川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

事実

よく、人の気持ちを考えなさいとか言う人がいる。人の感情を逆なでするような言葉をよく発していた分だけ、あまり人の感情を忖度せずに、思ったことを言ってきた。本当は忖度に忖度を重ねた末、思ったことをはっきりと言うと決意して言っているのではあるが。そういう時に、この人の気持ちを考えているのかと、第三者が決めつけをする。言っている当人と言われている本人の間で、特に負の感情はないのだが、はたから見ていると喧嘩をしているように見えるのだろう。でも、それは事実を言っているだけであって、余計な感情を載せていない。その第三者が憐憫とか不憫といった感情を載せているのである。

 

友達に頭が悪い人がいる。この文章だけを切り取ると、人のことを下に見ているとか、人の気持ちをわかっていないと言われる。話は最後まで聞いてほしい。頭が悪いを一概に定義するのは難しいけれど、朝三暮四のように目先のことにとらわれて包括的に結果を考えない、時間的な想像力の無いことを頭が悪いことだと定義することにする。その友人は、孤独にはなりたくはないと思いながらも、日々を無為に過ごし、同僚とのコミュニケーションがうまくいかず、ただ辛いと言って生きている。長年の付き合いであり、将来死んだ魚の目で社会人を生きる様子がありありと思い浮かべたため、そのままだと大変だよと、学生のころからやんわりとアドバイスをしてきた。日々の生活の中で、小さな成功や感動を感じることがなく、感情というものが薄れていってしまう。そんな予感がしたからだ。結果的に彼が変わることはなかったため、自分のちっぽけさを認識するとともに、人というのは外部からの刺激で変えることができないのだと、思い知らされた。

 

その友人は、結婚をして子供を持ちたいと何かしらの部分では思ってはないがら、そんな人生を送ることのできない自分自身と対峙している。まともな神経であれば、孤独への恐怖に耐えきることができずに、行動を起こすのだが、今まで生きてきた経験がそうさせなかった。市場主義経済で育った子供にままある考え方ではあると思うが、対価という切り口をもって考えてみたい。彼がたまにいうのだが、人と話すのであれば、相手が愚痴を言った時間の分だけ、自分も愚痴を言う権利があると言い、恋愛においてみれば、生まれ持った自分という容姿の整っていない人間が、ダメな人特有の面食いを自認しながらも、それを手に入れるまでの労力が見合わないことを指摘している。子供のころから、コンビニでお金を出せば年齢に関係なく商品を手に入れるという世の中であり、努力とは最少の労働で得られる対価を最大にすることだという資本主義の概念こそが、このモンスターを生み出した。

 

彼の人生におけるもっともコスパのいい体験は、勉強をするということである。それが彼の人間性を強烈に形作った。うだつの上がらない父親は東大出身だという。コミュニケーションの上手くないその父親を目の前にして、そんな父親でも生きることのできる理由は、学歴があることなのではないかと育ってきた環境の中で感じ取っていた。父親譲りのコミュ障は、彼にも遺伝し、運動部でありながら、部内での自分の居場所を作ることができなかったため、残された道は勉強しかないのだと、彼は確信するに至った。時に選択肢の無さは大きな力になる。残された道も後もない、その勉強という行為は、人との接触とは関係がないため、彼の持てる能力を発揮させ、有名大学へとすすまさせた。大学においても、コミュ障をいかんなく発揮し、鬱屈とした生活を送っていたのではあるが、ぎりぎりの最低限の努力により単位を取り、論文を書き、卒業をした。有名な大学において理系であれば、有名な企業に入ることは案外簡単なことである。学歴というフィルターが常にかかっており、そのフィルターはその人自身の人間性をぼやかせる。そうやって、自分自身ができる範囲内で、傷つかず、最低限の努力で、安定した生活を手に入れた。何よりも強烈な成功体験である。

 

こうやって言葉にすると、彼は頭がいいのである。自分自身にできること、できないこと、自分が傷つくこと、傷つかないことをわかっており、コスパという観点で、最低な努力で、自分自身が手に入れられる最高の地位を入手した。そのマニュアルを売れば、金になるのではないかというほど、構成がよくできている。モチベーションとかそんな生ぬるい感情ではなく、残された選択肢を必死に手繰り寄せた結果なのである。これは強烈な成功体験である。誰よりも、自分にできることを吟味して、切り捨てるものを切り捨てて、与えられたカードのみで勝負している。自分の人生に、責任を負っていると言うこともできる。

 

対価という概念をもって、一番難航するのは、人間関係、特に恋愛である。彼にとって人との関係性はある種利害関係であり、誰かの隣にいることができるのは、その人が自分に利益を出せる存在であり、それと同時に自分もまた隣にいる人に利益を出せる存在だからである。そこにでっこみ引っ込みがあったとしても、原則は変わらない。自分が利益を感じるというのは、言うまでもないのだが、彼自身が人に利益を与えているのかどうかが、彼にとって案外大きな問題である。彼は人間関係を、めんどくさいとか、人間の考え方がわからないと言って終わらせてしまうが、彼自身が自分を低く見積もっているため、相手の隣に居れるだけの自分が提供できる利益を持ち合わせていないと、自分自身を決めつけてしまう。そして、そんなことに思いを巡らせるその時間と労力によって、自分自身が削られることの害を忌避して、めんどくさいという言葉を使用する。いつも彼が行動をする理由は受動的であり、彼が他人から求められるという利益を人に与えていると彼自身が認識する状況においてのみ、彼は誰かの隣にいることを選択する。そして、彼自身が人間関係に関して常人には要しない努力をしなければならないため、その努力に対応するだけの見返りを求めるようになる。その意識の違いが関係性を終わらせてしまう。とても哀しいことである。

 

小さなあかんぼうから始まって、大きく育った過程においては、対価という概念では説明のできない変貌を遂げている。母親が十月十日腹を痛めて産んだ子供に、愛情を込めることはあれ、求めるものはないという状況は、一般的な感覚であれば割と想像には難くないであろう。その無償で与える愛情を彼は理解ができない。彼にとってすれば、愛情というもの自体をもらっていないとか、母親から受けたその借りを経済的に自立することができるようになったという時点ですでに、返しているというのではあろうが、彼は定量的に指し示すことができない愛情というものを、想像し理解することができないのである。

 

感動とか、喜びとか、それは彼には計ることができないものであり、彼には認識ができないものである。真面目に話をすると、頭よさげに論理的に話をしているようなのではあるが、自分の領域の中でのみに発揮されるその言葉は、一見する価値はあれども、一存する気にはなれない。特に自分で自分の人生を選んだのだから、その責任は自分が持つもので、会社を選んだ時点で自分の行動を予期すべきであり、自分のできないことを愚痴にする暇があるのであれば、やめるなり何かしらのアクションをするべきだという、言葉に共感できる点は少ない。入社する時点で、自分の将来のありありとやる気のない様子を思い描いているのは、驚嘆の一言であるが、自分の成長やまだ見ぬ隣人からの未知の影響、すべてを差し引いてしまっている。すべてのものを自分の想像の範囲内で納めることで、これからの希望や成長を削除してしまっているともいえる。確かに自分の行動を全能的に理解していると認識すれば、自分自身を管理するコストは少ないだろう。今までの生き方を踏襲し、自分自身に新たに生まれる感情や人との衝突における葛藤に目を向けなくて済むのだから。本人に取ってみれば、その得体の知れない感情はわからなく計れないのだからリスク以外の何者でもない。その葛藤や新たな感情という推し量ることのできない、感動や喜びというものを理解しようとしない以上、今後も変わることはない。それを分かろうとしない、その欠落した想像力を頭が悪いと言っているのである。欠落した想像力のままでい続けて、得られる利益を逸していることについて頭が悪いと言っているのである。ただ、知らないものを理解することはとても難しい。ましてや人間の感情なんてものは、目に見ることが出来ない。それでも、見つけようと努力すること以上のことはできない。

 

愛とは一方的に相手に与えるものである。見返りを求めないのが愛である。キリスト教から始まって、色々な小説や映画やアニメで描かれている。相手からもらったものの大きさをはかり知ることができないから、無償の愛を相手に与え続けることになる。そこには損得勘定もなく、逆に言うとすでに見返はすでにもらっているとも言えるのだが、考えようによってはとてもコスパがいい。相手に、何かを与えたとして、そこに想像を超える恩義を感じると、与えたものと不釣り合いな義理が果たされる。ただより高いものはないというように、受け取ったままである感情を自分にためるのは案外居心地が悪い。その居心地の悪さを解消するように、相手にお返しをするのが通例である。誰かに何かを与えるということはとてもコスパがいいことなのである。対価という概念をもって人に相対する彼自身は、自分の苦しみも相まって人からの見返りを求めてしまうため、無条件に人に何かを与えるということを受け入れることができない。彼自身が何十年と繰り返した毎日をこれからも繰り返すと、自分の人生は自分の責任なのであるから、それで構わないと、そういうのであれば、それもそれでいい。でも、何かがきっかけで変わるその一縷の奇跡を目の当たりにしたいと思っている。その人自身の人生を変えるなんてことは、自分の足で確実に踏み出す一歩からしか始まらない。繰り返す毎日の積み重ねをあなどってほしくはない。そんなことを暗に熱く、馬鹿にして笑いながらながら伝えるのではあるが、オンライン越しの画面で、変わりのない死んだ魚の目をした友人は、辛い辛いと言いながら今日もビールを傾けていた。ただ、最近アニメを見て泣いたと言っていたその心情の変化は、一縷の希望であることを願っている。

 

感情を伴わない、客観的に観測される現象を事実という。ここに書かれている文章も、多少のドラマティックな脚色と最後の方で少し願望は出ており、無理やりストーリーとして成り立たせるように書いているものの、自分が見て聞いて思った、友人の成り立ちを、憐憫も羨望も好きも嫌いも込めずに書いている。余分な価値判断をしてないということである。日々を辛いと思って生きることよりも、幸せに生きる方がいいというのは普通であれば持ちうる感情であるが、それは願望であり感情である。第三者の人がこれを見て、どんな風に取られるかは、その人が持つ感情的な要素に左右される。その感情を逆なでるという状況も理解できる。でも少なくとも、その友人以上にその人の気持ちの成り立ちを考えて発している。良いとか悪いとか、判断基準を抜きにして、自分がそうだと思う事実を書いている。そして、事実は事実として受け入れたほうが、いいと思っている。事実を認識すれば、変えるという選択肢を取ることができるからだ。世の中は平等ではないなんて、陳腐な言葉を繰り返すほど、人それぞれがバラバラなことを理解している人が少ない。まあ、ストーリーとして人生を一つの軸に絞って、記載していくと、とてもわかりやすいとは思うけれども、常にそうかなという疑問は必要だと思うが。

 

ただ、人の無意識であろうが、意識的であろうが、感情や根底にある考えを開示することは、それがあっていようが、間違っていようがとても残酷なことではある。自分は考えずにはいられない性格であっただけで、他の人にとってすれば、それは普通なことではない。人の裸を無遠慮に覗き見ているのと変わりはなく、自分の心を隠すのも防衛反応であったり色々と意味があることなのだと思う。人の感情を言葉として語りつくした時点で、語り尽くせるだけのちっぽけな人格に対してひどい虚無感に覆われる。善かれ悪しかれある意味で、人の心の何かを壊す行為であるとも思う。自分の辛い状況を笠に着てしゃべりたいことをしゃべり、この話を聞いた人の立場や気持ちや言い知れない感覚を想像できていなかった。今が幸せであるのならば、それをわざわざ壊す必要はない。そんな当たり前のことを想像できていない自分も、十分に頭が悪いとは思っている。