川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

理由

自己肯定感が少なく、臆病な人間である。心からこうしたいという宣言を持ちえない自分の空虚な内面が露呈されることを、いつも恐れていた。怖さから逃げるのが動物としての本能だからか、自分の内面を隠すように、末っ子としてわがままが許される立場で、与えられた自分の役割に求められている期待を感じとり、表面的なわがままさを押し通す技術に秀でるようになった。勉強ができることも、道化に興じて笑いを取れることも、その結果である。太宰治人間失格とまではいかないが、求められる期待に応えるという他に、自分の存在する理由を見出すことができなかった。とても受動的な人間である。周りの人からすれば、積極的に勉強し、さまざまな挑戦を行い人を笑わせる能動的な少年に見えたのだろうが、自分の感覚からすれば、ささやかな将来に起こりうる障害に先手を講じて対処しているだけであり、何かに対しての反応という意味では、根本はいつも受動的であった。

 

そういう時に困るのが恋愛である。恋愛とは、わがままの押し付け合いだと思っている。自分のわがままさなど、ご飯をおいしく食べて、本を読んで知見を得て、飲み会で少し話して優越感に至るだけの、つまらないものでしかない。美人な女性を求めるという欲望はあるものの、特段容姿がいいわけでもなく、概ね自分一人で解決できてしまうそのわがままさには、他の男を出し抜いて競争の激しい美人の女性を手に入れるほどの、強い引きは無い。平凡な毎日にちょっとした楽しみを見つけるその繰り返しの毎日は、誰かとの物語を形成できるほどの余地がなかった。他人を優先するという意味では、自分の欲望に忠実な人たちと相性が良かったため友達には遊び人が多かったのだが、そういう友達が欲望のままに、女性を手に入れているのをみて、到底自分にはできないことだと思っていた。

 

たまに好意を向けられることはある。側から見れば活発で穏やかで、勉強も運動もそこそこできるため、ステータスを所有するという意味では悪い存在ではない。でもあくまでそれは、ブランドもののバッグを見せびらかすような意味合いであって、きっかけにはなるけれども、関係性をうまく構築できるということではない。他人から求められる表面的な期待に応えることはできるけれども、自分の中にあるぽっかりと空いた空洞を見られるのが怖かったためか、良い面だけを見せようとして一定の距離をたもち、踏み込めないでいた。人が自分に好意を向ける理由。自分が人に好意を向ける理由。それは何だろうと、いつも自分の片隅に置いていた。

 

イップス」という事象がある。スポーツにおいて、重大な局面で自分の動きを忘れてしまい、前と同じような華々しい活躍ができなくなることである。武井壮が「イップス」について、それは自分の体の動き方を厳密に知らないから発生すると言っていた。動きの流れをどの部分で切ったとしても、それを再現できる身体の把握を行っていれば、そんなものは起こらない。この言葉に強く共感した。

 

恋愛ができないのは、失敗を恐れているからである。たとえ相手が自分に対して好意をもっていたとしても、女性特有の「あなたは悪くない」という狐につままれたような謎の論理により、恋愛を喪失する予感がいつもしていた。その感情を自分も持ち続けていたから、理解ができる。相手のことを「何となく好きだ」と思えるまでの自分の感情の理由が分からないと、「イップス」のように突然何かの拍子に、今まで好きだと思っていた気持ちが分からなくなる感じがするからである。結婚は人生の墓場である。手垢のついた使いまわされた言葉である。誰かが隣にいるのであれば、幸せにしなくてはならない。そんな謎の使命感があるから、墓場と思わざるを得ないものに相手を付き合わせるのが申し訳ないと思ってしまう。そうであるのならば、イップスを回避するように、自分の感情と相手の感情を言語化することで、相手への好意と自分への好意を明確にし、そこに生じる誤差を考えてみようと思った。

 

自分の人生において、何においても言語化することが鍛えられたのは、大学で建築のデザインを考えたときであった。前にも書いたが、建築のデザインとは芸術肌による感性で話が片付けられるほど、簡単なものではない。その作品がどんなアンチーテーゼを説いているのか。一握りの天才の感性に任せていただけでは、学問として成り立つことはないため、建築のデザインを批評し分析する言葉を探すのは、とても簡単なことであった。いろいろな本を読み、実際に建物をみて、自分の中に生まれる感動と、それを批評する言葉との擦り合わせを続けることで、自分の感情すらも描写できるようになった。それは自分の人生においては、大きな変化である。いいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、自分に向いていたのだと思う。

 

自分の主体性を探し続ける中で感じたのは、自分の目指しているものは、HUNTER×HUNTERのジンのイメージがぴったりということであった。「今、目の前にないもの」。高校で死ぬほど部活をやって、関東大会を決める試合に勝ち上がり泣きながら笑いながら抱き合った瞬間が、自分の人生で一番嬉しいものである。厳密にいうと、勝ち上がった結果そのものではなく、関東大会のホテルで夜遅くまで太鼓の達人をやって顧問からめちゃくちゃ怒られるという、ふざけた奴らと勝ち上がったことがである。その当時は、がむしゃらにやっていただけであって、あまり実感としてなかったのだが、自分の気持ちを整理していくと、自分が自分でいてもいいと思える場所にいたいという気持ちが強い。今も仕事で苦労を重ね続けているのは、そんなものに憧れているからである。ずっとここではない、何かを目指し続けている。何かを目指す過程で、ふざけながら一緒にいてくれた人たちが、自分のもとめていたものであった。偏見でしかないのかもしれないが、女性にとって、自分が大切にしているものはそんなに重要度は高くはない。夢みがちなその姿勢に対して好意を持たれる理由もわからなくはないのだけれども、関係性を続けて行くためにはもっと直接的な個人的な繋がりを欲しているのだと思っている。「私のことを見て」。でも、それを与えることができない。2人の関係性を構築することは、自分にとって目的ではないからだ。自分自身の目的のために女性を利用するというほどずるくもないし、関係性の構築が目的ですと言えるほど自分をごまかせる自信はない。いつも自分は教室の窓から片肘をついて外の景色を見続けているようであり、女性は相対する人を両肘をついて真正面から見続けているような違いが感じられた。根本的に見ている方向が違う。その視線のずれがあるからこそ、恋愛ができないと思っている。そう頑なに思い続けているからこそと言った方がいいのかもしれない。

 

生きるうえで皆が皆それぞれの役割を遂行する。できる人もできない人も、まじめに生きる人も非行に走る人も、男も女も、遠くを見る人も目の前を見る人も、いろんな役割があって社会が成り立っている。自分は遠くを見続けているがために、足元が疎かになっているような気がするのだが、足元を照らしてくれる人がいるのであれば、うまくチームとして機能する気がする。今度機会があれば、個の役割とそれの集合である和の役割の観点からメリットについて強調することで、女性を口説いてみたいと思う。

 

自分は受動的であると思っていたけれども、求められる役割を全うしているうちに、自分の中から芽吹いた主体性を感じ取ることができるようになった。たぶんそれは、もともと自分が持っていた、何をしたいという主体性が、この世の中のどこに位置づけられどの方向を向いているのかが、感情を描写していくことで、分かったのだと思う。生きる方向性を見つけたと言ってもいい。まだ将来など、どうなるのかは全く分からないけれども、その芽をこっそりと大切に育てていきたいと思う。