川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

黒子のバスケ事件最終意見陳述

8年以上前になるだろうか。Facebookを何気なくみている時に、黒子のバスケの脅迫事件での犯人の最終意見陳述の記事が共有されていた。事件の概要はなんとなく知っていたけれど、この陳述の存在を知らなかったのだが、見てみてただただ驚いた。自分が犯人として、どうしてこの行動をするにあたり、どうしてこの犯行を行うような人間になったのか。生きずらさを抱えている原因と、生きる気力のない理由を淡々と論理的に書いている。子供の教育に携わる全ての人に読んで欲しいと思えるほどの内容であった。驚愕の才能である。陳述の最後で、関わった人達から「あなたはこれだけの文章をかけて、犯行の手口を見ても地頭がいいと一度ならず何度も思った。何かの形で社会の役に立つことができるのではないかと思う。もし、懲役から解放されて自殺を選んだとしたら悲しく思います。」と言われたと書いている。そう言われたことに、感謝の意を示していたが、心が揺れ動くことはないのだろう。本人は自分のことを「浮遊霊」と評していた。無気力な状態に、力を込めたところで何も変わることはない。必要なのは、この世の中に浮遊霊という存在をとどめておくほどの、鎖である。それはその人がいないと生きられないと思えるほどの無防備な存在か、生きてほしいという呪いである。表面的には、無職のオタクによる才能ある作者への嫉妬と脅迫という、簡単な事件ではあるのだが、その人を成り立たせるに至った背景を考えると、映画のJOKERのような、心が掻きむしられるほどの悲しい物語である。

 

原稿用紙44枚にも至る最終意見陳述の中で、子供の頃の感情の芽生えについて書かれている。子供にとって一番大切なのは、安心なのだという。子供が行動を行う際に、何か怪我をしたとする。その際に、母親が寄ってきて、「いたいのいたいのとんでいけ〜」という。よく見る光景である。その時、他人から言葉として言われることで、子供本人の事象と感覚の中に「痛い」という感情を自覚し、それを母親と共有していることを理解する。それが感情の共有である。見守られている安心な状況の中で、ある事象によって引き起こされる自分の感情を他人とともに言葉と併せて自覚する。他人とともに感情を共有しているため、人の痛みや悲しみを労わることができるようになる。そして、痛いことを遠ざけるために、親から言われた火や刃物に近づいてはいけないなどといったルールを守るようになる。これが規範の共有である。痛いという感情以外にも、家族との触れ合いの中で自分の感情を自覚していく。この一連のしつけの流れが、社会的人間になるためのステップである。この安心というプロセスの中で生きてきた子供には、自分の中に何をしていい何をしてはだめかという保護者が内在しているため、一人だけでの行動が可能になるといっている。これを親との愛着関係という。思春期・反抗期の中で、この愛着関係が正しいかどうかの判断を行い、一つの自己として存在を確立するに至る。

 

それができない存在を「浮遊霊」といっている。浮遊霊は親から安心というものを与えられてはいないため、感情の共有ができず、規範が存在する意味がわからない。そしてなにより自分に起きた事象と感情との結びつきがとても曖昧である。自分の感情をうまく自覚できていないため、社会に生きる中での遵守するべきルールの意味と対価を知らないので、義務的に遂行するその状況に疲弊していくのみである。努力をすれば報われるのは、努力をした先に報われる自分を思い描いているからであって、そこに描く自分をそもそも持っていない浮遊霊という存在には、努力を押し付けることの無意味さを説いていた。

 

「事実」というコラムの中で書いた友人は、ある種「浮遊霊」に近しい存在である。自分の感情を自覚せず、自己を確立する術を知らず、人との感情の共有を知らず、規範の共有を知らない。定量的に見える対価はわかるのだが、社会に生きる上での対価を見出せず、いつも辛いと言っている。おせっかいな気持ちで、彼を変えたいと思って色々なアプローチをしてみたのではあるが、長年の関係性のなかで何も変わらないと悟った。幸運にも自分が成し得た成功体験を説いたところで、彼の感情の中に存在し得ない努力の意味を、彼が見出すことはないからだ。それは彼の責任ではないし、親の責任でもない。世の中と人との、巡り合わせの結果に過ぎない。それでも自分にできることは何かと考えた末、彼に呪いをかけることにした。彼と会うと、彼のことをいつも馬鹿にして笑っている。誰よりもずっと笑っている。2人で飲みに行って、5時間ずっと馬鹿にして笑っている。「たまたま今回だめな人生だっただけだよ。」「今から頑張ればあと30年後くらいには性格が直って、結婚できるんじゃない?」荒唐無稽で現実逃避な言葉を口にすることで、彼の不遇をエンターテイメントにして笑った。人の不幸は蜜の味と呼ばれるように、人の不幸話を聞くのは面白い。そんな性格だからだめなのはわかっているのだが、「浮遊霊」のようにただ生きることを続ける存在に、人を笑わせる存在という縛りを課すことで、その存在に輪郭を与えたかった。そして、そんな存在を楽しんでいる自分がいるのだから、生き続けてほしいという呪いをかけている。それがいいことなのかは、今でもわからない。

 

この世の中は、簡単なものが好まれている。youtubeにはぺたぺたとテロップが追加され、ネットニュースにはセンセーショナルな見出しと中身のない内容の記事がもてはやされている。複雑な世界をシンプルに考えることは、とてもわかりやすいことではあるが、大体の場合そうでないことの方が多い。シンプルな言葉で全てが解決できるのであるならば、大人たちがこんなに悩んで、苦しんではいない。複雑な内容を複雑に理解する考え方をする人はとても少ない。最終的にシンプルな答えに至るまでの過程を忌避しているような気がする。言いかえれば、成熟した大人が少ないということである。本来であればそれを伝えるのは、親の役割であり、上の人たちの世代の責務である。あまりにも恵まれた生活の中で、とても幼稚な世の中になったのだと思う。

 

大学で建築をプレゼンしているときに、たびたび言われた言葉がある。「あなたはその作品でこの世にどんなアンチテーゼを問いているのか?」当時はとても性格の悪い教授だと思っており、意味がわからなかったけれども、今であればわかる。永年の傾聴に耐える作品は、常にこの世に対しての疑問とその世の中を生きる自分の葛藤と、それを変える力に満ちている。そしてそれを理解するには、自分の中に気づきへの意識を常に持っているかどうかが重要になる。そして、その意識を持つことができるのは、上の大人の人達をみて、そうでなければならないと憧れることができるかどうかによる。時にはそれが失望であったり侮蔑であったりもする。教育とは、なりたい存在を示し、生きていきたいと思わせる社会を見せることだと思っている。人がそうなりたいという憧れを覚えれば、あとは勝手に気づきと学びを覚えていく。別に皆が皆そんな複雑なことを考える必要はないのだが、社会の存続を考えていく上では、ある一定以上の人数は必要である。そしてそれはノブレスオブリージュという考えであり、善意のボランティア精神である。誰のためにやっているわけでも、利益のためにやっているわけもない。自分の納得のためにやっているだけである。あまりにも日本という世の中が貧乏になったことで、決められたパイの取り合いになっており、互いの監視が強く、自由なことができない世の中になってしまっている。そういう人たちは干渉することなく放っておけば、勝手に何かしらの行動を起こしてくれるものである。過度の干渉により、気概が削がれてそもそもの行動しようとする意思すらも奪ってしまう。

 

本人も書いているが、この意見陳述を読んで見当違いの見方をする人々が多く存在する。「生き霊w浮遊霊wとか言い出した。精神異常者と自分を認めることで、減刑を狙っているんだろう」と的外れの意見を言っている人がいる。それは幸せなことである。自分が持ち得ない感情を理解することは、とても難しい。この意見陳述を理解できることは、何かしらの生きづらさを抱えていることに他ならない。これだけの文章を書けるのは、とても頭がいいと僕自信も強く思っている。浮遊霊という存在がない世の中であってほしいと願うことは、いじめがなくなることと同じくらい難しいし、今現時点でそうである人を否定しているため、そう思いたくはないのだが、そんな人たちが少しでも生きたいと思える未練のある世の中になることを切に願っている。

 

幸せな人には、不幸な人を見て、努力すればいいとか頑張ればいいとか勝手なことを言う人がいる。おせっかいな人によくある考えだ。でもそれは、「パンがなければお菓子を食べればいい」というほど、無責任で残酷な言葉であることだけは自覚してほしいと思っている。