川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

二元論

幸せになりたいと誰よりも思っているはずなのに、常に佳境に立っている。平穏を手に入れるがために、苦難を歩んでいる。心静かに過ごすためには、何よりも先に動じなければいけないと思っている。少しは苦労を経て、人の感情が理解できる大人にはなったと思う。でも、たまに何のために生きてるかが、わからなくなる時がある。

 

幸せというと、公園で子供と親が手をつないで歩いているイメージが真っ先に浮かぶ。奇のてらいのない屈託のない顔で笑う様子だ。明るい日差しの中で心に不安がなく、日々満たされていなければ、その幸せを享受することはできない。生まれや環境も大きく影響すると思うが、幸せを享受できるのはある種の才能であろう。自分に当てはめてみようとたまに思うのだが、そうであることをいつも受け入れることができない。何かをしていても、今抱えている不安を常に考えてしまう。幸せで笑っている人をみると、それと同じくらい辛く苦しい人がいると考えてしまう。たまたま今までは平穏に暮らせているが、必ずどこかでそうでない時が現れる。そう考えると、自動的に苦難の道に転がり込んでいく。

 

考えすぎるなとよく言われる。考えようがしまいが、何も進みなどしない。休みの時は自分の時間を切り分けて女でも見つけて遊びに行けと。その通りでしかない。言いたいことは重々承知している。でも、根が臆病ものなのだと思う。明日には刑務所に入っているかもしれない。家が爆発するかもしれない。海王類に腕を食われるかもしれない。世界が核戦争の渦に飲み込まれるかもしれない。何があるかわからない人生に対して、無駄に考える時間を割いている。様々な状況を考えて、それらの感情を先に引き受けると言えば聞こえはいいが、いつも何かしらの不安を恐れ、恐れるからこそそれに対応できるよう自ら苦難に入り込んでいる。ただ、そこに割いた時間の分だけ、漠然とした不安に対する感度は高い。何かに対して漠然と不安を抱いたときに、その不安が実体となって現実の自分に降りかかり、それが不安の原因だったのかと理解することがよくある。その微かな不安も、先に理由がわかるようにもなってきた。理由がわかれば対策もうてる。物事には悪い面もあればよい面もある。どうあがいたって自分の臆病な感情を変えることができないのであれば、その感情を受け入れて、あきらめて生きるしかない。

 

弱い犬ほどよく吠える。人の心理は態度と逆説的にとらえられるように、臆病だからこそ平静を常に装っている。そして何事にも動じない人だと、周りから認識されている。でも初めての環境に立つといつも、誰よりも動じている。動じ続けて動じ続けて、すべての周りの感情を察知して、疲れてしまって、動じなくなっているのが本当のとこだろう。それは麻痺しているというのかもしれないし、心を失っているというのかもしれない。何かの危機的状況に直面した時に、逃げもせず隠れもせずかといって対策を打てるわけでもなく、ただ立っていることがよくある。いつかはできるようになると自分を信じてはいるが、どうこうしたくても今はできない。でも逃げるわけにはいかない。そうであるのならば、そこに立つことしかできない。経験的に案外自分が頑張りすぎなくても、怒られるか助けられるかしてどうにかなるものだと知っている。別に命を取られるわけではないのだし、時間が解決することなどいくらでもあると頭ではわかっているのだが、しんどいと思う状況に変わりはない。常に佳境に立っている。

 

佳境に立つことが多くなるにつれて、自分の感情すらも俯瞰的に見ることができるようになった。俯瞰的に見てしんどい自分と、しんどいことを耐えて時間が解決していく自分とを2つに分けてみるようになる。そうこうしていると、ここまでは大丈夫だろうという線引きが、少しずつ上がっていく。そうやって平穏を取り戻していくうちに、あいつならこれを任せても大丈夫だろうという、不確かな期待を背負わされる。地獄の循環の始まりである。何かをできるようになるにつれて、できないことを背負わされて、結果的にできるようになる。確かに筋肉はついているのだが、その繰り返しは精神的にであれ肉体的にであれ疲弊を残す。どこまでやっても限りのないその循環を永遠と背負い続けることになる。そんな話をしていると飲み屋のおっちゃんに言われた。「いつまでその十字架を背負い続けるのか」と。

 

好きな本に九鬼周造が書いた「いきの構造」という本がある。大正時代から読み続かれているだけあって、説得力が段違いなのだが、「いき」とは垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)なのだという。「いき」の根底には色恋があり、それをはねつけるだけの心の強さがあり、真剣さを免れるためのあきらめが必要なのだという。それはまさしく2元論である。色恋を手に入れてしまった瞬間に、残りの2つは失われる。色恋をはねつけるだけの、諦めと心の強さを持たなくては「いき」ではない。色恋を求めるために、「いき」になった部分が少なからずあるというのに、「いき」であるためには色恋を手に入れることはできない。「いき」な男には、恋焦がれる女の人に対して背中を向けながら「風邪ひくなよ」と一声かけて去っていく情景しか思い浮かばない。

 

幸せとは「いき」ではない。その幸せという安堵を手に入れた瞬間から、何かしらの部分で腑抜けてしまうのは否めないだろう。幸せになりたいと思ってはいながら、その幸せを脅かす何かに常に緊張しており、その状態を観念して諦めて受け入れるその動態こそを「いき」というのだから。どこまで追い続ければいいのだろうか。どこでどちらかを選択するその線引きをすればいいのだろうか。死ぬ前に幸せだったと、ふと思えればそれでいいのだろうか。

 

思えば常に大人になりたいと思っていた。どこまでいっても、たどり着けない自分の中の大人のイメージを探るように、ただひたすらに向かっていった。それを求めれば求めるほど、苦難を引き込んでいるような気がする。自分にとって大人とは自分の足で立っているというただの漠然とした概念である。そんなことないよ。誰かにすがってもいいんだよ。巷でよくうたわれてはいるが、いったんそこに腰かけてしまうと立ち上がれなくなるではないかと、勝手に恐怖をしている。誰かとともに同じ方向を向いて歩んでいけるのであれば、それがいいとわかっているのだが、今のこの荒んだ生活に誰かを巻き込むのは心苦しい。挫折と苦労の分だけ自己評価は低い。シンガポールを1代で作り上げたリークアンユーはこのように言っている。「人生の大半をこの国のために費やしてきた。私がすべきことはこれ以上ない。人生を通じて得たものはシンガポールの成功。諦めたのは自分の人生だ」と。時には自分の人生をも犠牲にする人もいる。

 

 これから先佳境に立たされるたびに、なんのために生きているのだろうかと、自分に問いただすことになるだろう。幸せになりたいのか。大人になりたいのか。自分の中で混じりあわない2つの命題を天秤にかけながら、見つめあいながら、程よい着地点を模索して行く必要があるのだろう。