わったことや、投機家が会社の転売を進めたことにより、会社自体の存続よりも、株価の上昇につながる短期的な利益にのみ注力することで、事業そのものの生産よりも、金融的な価値を市場のみで判断する、短期的で非生産的な差益を得ることによるテクニック的な金の生み出し方の隆盛であった。そこから、個人もサブプライムローンと称される、不労の不努力による利益の獲得をした世界をもてはやすようになり、個人個人の衝動的な欲望を充足する商品をマーケティングする企業が強くなることで、個人の自己感が肥大化し、結果として社会へのつながりが分断化・階層化して、自分の世界を全能的に理解する人々が多くなったことが書かれている。そして、同じ価値観でのみ集まる集団というのは、自分に盲目的な自信を持つようになり、人々は極端な意見が多くなるというのも、とてもおもしろい考えである。

 

全く日本も同じである。昔からどうしても、一方的に自分が正しいと思う意見に頷くことができなかったのだが、それはこの極端な自信を嫌っていたからなのだと思う。自分自身が極力いろんな世代と交流していただけに、同じ世代でのみ集まるその考えの極端さに、危うさを感じていた。だから、人の愚痴を折りたがるのである。愚痴として、自分はこんなに頑張っているのに、こんなに認められていないと言われても、そんな狭い了見で語られる言葉など、無知の知への敬意も、人に対する敬意も、何もないよと言いたくなってしまう。とても性格が悪くもありながら、ひねくれた優しさでもある。

 

そう考えると、これは自分にとってチャンスである。必要なのは翻訳家である。理不尽を経て成長したため、上の人たちの気持ちがわかる。俺強えの異世界漫画も好きなため、したの人の気持ちもわかる。この状況で必要なのは、世代を行き来できるトリックスターである。内田樹の7人の侍で、三船敏郎扮する菊千代の重要性を説いており、トリックスターとは2つの領域をまたがるものであり、侍でかつ農民という二重性を持つ人だからこそその集団をまとめることができたと言っている。

 

今必要とされているのは、この立場である。上の愚かさも、下の無知さもわかった上で、上の苦労も、下の孤独さも感じ取れる。その2つの領域にまたがる存在こそが、必要なのだと感じる。案外これだけ技術が進歩したとして、飢饉や疫病を乗り越えたとしても、いろいろな苦悩は無くならない。全てが自動化し、人間という物質が全部解明されたとしても、案外不平不満は残るのではないだろうか。そんな状況では、違う世代をまたがる架け橋的な役割こそが重要になってくるのではないか。その架け橋の掛け方をもう少し考えていきたいと思った一つのきっかけであった。

 

 

グルーブ感

音楽を聴いていると、たまにどうしようもなくなるくらいリピートをする曲がある。ラップでフロウと呼ばれる波のような乗り心地のある曲である。あまり歌詞がなくても構わないが、敷き詰められた歌詞に、グルーブに乗っているような響きがあるとなおさらいい。ただ聴いているだけなのに、首をふりリズムを取ってしまうこの感覚はいい音楽に出会ったと、思わせてくれる。この曲に乗るという感覚について少し考えてみたい。

 

物理学的に、建物には固有周期というものがある。棒を上から摘んで揺らしたときに、自由落下により行ってから戻るまでの周期がある。その速さの倍の周期で揺らすと、棒はちょうど半分のところで2つの波を描いて揺れる。棒の剛性と長さと重力からからきまるその周期を固有周期という。建物にもそれが適用されて、地震の波の特性上綺麗な周期というものはあり得ないのだが、地震の周期と建物の固有振動数がぴったり揃うと、建物は綺麗に揺れる。その地震の波を間延びさせるのが、免震装置といえば、感覚として理解できやすいであろう。

 

これは音楽でも変わりなく、音の周波数を対数目盛上に12個に等分したものを音階と便宜的に定義しており、波の周期が等分であるドミソの和音が綺麗に聴こえる理由などもここにある。波としての周波数が合うから、心地が良いのである。これは単音に限った話であるが、全ての現象には波がある。音の変化にも、人の感情にも、そもそも海で生じる波というものにも、心臓の鼓動にも。グルーブ感とはその波を掴んで、共振させるという事なのではないのだろうかと思う。

 

波の基本は周期である。音楽に代表されるように、ビートと呼ばれる拍があり、その周期の波の中に、音楽としての揺らぎを作る。一定のリズムを重視するのは、それは鼓動であり、重力による自然現象の基本であり、最も自然なベースとなるからである。どんな現象も基本となる周期は逃れられない。大学で波動方程式にも関連するシュレディンガー方程式を学んだが、最小の量子という物質が次の点に移動する確率を波動方程式として波として捉えている。ジョジョの奇妙な冒険で、美とは自然に帰着するものであり、最も美しいものは、自然的な必然のみから作られた黄金長方形をあげていた。

 

今ここで書いている文章というものも、ただのグルーブ感で書いている。半可通な知識でなんとなく書いているため、それぞれの事象について深掘りはしていないのだが、ぽんぽんとリズムよく放り込まれる複数の知識をただ同じように、波に乗せて書いてるに過ぎない。特に意味などない。重要なのは周期であり、同じ拍子で刻まれる調子こそが最もグルーブ感を出せるものではないかと思う。

 

好きな小説家に浅田次郎がいるとは何度も触れているが、天切り松の闇語りに出てくる主人公は、刑務所にいる囚人に対してさながら講談家のように物語を始める。さあさあよってらっしゃいみてらっしゃい。せげんなんて下衆の下衆のやることでぃ。切った張ったの大正という時代の中に、本当の男と女の関係というものをとくとみておくんな。と小気味の良いリズムで話をする。そこに意味を載せるだけで、不思議な説得力を持って相手を翻弄することができる。あまり聞かない不思議なテクニックである。

 

語り口に音楽的な要素を入れることは、たまに聞く。オードリーの漫才は、元々好きであった継ぎ目の少ないラップ的な要素を入れているからこそ、淡々とした語り口の中に、春日というツッコミを入れることで、盛り上がりを作っている。たしかにリズム感を感じる漫才である。谷崎潤一郎の文章読本の中で、口にしたときに音として流れる文章のリズムの重要性を語っていた。自分自身もたまに、つっかえる文章から読めなくなる本というものがあるから、十分に腑に落ちる文章である。

 

理論と感覚。これは相容れない両極端のテーマである。音楽を作る際の天才と呼ばれる人々は、感覚に従って純粋な感動を音にしているのであろう。ただ自分はそうでない。理論と呼ばれるものの助けを得る事でしか、歩を進めることができない。あるものを使えばいいという感覚では、認識するということが最も尊いことである。他の事象のつながりと他の事象のつながりを自分の言葉で認識すること。これこそが今自分が思う、最も好奇心を満たす事象である。

 

そもそもこのグルーブ感を感じたのは、ラップバトルの動画でかしわという不思議なラッパーを見たからだった。相手と言い合いをすることが普通のラップバトルの中で、ただ一人気持ち良さにも似たグルーブ感のみで戦っていた。掛け合いの妙や、韻を踏むとかそんなテクニックを吹き飛ばす圧倒的なグルーブ感の前では、言葉に意味なんかないと、その圧倒的な説得力を持って会場を沸かせていた。とてもすごいことである。

 

わりと自分の描いた文章を推敲する方である。流れがとても気になってはいたのだが、即興的な事にもわりとのりのような意味があることがわかった。誰か人としゃべるときにも、文章を書くときにも、波に乗せるという感覚はとても有用である。自分の中にたしかに存在する、リズムという拍の中で、少したての波の使い方と拍の使い方を意識してみようと思った。

 

 

 

 

圧

利休にたずねよという小説の中で、千利休の話が出てくる。歴史小説というよりは、単純に筆者の考える才覚の鋭いものの成り立ちや行動・考えを一つの歴史舞台にあてはめているという印象を受けるので、純粋に小説といってよいと思う。千利休は心の奥底に美に対しての圧倒的な執着を持ちながら、表面上は何も求めていないように振舞っている。非常に静かであるべき静的なわびさびという概念と、心に秘める美に対する激情的な動的な執着の2つの相異なる存在を両立させる存在として、描いている面白い物語である。そんな物語の中で、その奥さんの宗恩の心情を丁寧に描いたシーンがとても印象的であった。

 

美というあやふやな概念の上で天下を取ったともいえる千利休と一緒に暮らしていくということは、行動の一挙手一投足に値踏みされているということに等しい。茶の湯の席に置かれた、たった一つの花瓶に美を生み出すことができる才覚は、おのずと私生活まで影響を及ぼす。宗恩のしつらえた食事なり掃除なりに対して、意識しようがしまいが美という概念から外れた物に対して、ふと眉を顰めるほどのかすかな反応をしてしまうのは、致し方ないことなのである。というよりそもそも、一番時間を接しているはずの日常にこそ、美という概念を持てないのであれば、天下を取ることなど到底できないといってもよい。聡明な宗恩であるだけに、無言の圧力ともいえるそのかすかな反応を感じ取って、毎度冷や汗をかくほどの値踏みに、耐え続ける生活をせざるを得ないのである。

 

その状況はとても他人事だとは思えない。自分自身が常に、何のために生きているのかと、自問自答を行っている。我日にわが身を三省す。三省堂のもとになった、言葉以上に内省を繰り返し、常に自分自身に向き合う。お前は本気なのか。できることを全部やったのか。やれるべきことはあったのではないか。とても自分に厳しい。自分に厳しいのは人に期待をしていないからである。誰も助けてはくれないという冷酷なまでの突き放しこそが、自分自身への厳しさとなって、自立を内に求める。ある意味で、それは他人を侮辱し続けているのである。ある程度近しい存在として、隣にいる人に対しては、自分の身の一部という認識を行うのは、ままあることであろう。器の大きさというのは、自分の身体的感覚を他人も含めてどれくらい広げることができるかで変わるという説を耳にしたことがあるが、心理的に近づくにつれ自分と同一視をする傾向が強くなるため、おのずと近しい存在にも厳しくなっていく。やがて、その近しい人に対しても、お前はそれで満足なのかと、暗に声をかけ続けることになる。

 

普通の人からすれば、それは耐えられるものではない。自分を律して生き続ける生き方は確かに、かっこいい部分はあり、憧れる要素はあるのだが、やりたいのとできるのとでは全く違う問題である。何を重要視するかは、各々が決めるべき問題ではあり、何なら決めなくてよいとすらも思うのだが、自分の場合、はっきりと口を閉ざしながら態度で示す術を会得している。その無言のプレッシャーに相手が耐えられないから、恋人がいないのだと思う。刹那を生きる女性は快不快に対する感度が非常に高い。恋人に求める条件に圧倒的に清潔感という言葉を耳にする世の中で、すべてが自分に不快な感情をもたらさないものを重要視する状況にあっては、たとえ憧れる生き方であったとしても、一方的にお前はそれで満足なのかといわれ続ける状況を忌避することはよくわかる。

 

忌避できるのは、感情に繊細で自覚的な人である。どちらかというと、善意的な発想から相手にも、存在意義を問う姿勢は、割と好意的にみられることが多い。好意を持っているのに、自分の感情に自覚的でないため、自分がさらされている圧力の原因を理解できない人からすると、それは不明なイライラであり、不安であり、ともすると体調が悪くなることまである。なかなか圧力というものは、難しい。

 

昨日女性と会って、食事をして、相手が聞き上手なことも相まって、自分の楽しいと思うことを、ストレートにぶつけてしまった。自分の気持ちすらをごまかすほど練りこまれたストーリーは、相手に対しても純粋に楽しい気持ちをもたらすことは事実としてそうである。数十年自分がコミュ障だと思い、それを直すために、努力し行動し改善し続けた重みがあるのだから。ただ、そこから上記で書いてあるような、圧力を感じ取ってしまったのでいうのであれば、致し方ない。もう一回会いませんかという問いかけに対して、楽しかったとさらりとかわされて、それでもずっと返事を待つような、乙女チックな気持ちが、このようなこねくりまわした文章を生み出したのは、果たしてよいことなのであろうか。現実逃避にしては、あまりにも婉曲で複雑で奇怪であることだけは自戒した方がよいのかなと思う。