川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

痩せ我慢の説

福沢諭吉勝海舟に出したとして、知られる痩せ我慢の説という言説がある。勝海舟が、江戸城の開城に際して、反抗を見せることなく明け渡すことにした、顛末に対しての福沢諭吉の批判である。その中で、「立国は私しなり、公に非ざるなり。」と述べている。国という概念を持たすことができるのは、私的な想いであり、公的に認められているから、やっていけているのではない。上に立つ者の、この国という概念を守るという決意によって、成立しているという考え方である。だからこそ今までの、国というものを支えてきた人間であるのならば、瘦せ我慢をしてでも徹底抵抗しなければならない、と批評している。

 

とてもおもしろい説である。普通政治家というものを公的な存在としてとらえて、その身の潔白を民衆が求めるのが昨今の世の中である。確かに、巷で言わんとしていることはわかるが、それとは逆にこの説の中では、上に立つものの責務があり、ルールを守るという決意があって、それで初めて民衆がそのルールに殉じるという流れになっている。あくまで帝王学的に、上の立場の人が上の立場の人に行った説ではあるものの、何かの集団を維持していくためには、そのルールを守るという事を心に誓った生身の人の存在が必要となる。

 

自分自身が不自由な生き方をしていると思った。あまり欲はないのであるが、欲望に忠実ではなく、常によくわからない自分のルールを守っており、そこから逸脱した行動ができないことが多々ある。なんでだろうと不思議に思っていたのだけれども、この痩せ我慢の説をみて、自分自身がずっと瘦せ我慢をしていたのだと気づいた。年の割に老け顔で貫録があるから、仕事の面でいろいろいうことを聞いてくれるのかと思っていたけれども、だれよりも自分が作ったルールを勝手に自分で守るという決意が人よりも強いからこそ、そのルールにほかの人も暗黙のうちに乗ってくれていたのである。

 

内田樹のブログにおいて、ゴッドファーザーとは、家族の瓦解を描いた作品であると言っていた。2人の主人公のそれぞれの観点では、シチリアの掟のみを行動の原則にするヴィトーというドンと、家族に対しての感情や共感という原則をもったマイケルの2人を見ると、結果的に「家族のために死ぬことのできる」ヴィトーと「家族を殺すことのできる」マイケルという構図が生まれているのだそうだ。その構図はよくわかる。自分自身があまり感情的でないのは、結果として生まれる主観的な判断のブレを嫌うからである。感情をもとに行動を決めると、行動自体に再現性が生まれにくい。その時その状況で感情の高ぶりや落ち込みがあり、恋人を捨てるか家族を捨てるかといった究極的な判断では適切に行動ができない。そして、何より周りの人が行動を推測できない。多分自分自身、そういう時は近いか遠いかで判断する。約束も先に決めたことを優先し、後からのものは後回しにする。物事の大小よりも、自分が守ると思ったことを優先する。よく考えていることがわからないといわれるのだけれども、その行動や反応だけはわかりやすいため、結果として行動規範が共有される。悪くない状況である。

 

最近の人は、感情に振り回されすぎな気がする。守ることは守る。その覚悟が感じられない。衝動に支配される社会でもあったが、今の世の中は個人個人の感覚があまりにもフォーカスされるきらいがある。あくまで一つの考えではあるが、重要なのは守りたいと思える規範であり、それを守ろうとする意志である。マネジメントの基本である社会に対しての効用こそが、会社の存続意義である。当然時代時代に沿った規範が作られるべきではあるのだが、2000年の間人間などほとんど変わってはいない。変わったことは、周りにあふれる機械であり、社会のスピード感であり、世界の近さである。

 

自分の直観的に何故だかやっていることは、よくある。えてして自分の合理的な性格が、総合的に利益を見込んでそう無意識に判断してやっているのだと思う。瘦せ我慢の説。自分の無意識的な行動を考えるにあたり、一つのガイドラインになりうる考えである。周りから見れば、むすっと何を考えているかをわからない自分を肯定してくれる、面白い概念である。

 

 

 

衝動に支配される世界

最近若者を手厚く気遣う熟練の人々という構図をよく見る。すぐ何かあればパワハラと認識され、過剰なほどに優しさを意識して接する。わりと上の世代と関わることが多いのだが、その丁重さにはむずむずとしたなんとも言えない感情がつきまとう。そのなんとも言えない感情について、少し考えみたい。

 

前に同じ会社内の違う職場を見学した時のことである。そこの三番手の人が職場の説明をしてくれて、一見してうまく行ってるように見えた。たまたま同期がそこにいたので、飲みに行こうと誘われて、一緒に飲みに行くことにした。そこで話をされたのは、若手を中心としたグループから二番手の人をモラハラという状況で、人事に訴えているということだった。その同期は最近転任してきて、あくまで第三者的におもしろがるという立場で、酒の肴という気楽さで話をしていた。

 

そういう状況に立つと、ひねくれている自分としては、あえて巷で言われることの逆のことを言いたくなる。モラハラをしているその二番手の今まで仕事をしてきた大変さを擁護し、数年働いただけの若者の身勝手な振る舞いを指摘し、たかたが言葉の使い方が下手というだけの上司の考えもわからないで、一方的に反抗することに対して、組織として結果的に損をするという話をした。あまりそこまで納得はできないようではあったが、理不尽さに耐えることになれる同期としても、なんとなく理解はしてくれた。

 

わりと万事が万事こんな感じである。今の時勢すらも読めないで、気遣うことをしないその上司も情けなくはあるのだが、自分の感情こそが世界の全てで、自分の外にある世界を想像せず、自分の認識できる範疇で快不快を決める、衝動的な若者にも辟易する。どちらの世代もなんとなくわかるから、そういう立場にあった時誤魔化すのは上手いが、ある程度世代が離れた集団が衝突すると、こういうことになるのかとしみじみ思った。

 

そういうことを考えていたときに、表題の本を読んだ。書かれたのは2014年付近であり、ちょっと古いのだけども、アメリカの1950年代から2010年くらいまでの、社会の移り変わりを金融業界や経済・政府の政策をメインに、個人が全体主義から自己至上主義に移り変わるその変遷を丁寧に描いており、今の日本とも相通ずる非常におもしろい本であった。

 

そこで描かれていたのは、会社の役員への報酬が株に変わったことや、投機家が会社の転売を進めたことにより、会社自体の存続よりも、株価の上昇につながる短期的な利益にのみ注力することで、事業そのものの生産よりも、金融的な価値を市場のみで判断する、短期的で非生産的な差益を得ることによるテクニック的な金の生み出し方の隆盛であった。そこから、個人もサブプライムローンと称される、不労の不努力による利益の獲得をした世界をもてはやすようになり、個人個人の衝動的な欲望を充足する商品をマーケティングする企業が強くなることで、個人の自己感が肥大化し、結果として社会へのつながりが分断化・階層化して、自分の世界を全能的に理解する人々が多くなったことが書かれている。そして、同じ価値観でのみ集まる集団というのは、自分に盲目的な自信を持つようになり、人々は極端な意見が多くなるというのも、とてもおもしろい考えである。

 

全く日本も同じである。昔からどうしても、一方的に自分が正しいと思う意見に頷くことができなかったのだが、それはこの極端な自信を嫌っていたからなのだと思う。自分自身が極力いろんな世代と交流していただけに、同じ世代でのみ集まるその考えの極端さに、危うさを感じていた。だから、人の愚痴を折りたがるのである。愚痴として、自分はこんなに頑張っているのに、こんなに認められていないと言われても、そんな狭い了見で語られる言葉など、無知の知への敬意も、人に対する敬意も、何もないよと言いたくなってしまう。とても性格が悪くもありながら、ひねくれた優しさでもある。

 

そう考えると、これは自分にとってチャンスである。必要なのは翻訳家である。理不尽を経て成長したため、上の人たちの気持ちがわかる。俺強えの異世界漫画も好きなため、したの人の気持ちもわかる。この状況で必要なのは、世代を行き来できるトリックスターである。内田樹の7人の侍で、三船敏郎扮する菊千代の重要性を説いており、トリックスターとは2つの領域をまたがるものであり、侍でかつ農民という二重性を持つ人だからこそその集団をまとめることができたと言っている。

 

今必要とされているのは、この立場である。上の愚かさも、下の無知さもわかった上で、上の苦労も、下の孤独さも感じ取れる。その2つの領域にまたがる存在こそが、必要なのだと感じる。案外これだけ技術が進歩したとして、飢饉や疫病を乗り越えたとしても、いろいろな苦悩は無くならない。全てが自動化し、人間という物質が全部解明されたとしても、案外不平不満は残るのではないだろうか。そんな状況では、違う世代をまたがる架け橋的な役割こそが重要になってくるのではないか。その架け橋の掛け方をもう少し考えていきたいと思った一つのきっかけであった。

 

 

グルーブ感

音楽を聴いていると、たまにどうしようもなくなるくらいリピートをする曲がある。ラップでフロウと呼ばれる波のような乗り心地のある曲である。あまり歌詞がなくても構わないが、敷き詰められた歌詞に、グルーブに乗っているような響きがあるとなおさらいい。ただ聴いているだけなのに、首をふりリズムを取ってしまうこの感覚はいい音楽に出会ったと、思わせてくれる。この曲に乗るという感覚について少し考えてみたい。

 

物理学的に、建物には固有周期というものがある。棒を上から摘んで揺らしたときに、自由落下により行ってから戻るまでの周期がある。その速さの倍の周期で揺らすと、棒はちょうど半分のところで2つの波を描いて揺れる。棒の剛性と長さと重力からからきまるその周期を固有周期という。建物にもそれが適用されて、地震の波の特性上綺麗な周期というものはあり得ないのだが、地震の周期と建物の固有振動数がぴったり揃うと、建物は綺麗に揺れる。その地震の波を間延びさせるのが、免震装置といえば、感覚として理解できやすいであろう。

 

これは音楽でも変わりなく、音の周波数を対数目盛上に12個に等分したものを音階と便宜的に定義しており、波の周期が等分であるドミソの和音が綺麗に聴こえる理由などもここにある。波としての周波数が合うから、心地が良いのである。これは単音に限った話であるが、全ての現象には波がある。音の変化にも、人の感情にも、そもそも海で生じる波というものにも、心臓の鼓動にも。グルーブ感とはその波を掴んで、共振させるという事なのではないのだろうかと思う。

 

波の基本は周期である。音楽に代表されるように、ビートと呼ばれる拍があり、その周期の波の中に、音楽としての揺らぎを作る。一定のリズムを重視するのは、それは鼓動であり、重力による自然現象の基本であり、最も自然なベースとなるからである。どんな現象も基本となる周期は逃れられない。大学で波動方程式にも関連するシュレディンガー方程式を学んだが、最小の量子という物質が次の点に移動する確率を波動方程式として波として捉えている。ジョジョの奇妙な冒険で、美とは自然に帰着するものであり、最も美しいものは、自然的な必然のみから作られた黄金長方形をあげていた。

 

今ここで書いている文章というものも、ただのグルーブ感で書いている。半可通な知識でなんとなく書いているため、それぞれの事象について深掘りはしていないのだが、ぽんぽんとリズムよく放り込まれる複数の知識をただ同じように、波に乗せて書いてるに過ぎない。特に意味などない。重要なのは周期であり、同じ拍子で刻まれる調子こそが最もグルーブ感を出せるものではないかと思う。

 

好きな小説家に浅田次郎がいるとは何度も触れているが、天切り松の闇語りに出てくる主人公は、刑務所にいる囚人に対してさながら講談家のように物語を始める。さあさあよってらっしゃいみてらっしゃい。せげんなんて下衆の下衆のやることでぃ。切った張ったの大正という時代の中に、本当の男と女の関係というものをとくとみておくんな。と小気味の良いリズムで話をする。そこに意味を載せるだけで、不思議な説得力を持って相手を翻弄することができる。あまり聞かない不思議なテクニックである。

 

語り口に音楽的な要素を入れることは、たまに聞く。オードリーの漫才は、元々好きであった継ぎ目の少ないラップ的な要素を入れているからこそ、淡々とした語り口の中に、春日というツッコミを入れることで、盛り上がりを作っている。たしかにリズム感を感じる漫才である。谷崎潤一郎文章読本の中で、口にしたときに音として流れる文章のリズムの重要性を語っていた。自分自身もたまに、つっかえる文章から読めなくなる本というものがあるから、十分に腑に落ちる文章である。

 

理論と感覚。これは相容れない両極端のテーマである。音楽を作る際の天才と呼ばれる人々は、感覚に従って純粋な感動を音にしているのであろう。ただ自分はそうでない。理論と呼ばれるものの助けを得る事でしか、歩を進めることができない。あるものを使えばいいという感覚では、認識するということが最も尊いことである。他の事象のつながりと他の事象のつながりを自分の言葉で認識すること。これこそが今自分が思う、最も好奇心を満たす事象である。

 

そもそもこのグルーブ感を感じたのは、ラップバトルの動画でかしわという不思議なラッパーを見たからだった。相手と言い合いをすることが普通のラップバトルの中で、ただ一人気持ち良さにも似たグルーブ感のみで戦っていた。掛け合いの妙や、韻を踏むとかそんなテクニックを吹き飛ばす圧倒的なグルーブ感の前では、言葉に意味なんかないと、その圧倒的な説得力を持って会場を沸かせていた。とてもすごいことである。

 

わりと自分の描いた文章を推敲する方である。流れがとても気になってはいたのだが、即興的な事にもわりとのりのような意味があることがわかった。誰か人としゃべるときにも、文章を書くときにも、波に乗せるという感覚はとても有用である。自分の中にたしかに存在する、リズムという拍の中で、少したての波の使い方と拍の使い方を意識してみようと思った。

 

 

 

 

利休にたずねよという小説の中で、千利休の話が出てくる。歴史小説というよりは、単純に筆者の考える才覚の鋭いものの成り立ちや行動・考えを一つの歴史舞台にあてはめているという印象を受けるので、純粋に小説といってよいと思う。千利休は心の奥底に美に対しての圧倒的な執着を持ちながら、表面上は何も求めていないように振舞っている。非常に静かであるべき静的なわびさびという概念と、心に秘める美に対する激情的な動的な執着の2つの相異なる存在を両立させる存在として、描いている面白い物語である。そんな物語の中で、その奥さんの宗恩の心情を丁寧に描いたシーンがとても印象的であった。

 

美というあやふやな概念の上で天下を取ったともいえる千利休と一緒に暮らしていくということは、行動の一挙手一投足に値踏みされているということに等しい。茶の湯の席に置かれた、たった一つの花瓶に美を生み出すことができる才覚は、おのずと私生活まで影響を及ぼす。宗恩のしつらえた食事なり掃除なりに対して、意識しようがしまいが美という概念から外れた物に対して、ふと眉を顰めるほどのかすかな反応をしてしまうのは、致し方ないことなのである。というよりそもそも、一番時間を接しているはずの日常にこそ、美という概念を持てないのであれば、天下を取ることなど到底できないといってもよい。聡明な宗恩であるだけに、無言の圧力ともいえるそのかすかな反応を感じ取って、毎度冷や汗をかくほどの値踏みに、耐え続ける生活をせざるを得ないのである。

 

その状況はとても他人事だとは思えない。自分自身が常に、何のために生きているのかと、自問自答を行っている。我日にわが身を三省す。三省堂のもとになった、言葉以上に内省を繰り返し、常に自分自身に向き合う。お前は本気なのか。できることを全部やったのか。やれるべきことはあったのではないか。とても自分に厳しい。自分に厳しいのは人に期待をしていないからである。誰も助けてはくれないという冷酷なまでの突き放しこそが、自分自身への厳しさとなって、自立を内に求める。ある意味で、それは他人を侮辱し続けているのである。ある程度近しい存在として、隣にいる人に対しては、自分の身の一部という認識を行うのは、ままあることであろう。器の大きさというのは、自分の身体的感覚を他人も含めてどれくらい広げることができるかで変わるという説を耳にしたことがあるが、心理的に近づくにつれ自分と同一視をする傾向が強くなるため、おのずと近しい存在にも厳しくなっていく。やがて、その近しい人に対しても、お前はそれで満足なのかと、暗に声をかけ続けることになる。

 

普通の人からすれば、それは耐えられるものではない。自分を律して生き続ける生き方は確かに、かっこいい部分はあり、憧れる要素はあるのだが、やりたいのとできるのとでは全く違う問題である。何を重要視するかは、各々が決めるべき問題ではあり、何なら決めなくてよいとすらも思うのだが、自分の場合、はっきりと口を閉ざしながら態度で示す術を会得している。その無言のプレッシャーに相手が耐えられないから、恋人がいないのだと思う。刹那を生きる女性は快不快に対する感度が非常に高い。恋人に求める条件に圧倒的に清潔感という言葉を耳にする世の中で、すべてが自分に不快な感情をもたらさないものを重要視する状況にあっては、たとえ憧れる生き方であったとしても、一方的にお前はそれで満足なのかといわれ続ける状況を忌避することはよくわかる。

 

忌避できるのは、感情に繊細で自覚的な人である。どちらかというと、善意的な発想から相手にも、存在意義を問う姿勢は、割と好意的にみられることが多い。好意を持っているのに、自分の感情に自覚的でないため、自分がさらされている圧力の原因を理解できない人からすると、それは不明なイライラであり、不安であり、ともすると体調が悪くなることまである。なかなか圧力というものは、難しい。

 

昨日女性と会って、食事をして、相手が聞き上手なことも相まって、自分の楽しいと思うことを、ストレートにぶつけてしまった。自分の気持ちすらをごまかすほど練りこまれたストーリーは、相手に対しても純粋に楽しい気持ちをもたらすことは事実としてそうである。数十年自分がコミュ障だと思い、それを直すために、努力し行動し改善し続けた重みがあるのだから。ただ、そこから上記で書いてあるような、圧力を感じ取ってしまったのでいうのであれば、致し方ない。もう一回会いませんかという問いかけに対して、楽しかったとさらりとかわされて、それでもずっと返事を待つような、乙女チックな気持ちが、このようなこねくりまわした文章を生み出したのは、果たしてよいことなのであろうか。現実逃避にしては、あまりにも婉曲で複雑で奇怪であることだけは自戒した方がよいのかなと思う。

怒り

最近怒りに対して折り合いがつかないと感じている。怒りとは自分の無力感に対して、行き場のない感情が出るためだと聞いたことがある。たしかに無力感は感じている。やる気のないじいちゃんと二人で働いており、逃げ場はなく、否応なしに仕事を引き受けざるを得ない。自分の方が立場が上のこともあり、大人になって、適切に指示をし続けなければならないのだが、どうしても、言葉が出てこない。たぶん嫌いなのだと思う。そんな意地を張ってもしょうがないので、折り合いの付け方について考えてみたい。

 

自分が怒るのは、困っている人を助けるという価値観を持っているからである。ある意味でそれは、困っている人を助けない人を排他的にみるという点において、困った人を助けない矛盾を持つ。基本的に人は頑張る意識を持つというのが前提であり、ある程度一般的な見識を持って仕事をしている人とであれば、何の支障もないのだが、うちの会社で初めて仕事をする、独身の夢もないじいちゃんとでは、その価値観は適用できない。ある程度、考えを一巡することで、じいちゃんの擁護も考えてはいるのだが、それを補ってもあまりあるほど、救い用がないと思ってしまう。自分が何が好きで、何が嫌いかをある程度はっきりさせないと、いつか歪みが噴出するような気がするので、その救いようないという気持ちは抑えるべきではないと思っている。

 

じいちゃんの強さはある意味で無敵の人であることである。慢性的に人不足な建築業界においては、いるだけで成立するという状況は結構成立する。派遣という仕事の性質上、嫌であれば次の職場に行けばいいだけである。そういった状況にあって、強さとは人の感情を無視して、自分の感情のみに振り切ることである。自分で自分の限界を決めて、できないことはできないと言い続ける心の強さを持ちうるのであれば、それ以上何かをやる必要はない。必要に駆られた、責任ある立場のものが、それをやるのだから。

 

その視点はなかなかに盲点である。人は努力しなければならないという、刷り込まれた価値観にある存在にとっては、頑張らないという選択肢はあまりない。頑張らなくても、頑張って得るその対価と、頑張らないで失う信用といったものを無視できるのであれば、それは正しい選択であろう。そこに、期待がなければ、喪失もない。年季が入った60歳だからこそ取れる無敵な戦略である。そんな人生の何が楽しいのという問いかけは一切無駄である。その問いかけに心が揺れ動くのであれば、少なくともそんな生き方はしてはいない。自分の対応方法が間違っている可能性もあるのだが、経験上9割の人とある程度はうまくいっていることから、じいちゃん自体が悪い可能性は高い。

 

そういった状況下では、どのようにすべきだろうか。自分よりも劣った存在として、一段下に見ることで、溜飲を下げるべきなのか。それとも、興味深い存在として対象を観察するべきなのか。はたまた、それを吹き飛ばす勢いで、明るく接するべきなのか。いっそのこと、格下の存在としていびるべきなのか。どうしても答えが出ない。普段ある程度の距離感を作れるほどには器用さを持ち得たのではあるが、自分の中に怒りが溜まっていくのを感じる。

 

思えば、それは自分の実生活に不満があるからなのだろう。独身として人生を謳歌できる状況にありながら、なすべきことを成せていない。つまらないことをつまらないままに、我慢してやっているという思いから、怒りに変わっている気がしてきた。今までであれば、そんな人の存在をそもそも気にかけることはなかった気がする。そう意味では、自分の状況を楽しめていない私生活の状況に問題があるのだろう。前までは、アホみたいに飲みに行き、愚痴を言い、知らないことを経験し、忙しかった。そう意味では、暇なのだと思う。やるべき目標も持たず、ダラダラと生きているから、同じように暇そうに生きている人の一挙手一投足が気になるのだ。

 

やはり文字として書いていくと、わかることがある。何かを書いていくと、連想ゲームのように、発想が広がっていく。だいたい考えているだけだと、同じことを考えてしまいがちである。そこに文字として書いていく作業を入れると、次のことを連想しなければならないという強迫観念からか、何か違うことを考える。そうすると、違う発想がひらけていく気がする。ここで分かった、自分の人生を楽しめていないのはたしかにそうだなと感じる。書くという作業は、決して悩みを解決はしないのだが、違う状況として、認識させてくれる。とても、尊いことであると思う。

 

今必要なのは、今の状況で楽しめるなにかである。昔はだいたい酒を飲みにいっていれば、事足りた。今は、仕事の責任も増えてきて、なかなかにその状況を共用できる人も減ってきたから、不満も溜まるのである。だとすれば、必要なのは、共有できる誰かか、それを吹き飛ばせるほどの、楽しいことだ。それがわかるのであれば、後はそんなに難しいことではない。なんにせよ、楽しめる場を見つければいいだけなのである。それを見つけるための行動か、もしくは何かを楽しもうとするマインドセットの仕方に問題があっただけなのだから。

 

そう考えていくと、じいちゃんは被害者でもある。自分の現状に対する不満の吐口として、より立場の弱く、わかりやすいものが、選ばれているに過ぎない。やはり案外自分のことはわかりにくいものである。他の人のことであれば、雰囲気を見て、わかるようなことなのに、言葉として書かないとわからないとは思わなかった。現状を楽しむということに対する無力感と言われると、たしかにそんな気もする。世間で言われているものも、やはり一考の余地がある。

 

初めて入ったバーという環境の中で、ひまなので。怒りという感情について、少し書いてみた。ある意味で、つまらない状況をつまらなく生きる社会人のような生き方をしていると認識できた意味で、とても有意義である。自分の中に存在するおやっ?と思う感情を持てる時間はとても必要なのだと感じた。

 

意味

自分の特徴はおもしろさを求めることにある。自分にとっておもしろさとは、俯瞰的に見た時の違和感であり、他の人との違いであり、多種多様なものである。ある意味それは自分自身に大喜利を課しているようなもので、今の状況や感情や立場をキャッチーなフレーズで言い表すことができれば、「おもしろい」として成立するという、不思議な構造を持つ。飲み会の場で、「これってなんかおもしろくない?」と笑いながら問いかけできれば、全てが「おもしろい」の一つで済ませることができる。辛いことも、悲しいことも受け入れることができる、独特な合理化手法である。その合理化していく流れと考えについて詳細に触れてみたい。

 

今は周りに人が少ない中で、馬車馬のように働いている。週3で漫画喫茶に泊まり、言い方は悪いが使えないじいちゃんと仕事をしている。当然追い込まれるその状況に不満はあるのだが、あまり気にならない。週3で漫画喫茶で泊まって働いている時点で、自分にとってなんかおもしろい出来事であり、その中で使えないじいちゃんに、もっと働いていくれと懇願しているその状況は、なんかもっとおもしろいことだからである。だからこそずっと笑顔である。不機嫌なまま誰かと相対することで生じる不利益というものは、自分の功利的・合理的な性質上容易に経験・想像ができるもので、笑顔でいないという選択肢はあまりないのだが、それ以上におもしろい立場に立たされていると認識し、その状況をドヤ顔で人に語ることで、その不満が解消されてしまっている。

 

ここでいうおもしろいとは、爆笑するfunnyというよりは、にやにやするinterestingに近い意味合いである。その二語を分けるのは状況の見方に客観的見地が入るか否かである。客観的見地に立脚するinterestingなおもしろさの中で、他と違ければおもしろいということは、ほとんど全ての事象に当てはまる。そもそも自分の置かれた状況を俯瞰的に見渡す人が少ない世の中では、もうその時点で他とは違うということであり、そんなわけのわからない存在がしゃにむに愚直に何かを行なっているだけで、自分の中ではおもしろさとして成立する。

 

ここで一番重要なのは、そのおもしろさを人と共有することである。頭の中でいくらでも考え、ほくそ笑むことはできるのだが、それを誰かに伝えなくては、得した気がしない。自分のおもしろい経験によって人を笑わせるという自己承認だか、役に立ったと自分の中で腑に落ちるからこそ、不満に対する溜飲が下がるのである。周りを見てみても一般的に割とこう思う傾向はよくあるのではないかと思う。だいたい忙しい人であったり忙しい時に飲みに行くことが多いのだが、こんな頑張っているのに誰にも認められないその状況を笑って誤魔化すために飲み会がある。飲み会の意義とはそこにあるのだと思っている。

 

そう考えていくと、人心を掌握するために最も重要なことは、相手に意味を与えることなのではないかと思う。自分の辛い経験を笑いながら話し、相手を笑顔にした時点で自分自身の経験が報われる気がするというのは、逆に相手からすれば、辛い経験を聞いて笑ったという時点で、辛い経験を話した人の役に立っているのであり、何かを与えているという意味で、何かしら得した気分になる。それは互いに、あなたのおかげで今日も生きていけるとの言葉を伝えているのと、相違ない。それは、相手という存在に意味を与えているということに他ならない。

 

ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」という本は、精神科医である著者自身がアウシュビッツの収容所を経験し、過酷な状況を生き延び、そこで見たことや自分の感情を書いている本ではあるのだが、収容所の中で生きていくことができる人とそうでない人との違いについて触れていた。物理的に毒ガスにより死を迫られる状況については致し方ないが、想像を絶する過酷な環境の中で、病気にならず気力を保ち生き続ける人が持つ思考の共通点について以下のように述べている。

「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある。」

極限の不衛生でご飯も満足にない状況においても、自分の未来に希望を持ち、意味を持って生きる人は、自分の傷の手当てや体の汚れを落とす、水を節約するといった、今できる生きるための最善の行動を自発的に熟考しながら行う。そしてその行動は、生きる確率を数%でもあげることができ、その生きる理由によって、「夜と霧」という今でも読まれ続ける本を出版して、人々に影響を与えている。だからこそ、人間関係を円滑に行う大きな要因は、その意味を相手に与えられるかなのだと思う。

 

戦争から帰ったら家族が待っているから。あいつを一人ぼっちにすることができないから。一般的に死亡フラグというセリフではあるのだが、あくまでそれは展開的に激動の御涙頂戴的な物語を用意しやすいから、そのセリフを言わせその人を死亡させているが、現実においては生きるための大きな力となりうる。逆に妻に先立たれた夫であったり、自分のために生きている人というのが、難病の際に生を諦めることはよく聞く話であり、案外他人を理由にした方が、生きる力を持てるというのは想像に難くないであろう。他人を生きる理由にする様々な見地については依存・自立・願望・共存・惰性・諦め・脅迫など色々な観点を挙げられるが、ここでは話の趣旨からはずれるため触れないことにするが、気をつけるべきポイントである。

 

人々の人間関係がうまくいかない理由があるとすれば、それは全てを商品と見なしているからである。この世の中では、自分の商品価値を高めることに重きを置かれて、他人もまた自分の商品価値を高めるためのアクセサリーである。モテること。学歴がいいこと。外見がいいこと。美人な彼女がいること。イケてる友達がいること。役職を持つこと。全てが自分に箔をつけるための理由であり、人に何も与えることができていない。ステップアップをしていくと、今までのアクセサリーは不要になり、新しくかっこの良いものを欲しがるようになり、人間関係を切る切らないといった無限地獄のような戦々恐々とする怨嗟に巻き込まれていく。だからこそ重要なのが、自分の隣にいてくれる人に理由を与えることなのである。

 

大切なことは「あなたが隣で生きていけるだけで、おれは生きていける。」である。漫画の聲の形に出てきたセリフの「おれが生きていくのを手伝ってほしい。」でもいい。互いに生きる理由を作ることのできる、不思議と力の湧いてくる言葉である。でも、この言葉を言わなくてもいいと思う。男同士でいうことはほとんどなく、女性相手にたいしてもいうことは稀である。助かったよとか、ありがとうとか、そんな些細な言葉でも感じ取れるものだし、ただ笑っているだけで、十分理解できるのではないかと思う。それは相手に対して、生きていてほしいという願望であり、自分が生きる理由であり、人と人とを円滑に繋ぐ言葉である。

 

幸いなことに、いつでも飲みにいくことのできる友達が、周りにいる。それは自分が辛い状況を生きるために必要な存在であり、そしてそれを相手も必要とされているとなんとなく感じているから、なんの抵抗もなく付き合ってくれるのであろう。人に対して高圧的に出るということも無感情で相対することも、人間関係においての一つの解ではあるのだが、何かをよくしたいと思うのであれば、相手に意味を与えるということもやってみてはいかがかと、ふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

平坦な道

退屈な人生をもとめている。誰よりも平凡なささやかな家庭を持つために、努力をしてきた。雨が降ろうが槍がふろうが、世界が核戦争の渦に巻き込まれようが、動じることのない確固たる意思を持てるように、自分の中にフラットな平凡さを持てるように生きてきた。平坦な人生を生きるがために、心の中は常に激動である。苦難を正当化する名言はたくさんある。この人生に酷い苦難をもう一度。天よ我に七難八苦を与えたまえ。自分自身の経験的にも、苦労の数だけ、成長はしたのだと思う。でも、その苦しみを経ないと成長はできないものなのだろうか。

 

人は自分自身の行動を正当化するものである。恋愛のテクニックに、強引に女性に迫ることで、その人と相対するために使用した自分の大切な時間を正当化するために、相手を好きになるという見解がある。辛いことも、苦しいことも、その経験を経ることは自分自身にとって良いことであると自分自身で認識する。

 

少なくとも、エンターテイメントに関しての感性が強い人間であるのならば、人生における浮き沈みを重要視する。何もない平坦なところを生きている人では、相手に興味を惹かせるだけのとっかかりがなく、特に物語が生まれにくいものである。自分の短所やクセというものは、人を惹きつける武器であり、それは道化やおちゃらけと言った観点で、人を魅了する。

 

いつの世の中も、成功者とは声の大きい人たちである。成功している時点で、それは説得力があり、伝記や偉業として語り継がれるが、平凡な人々の声は案外残らない。偉業を残すことはかっこいいことである。でも、それだけではこの世の中は回らない。平凡な人がいて、そこから突出している人がいて、怨嗟や憧れや嘲笑やさまざまな感情がありながら、物語を形成する。もうちょっと、平凡なものというものに焦点を当ててみたい。

 

一般的には、自分はモブと呼ばれる存在であろう。ただただ一生懸命働き、ちょっとだけ人より物を考えるだけの、あまり特徴のない存在と言える。別に突飛なことをしているわけではないのだし、会社員として普通の人生を生きているのだから、そこらへんに生きている人と変わりはない。自分自身特に称賛を得たいわけではなく、どちらかというと、この世の中の根底に会い通ずる真理を把握したいという、そういうことに興味があるだけである。

 

激動な人生はかっこいい。だからこそ、そうであるのはもういいかなと思う。それなりに自分自身の中に激動を感じ、苦労し、限界まで追い込まれるほど働いてみた。そして、それに疲れてしまった。それは、自分の中に存在していた、やれるところまでやってみるという純粋な好奇心というものが満たされてしまったため、激動に対してのモチベーションがなくなってしまったのだろうと思う。今はなんとなく惰性で生きている。過去の経験の貯金を切り崩している。そして、そろそろ落ち着く時期なのではないかと感じている。

 

激動を求め、その中に自らを置き、能動的に行動してきた。そして大体の感情の整理ができた。これからは、平凡というものを大切にしてみたい。日々を大切に生き、自分自身を大切にして、楽しみを見つけ余暇をとって、楽しく生きる。

 

激動とは嵐であり、平凡とは日なたである。天気の良さを存分に感じ取り、日々の時間を噛み締め、毎日食べる食材を存分に味わう。格好の良さに心躍る時期は過ぎてきたのだと思う。もうちょっと、毎日を生きる自分に、おもしろさというものを日常的なものに変化させていくべきなのではないかと感じる今日この頃である。