川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

清潔感

 どうしても好きになれない概念の一つに清潔感というものがある。内面は外面に現れるとか、外面をこだわっていない人は内面も期待できないとか、清潔感を持たせることに対して定型的な煽り文句が使用されるのを目にする。案外この文言は強い。そうかなとちょっとでも思わせてしまうその言葉の強さは、他の思考を遮る作用がある。清潔感とは、昔でいうところの学歴と同義であると思う。努力をすれば報われる社会において、学歴を持つということは努力ができるという前提条件であり、安定した生活基盤を手に入れることできるとみなされる。今の時代では、美醜が評価される要素が強い。youtubetiktokでは、美しさによる評価が如実に数値としてフォロワー数という値で表現できる仕組みであり、美しさとそれを維持する努力を続けることで、他者からの評価を得ることができる社会となっており、清潔感をもつことが他者との営みを適切に維持できるとの評価を受ける。

 

 生物において、美しさというものは、遺伝子の強さを表す。美しさが表わすものは、子孫繁栄のための若さであり、群れの中でのポジションを維持するための測りであり、強者からの寵愛を受けるための武器である。あまりにも技術が進みすぎて、何を軸とすればよいのかが不確かな社会において、本能的な美醜を他者への評価基準とするのは、さもありなんといえる。飢えることなどないのだし、個人主義的な一人一人が尊重される時代において、他者を顧みる必要性ということ自体がなくなっている。重要なのは、自分自身が害と認識する要因を他者から受け取る機会を減らしたり、少なくしたりすることであり、その中で本能的な美醜を追い求めることはとても腑に落ちることである。

 

 人からの害のなさを端的に表す言葉が、「清潔感」である。相手を考えて、「におい」を抑制し、物理的な害である「菌」を感じさせず、肌や髪の質感から、「健康さ」を匂わせ、それら総合的な他者の目線への対応によって「優しさ」を読み取らせる。確かに清潔感とは、他者というものを極端に意識した配慮の総合能力であると言える。それがあるかないかで、舞台に上がれるか否かが決まるため、それを習得しないことによる不利益は想像には難くない。でもその感覚が相容れないのは、相手のことを早々に見切りをつけるという、他者の切り捨てを感じるからである。清潔感という用語を使用するのは、あくまで自分の利益を得るための戦略的な手段としての考えであり、他者への本質的な能動的な優しさを感じられないのである。

 

 言葉として、相手に「清潔感」というものを求めるということは、自分のきれいな人生をそつなく生きるための、そのお膳立てをしてくれという傲慢さを感じてしまう。「清潔感」という文言で相手を縛るのは、自分に害をなすなと暗に明示しているに等しいからだ。そして安易な「清潔感」という言葉にその傲慢さをうまく隠すための狡猾さすらも感じ取れてしまう。なぜ好きではないのか。一言でいえば、そこに「魂」がないからだ。何がしたい。これがしたい。誰かがこうであってほしい。こんなことがあるといい。純粋な感情は、人の心を動かす。隣にいる人に笑ってほしい。山を登り続けた際に見える景色を見てみたい。人を笑わせている自分自身が好きだ。その純粋さはなんでもいいのだけれども、他者への優しさを至上の徳とする自分の考えとしては、誰かに何かの思いを届けてほしいと思う。その考え方が感じられない。

 

 マッチングアプリでは、2か月に40人と会うこともよくある話なのだそうだ。それは就活というものと同じである。何社も受けて、自分が釣り合うと認識する会社とマッチングすることで、入社を決める。売り手市場の美しさを持つ女の子は、清潔感というものでフィルタリングを行い、人数をこしとり、安定さ害のなさで最終の一人を搾り取り、恋愛して結婚する。

 

 そう考えると、間違っているのはぼく自身のスタンスなのであろう。上記はシステマチックであり、誰もが採用できるスタンスである。「清潔感」とは、他者への配慮の可視化という、技術であり、技術である以上誰でも習得・改善できるものである。人類が存続していくためには、誰でもができるということがポイントであり、「魂」などどいうあやふやなものを根拠にすることの方がどうかしている。子供から大人になる過程において、もっとも大人なふるまいとは、自己評価をさげることであり、荒唐無稽な夢から醒めて、現実的なラインに落とし込むことが現実を生きるということであり、そういった人々で脈々と歴史が形作られている。確かにその中でもたまたまの大成功を引いた人もいるのであろうが、そんなものは確率的に1%にも満たないであろう。案外賢いふりをしているけれども、好きなことで生きていくという、あほっぽい姿勢に同調しているのは、誰よりもぼく自身なのかもしれない。

 

 こうやって考えてくと、好きではなかった「清潔感」というものではあったのだが、一段深い切り口で考えてみると、それは案外女性側からの優しさを表わしているのだと思った。男の合格ラインのわかりやすい間口として、努力可能な習得できるものとして、このラインまでであれば受け入れることができると、ラインを決めてくれている。女性は女性自身の体験をもって美醜にはとても敏感である。美醜という観点で常に厳しい生存競争にさらされ続けた女性陣から、ここまで来いと高みから見下ろすその姿勢は、一人の人間としても、理解ができるものであると感じる。怠惰な男性陣への最低限の基準を満たすガイドラインが制定されているのであれば、それぐらいは努力してあげるのが、男の本懐であろう。

 

 種全体の生存という一点において、システムはできるだけ持続可能で清濁併せ持つものでなくてなならない。「魂」などということを求める、自分のある種の潔癖さに気づかされたのではあるが、清潔感という達成可能な目標を提示していもらっているのであるから、そこに向けた努力は必須だなとしみじみ思った。