川を枕にして石で口をそそぐ

日々曖昧にしている感情を言葉にする独り言のようなページです

表裏

ここにもたびたび書いているが、広義でとらえると同じ現象ではあるのに、コインの表と裏のように使われている言葉がある。「毒」と「薬」。薬の効用はさまざまあるため一概には言えないが、病気に抵抗をつけるための適切な摂取量の「毒」を「薬」という。温度や湿度や菌の種類を適切に管理された「腐敗」を「発酵」という。そこにあるのは同じ現象であり、言葉として認識されるのは正か負かの主観的なイメージだけである。適切に管理された負の現象を正としているのであれば、負の中に正のものが包含されているといってもよい。ある程度世の中を生きてきて、アニメやドラマで見るような、勧善懲悪されるべき「悪」というものをみたことがない。世の中を動かすのは、世の中をよりよくしたいという「願い」である。でもその「願い」がいつしか「呪い」に変わることがある。「愛」と「憎」にしても、そこにあるのは相手に対しての明確なエネルギーである。言葉遊びにすぎない考えであるが、適切に管理された「呪い」を「願い」というのかもしれない。大切なのは、誰かに対しての想いは常に負の側面を引き起こすことがあると、自分を省みることである。

 

自分はひねくれているとは思うのだけれども、それはいつもバランスをとっているからである。盛り上がっている集団の中では静かな自分を演出し、静かな集団の中では、活発な自分を演じる。なぜそうなったのかとは言い難い、そのバランスの取り方は昔からである。これは生命が集団として存続を続けていくための、遺伝子のせいなのだと思っている。同じ方向を向いた組織は、うまくいっている時はいいが、どうしようもない時に脆い。平常時と非常時とは違う行動が求められる。誰に言われたわけではないけれども、よくわからないことをして、よくわからない方向を向くことで、いつかのどこかからくる何かの危機に備えている。好きという気持ちを明確に向けられると、そっと引いてしまうのは、その唐突にわいた気持ちがいつの日か憎しみに変わる予感がするからである。その気持ちは、僕自身に向けているのではなく、好きという感情を持ちうる自分に対して向けているのではないのかと、そっと一考を促している。ここにこうして言葉として感情を書き残しているのは、自分の想いがどちらの方向に触れているのか確かめているためである。「あなたのためにやっているのに、なんでわかってくれないの?」愛憎を描いたドラマによくあるセリフではあるが、ここまで極端なわけではないけれども、客体の感情とすれ違う、主観的な感情が引き起こす不幸に、現実の世界でもよく出くわす。

 

儒教の中に「中庸」という概念がある。偏ることのない「中」を持って道をなす。という概念である。あまり真面目に理解しているわけではないのだが、自分の感覚に落とし込めば、冷静と情熱の間である。冷静さを知っていて、情熱さも知っていて、初めて自分の感情の起伏のコントロールができるようになると思っている。どちらかのみしか知らないのでは、勢いかブレーキかどちらかのみの傾向になる。文章を考えて書くという性質上、ここに書かれている文章はかなり冷静な方には寄っているが、実際の行動においては、割と突飛な情熱的な行動をする。冷静と情熱を客観と主観や論理的と感情的と置き換えても意味は通じる。

 

愛を感じている人間から死ぬ間際に繰り出される言葉は、「呪い」である。もう取り戻すことのできない関係性の中で託された「願い」は人を縛り続ける。人の行動を縛り続ける「願い」は、たとえそれを発した本人が良いイメージを描こうとも、「呪い」のイメージがぴったりなのである。言葉としてそれを「願い」と認識するか「呪い」として受け取ることができるかで、その印象は全く異なる。重要なのはどちらの側面もあると認識し、その上に立って行動できるかなのである。

 

ジョジョの奇妙な冒険第6部に登場するエルメェスコステロは復讐について以下のように発言している。

「復讐なんかをして、失った姉が戻るわけではないと知ったフウな事をいうものもいるだろう。許すことが大切なんだという者もいる。だが、自分の肉親をドブに捨てられて、そのことを無理やり忘れて生活するなんて人生は、あたしはまっぴらごめんだし…あたしはその覚悟をしてきた!!復讐とは、自分の運命への決着をつけるためにあるッ!」

人の心を揺り動かす名言である。いいとか悪いとかそんな観点ではなく、復讐のいいことも悪いこともわかった上での発言である。情熱的に考え、冷静に時を経て、それでも風化することのない怒りを持ち続けるのならば、それは仕方のないことなのだと、理屈抜きに納得させられる。姉から託されたのは「願い」にも「呪い」にもなりうる。だが、エルメェスはその両方を引き受けて、自分の覚悟によって立つことを選んでいる。これは立派な中庸であると思う。

 

自分に当てはめてみると、母親との関係性がある。自分が母親と話しをしないのは、自分のことを話していく過程で何かを言われたとして、それが自分のためを言っているのをわかったとしても、それが自分に対して「呪い」となることを恐れているためである。人の力を借りることでしか生きることのできない弱い存在を、ここまで育ててくれたことに感謝はしているが、弱さを知り続けたその言動は常に自分に対しての枷になる可能性があると感じていた。「そんなことをしたら危ない。」「それは人の迷惑になる。」庇護という行為は、失敗するという無限の可能性を奪ってしまう。男と女はやはり違う変え方を持っており、違う役割がある。そして、その枷を持ち続けたまま生きていって、これができないのは母親のせいだと思った瞬間に、立派な人間になってほしいという「願い」は、あなたのせいでこうなったという「呪い」に変わる。エルメェスのような覚悟を持てず、何かを母親のせいにしながら自分の人生を生きる。それは耐えられなかった。親孝行という観点からも、将来的なことを考えた上で、母親と仲良くすることと天秤にかけた時に、母親とは話さないことを選んだ。誰かを呪いながら生きていたくはないし、失敗や苦労も含めて自分の人生は自分のものだと思いたかった。だからこそ仲が悪いという訳ではない。よくわからない子供だと思われているだけである。

 

考えてみると、不思議なことである。今であれば言葉をしっていて、経験もさまざましているから理解できるのだが、こんなことを小中高とわけもわからないままに選択しているのである。スティージョブズの有名なスピーチで、「And most important, have the courage to follow your heart and intuition」

といっている。少なくとも、あの時の少年は今書いてあることを直感に従って心で感じ取り、実行するだけの勇気を持っていた。

 

中高でたまに言われた。「頭がいいね。」自分ではなんでそう思われるのか、とても不思議であった。努力はしていたけど、その成果をえらえるために時間はかかっていたし、目に見える成果を出し続けていたわけでもない。創造力があるわけでも、応用力があったわけでもない。でも、無意識のうちに、ここに書かれているようなことを実行していたのだとしたら、頭がいいと今思う。そしてそういうものを何となくでも人は感じ取れる直感があるのだろう。

 

この世の中には、すれ違いによる悲劇がたくさんある。子供への想いも、上司からの想いも、恋人への想いも、根本に存在する「願い」からは逸脱した結果になることがある。そもそものその根本の「願い」が適切に認識し設定されてはいない時もあるのだが、自分の相手に対する行動とその根底にある感情を整理して、負の側面も捉えた上で「中庸」をいくことで、そして誰のものでもない自分自身の覚悟を持つことで、誰かの何かが、少しでもよくなるのではないかと思っている。