川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

ブレイキングバッド

やることがあるけど、やりたくないときは現実を逃避するに限る。坂口安吾堕落論において、すべからく人は堕落するべきだと言っていたが人は堕ち続けられるほど強くはないとも言っていた。たとえ逃げ続けようとも、結局逃げ続けられない自分を毎回発見する。根が小心者なのだろう。それが無意識であろうが、意識があろうが、将来の自分にとって不利有利かを計算し、それに沿うよう妥協できるぎりぎりのラインを渡って行っているような気がする。

 

現実を逃避している最中に、壮大な現実逃避の物語を見てしまった。ブレイキングバッドである。海外ドラマはとにかく長い。一旦はまると抜け出せないのだから、気軽に見始めるのはおすすめできない。でも、どうしてもいっぱいいっぱいの時ほど、みてしまう。しょうがない。一生懸命生きてきたのだから、たまには息抜きが必要である。それが忙しいとか、環境の変化があるのであればなおさらだ。別にやることをやらなくて人に迷惑をかけようが、そういうときもある。すべてを完璧にやろうとはおこがましい。そう自分に言い聞かせて現実を逃避する。こなれたものだ。大人になるとは、ずるくなることだともいえる。

 

ブレイキングバッドは海外で最も評価されているドラマとの評判である。友達からも見てみろと言われていたドラマであったが、見ていてとても意外だったというのが第1印象である。なんせ海外ドラマ特有の爽快感が全くない。シーズンも進んでいくとそんなに強い引きで終わらせるわけではなく、毎度登場人物のやるせない気持ちを反映するかのように無音でエンディングを迎える。感情に沿う見方の僕にとって、とても疲れるのである。確かに疲れるのであるが、見ていていいなと思うのが、登場人物の見せ方だった。けばけばしい装飾がない。いい人に見せようとか、楽しませようとかがない。与えられた、極限ともいえる状況に対して、その人たちそれぞれの変わらないリアクションがあるだけだった。

 

過去を振り返るのは年を取った証とも思えるが、人なんてものは結局のところ変わりはしないのだと常々経験則から思っている。もし変わった人がいるとすれば、それは変わりたいと思う意思を元から持っていた人で、何かに対してのリアクションはさほど大きく変わるわけではない。この物語の主人公は常に絶望の状況に追い込まれる。追い込まれ絶望の状況にあって、選択肢が少なくなった時に人の真価としてわかりやすく現れる。主人公がもつ暴力的な影があらわになる。家族のためと言ってはいるが、結局自分の能力を確かめそれを評価されることを渇望しているのではないか。そう思わずにはいられない。

 

堕落論において正しく堕ちよと言っていたが、本当に堕ちきることで最も純粋ともいえる自分の核に出会えとのことなのだと思う。見せかけではなく、本当に何がしたいのか。何を求めているのか。そういう自分の中心と向き合えと。そこからしか、本当の始まりを進めることはできない。そう言いたいのだと思う。

 

最近はとても様々な物語に触れることができる世の中になった。すごいことだと思う。缶詰め状態のホテルの中で誰とでも連絡が取れて、古今東西様々な映画・ドラマ・小説などにアクセスできる。活かさない手はない。なかなかに人は堕ちきる勇気がもてない。その堕ちる過程の一端を担ってくれるのが、小説であり映画でありドラマである。大切なのは認識するということだ。ジョジョの奇妙な冒険の第3部に出てくる、エンヤ婆は時を止める能力を使い始めたDIOに対してこう語っている。

 

DIO様、あなたは必ず時を支配できる。もっともっと静止した時の中を動けると思いなされ。空気を吸って吐くことのようにHBの鉛筆を指でベキっとへし折ることと同じようにできて当然と思うことですじゃ。大切なのは認識することですじゃ。出来て当然と思う精神力なんですぞ」

 

認識したからこそ承太郎も時を止めることができた。実際にやってみないことには、絶対に分かり得はしないのだろうけれど、そんな世界もあると認識することはできる。出来て当然と自分に思うことができれば、麻薬王にもなれる。たまにはこういった、ダークな逃げ場のない世界を認識することで、多少なりとも自分の世界を広げることができる。そんなことを想起させるドラマだった。

 

菊と刀

海外で住むのであれば、日本のことを知らなくてはならない。右へならえのとても日本人らしい発想だなと感じていたけれど、読まないよりは読んだ方がいいかなと思って、ルース・ベネディクト著「菊と刀」を読んだ。感想は驚愕の一言である。

 

ルース・ベネディクトアメリカ人の文化人類学者であって、一見矛盾だらけの不可解な日本の文化について、アメリカ人が理解できるように書かれている。後から知ったが、著者は女性なのだそうだ。日本人の親子の家庭でのしつけの描写がきめ細かいことは少し気になってはいたが、女性と聞いて腑に落ちた。この本が書かれたのは第2次世界大戦中という事実にはたいそう驚く。実際に日本に行けない状況の中で、本来忌むべき戦っている相手を文化的にも考察し、戦い終わった後どう統治するかまでを見据えて書かれているのだから、アメリカの大国としての器が窺える。書いてある内容についても、とても克明で幅広く制度的・歴史的な考察もよくなされている。彼を知り己を知れば百戦危うからず。古今東西問わずに活かせるとても素晴らしい態度だと思う。

 

方法論としては、文化人類学者の立場から日本人がもつ一見孤立したように見える行動には、必ずなんらかの体系的な関わりがあるという前提の元、調査に及んでいる。全く不可思議に見える日本人のその体系的な関わりを仮定し、生活の隅々に現れているかを検討・検証していくことで、日本人全体の行動の原理を実証していく。とても敬虔な態度だと思う。アメリカ人が持つ特有の文化的背景。そういったものを一切取り払って、日本人がもつ行動の意味をただただ検証している。

 

このままこの本のすごいと思うことを眈眈と書いていってもいいのだが、自分にとって本を読むということは、2階の部屋からビー玉を無造作に外になげて、どこにあるかわからない琴の弦に当たった時の音を楽しむというような酔狂な意味であるので、せっかくなので自分の琴線に触れたものについて、話してみたい。

 

最近自分の意見を持つべきだとよく世間一般で言われるようになった。これは工業的・情報的な社会の中で、個人個人が価値判断を行うようになるべきとの、無時間的な価値観の集大成だと思っている。消費の主体たる個人は、年齢がどうであろうとお金を持っているだけで消費主体として認識される。それはある種自分の行動に全ての責任を負っているような、全能感を持って行動することを意味する。自分にとって何が良くて何が悪いのか。自分の中にある基準のみから、全てを判断することになる。

 

最近人と話していて、私はとか僕はとか俺はから始まる客観的な意見を含まない主観的な意見を良く耳にする。それはある意味では、自分の意見以外のものを切り捨てているような気がしてどうしても引っかかっていた。自分自身の心にしたがって生きる。好きなことで生きていく。とても聞こえはいいが、人の考えを排除することで可能性を閉ざしているように感じられる。何千人の一人のカリスマであれば別だが、案外人なんて、都合の悪いことは聞こうとしないし、聞こうと思わないことについては聞かないことができるものだと思う。

 

それは果たしていいことなのだろうか。本当に自分自身の中の基準のみで十分なのか。自分自身の未来の成長を今の自分が全能的に知り得るのだろうか。無知の知に対する畏敬の念が失われているように思われる。

 

菊と刀を読んで一番琴線に触れたのが、何かを知ろうとするときの謙虚な態度だった。知らないものがあって、知ろうとしている自分がいる。今までの価値観では測れない文化があって、それは確かにそこに存在している。理解をするためには今までの自分を保留しなければならない。不可解な行動があって、それらを統合するパターンを見つけ出すためにいくつもの特殊と思われる事例をピックアップする。想定されるパターンを仮定し、他の事例と照らし合わせて実証していく。常に事実の前には無私でいなくてはならない。僕自身が理系であるのでとても納得できる方法であった。日本人である自分が見ても快哉と膝を叩きたくなるこの本は、とてもあざやかに日本人の摂理を描き出している。それは無私のたまものであると思う。

 

本を読むとは、他者を理解しようとする能動的な優しい行為だと思っている。だから、本を読む人が好きである。歳を経るにつれ色々な世界を知って、様々な考えを持つ人がいることが分かった。少しずつではあるが、本に書かれている内容や書こうと思った意志を理解できるようになった。少しは大人になったのだと思う。趣味が読書というと変わっている人に見られることも少なくはないが、誰がなんと言おうととても大切な行為だと思う。

 

これから先海外に住んでいて全く違う慣習に触れることが多々あると思う。当然としてその国独自の文化があり、その奇妙に見える慣習を成り立たせるだけの背景がある。菊と刀を読んで、他国の文化を理解する一例を学んだ。そうであるのならば、まずはそれと同じやり方でその国の文化について、生活していきながらゆっくりと理解していきたいと思った。

缶詰生活

海外に来ることになって、初めて2週間のホテルでの隔離生活を行っている。俗に言う缶詰生活というやつであろう。赴任したてで知る人もおらず、在宅勤務とは名ばかりのただゴロゴロするだけの生活である。

 

思えば一回やってみたいことの一つではあった。何を言われるでもなく、ただ同じ部屋に2週間こもる生活。別に日ごろから自粛しているような行動であるため、そんなに不自由を感じはしないが、変わることといえば気分転換にコンビニに行けないことと、ホテルが全面禁煙であることくらいである。特に文句はないのだが、タバコくらいは吸わせて欲しい。

 

何をやるわけでもないし、時間も有り余っているので、ブログを始めることにした。誰に伝えたいことがあると言うよりは、常日頃自分が考えていることを文字として残すことで、その内容の傾向と、書く文章の調子を知りたかったからだと思う。

 

友人夫妻で海外にでて、現地での生活の様子や食事などについてブログを書いている人がいる。駐在員夫妻として夢のあることだ。ただ、どうしてもそのブログを、自分自身がもつ色眼鏡を通してしか受け取ることができないのは、僕の性格の悪さの理由と言っていもいい。ひねくれている。笑って幸せそうな人を見ると、それと同じくらい不幸せな人がいると思ってしまう。ただそれだけの話だ。

 

川を枕にして石で口をそそぐ。自分の頑迷な性格を分かったままに、分かったとしてもそうとしか生きられなかった自分が、何に対してどのように感じ記述していくのか。気の向くままに思ったことを書いていきたいと思う。