川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

平坦な道

退屈な人生をもとめている。誰よりも平凡なささやかな家庭を持つために、努力をしてきた。雨が降ろうが槍がふろうが、世界が核戦争の渦に巻き込まれようが、動じることのない確固たる意思を持てるように、自分の中にフラットな平凡さを持てるように生きてきた。平坦な人生を生きるがために、心の中は常に激動である。苦難を正当化する名言はたくさんある。この人生に酷い苦難をもう一度。天よ我に七難八苦を与えたまえ。自分自身の経験的にも、苦労の数だけ、成長はしたのだと思う。でも、その苦しみを経ないと成長はできないものなのだろうか。

 

人は自分自身の行動を正当化するものである。恋愛のテクニックに、強引に女性に迫ることで、その人と相対するために使用した自分の大切な時間を正当化するために、相手を好きになるという見解がある。辛いことも、苦しいことも、その経験を経ることは自分自身にとって良いことであると自分自身で認識する。

 

少なくとも、エンターテイメントに関しての感性が強い人間であるのならば、人生における浮き沈みを重要視する。何もない平坦なところを生きている人では、相手に興味を惹かせるだけのとっかかりがなく、特に物語が生まれにくいものである。自分の短所やクセというものは、人を惹きつける武器であり、それは道化やおちゃらけと言った観点で、人を魅了する。

 

いつの世の中も、成功者とは声の大きい人たちである。成功している時点で、それは説得力があり、伝記や偉業として語り継がれるが、平凡な人々の声は案外残らない。偉業を残すことはかっこいいことである。でも、それだけではこの世の中は回らない。平凡な人がいて、そこから突出している人がいて、怨嗟や憧れや嘲笑やさまざまな感情がありながら、物語を形成する。もうちょっと、平凡なものというものに焦点を当ててみたい。

 

一般的には、自分はモブと呼ばれる存在であろう。ただただ一生懸命働き、ちょっとだけ人より物を考えるだけの、あまり特徴のない存在と言える。別に突飛なことをしているわけではないのだし、会社員として普通の人生を生きているのだから、そこらへんに生きている人と変わりはない。自分自身特に称賛を得たいわけではなく、どちらかというと、この世の中の根底に会い通ずる真理を把握したいという、そういうことに興味があるだけである。

 

激動な人生はかっこいい。だからこそ、そうであるのはもういいかなと思う。それなりに自分自身の中に激動を感じ、苦労し、限界まで追い込まれるほど働いてみた。そして、それに疲れてしまった。それは、自分の中に存在していた、やれるところまでやってみるという純粋な好奇心というものが満たされてしまったため、激動に対してのモチベーションがなくなってしまったのだろうと思う。今はなんとなく惰性で生きている。過去の経験の貯金を切り崩している。そして、そろそろ落ち着く時期なのではないかと感じている。

 

激動を求め、その中に自らを置き、能動的に行動してきた。そして大体の感情の整理ができた。これからは、平凡というものを大切にしてみたい。日々を大切に生き、自分自身を大切にして、楽しみを見つけ余暇をとって、楽しく生きる。

 

激動とは嵐であり、平凡とは日なたである。天気の良さを存分に感じ取り、日々の時間を噛み締め、毎日食べる食材を存分に味わう。格好の良さに心躍る時期は過ぎてきたのだと思う。もうちょっと、毎日を生きる自分に、おもしろさというものを日常的なものに変化させていくべきなのではないかと感じる今日この頃である。